モーニング
「おはようございます、今日も早いですね」
「おはよう、綾部。いや、もう日課のようなもんだよ」
「谷町さんが毎朝一番に出勤してる理由って何かあるんですか?」
それは、二番目に出勤してくるお前と始業時間まで煙草をゆっくり吸いたいからだ。なんて言えたら、どんなに楽だっただろう。
「いや、ただ単に早起きしてしまうだけなんだ。ショートスリーパーなだけ」
「いいなぁ!ショートスリーパー!俺、憧れなんです!」
「はは……。そんなにいいものでもないよ、人間年を取るとみんな睡眠時間が短くなるし」
いやいや、と一回り以上も年下の彼はかぶりを振った。
「谷町さんだってまだ四十二じゃないですか。まだまだ若いですよ」
「二十五の若造の君に言われたくないなぁ、綾部くん」
「ハタチ過ぎても何も知らなかった俺に、お酒とタバコを教えたのは谷町さんですよ」
「はは……そうだったかな……。俺ももう歳だから、ようわからんわ。綾部、朝イチの一服いくかー?」
「はい!谷町さん!」
そうしてジャケットを脱ぎタバコとライターを持って誰もいない朝の喫煙所に向かうのも、二人の日課だった。
物心ついた時には、もう男が好きだった。初恋は、中学二年生の時、クラス替えで同じクラスになった陸上部のエースだった。誰とでも分け隔てなく接する彼は、根暗で引っ込み思案な俺にも話しかけてきてくれて、朝練に打ち込む彼を見たくて、毎朝一番に学校に登校していた。
遠くから見るだけで良かった。想いを告げようなんて一ミリたりとも思ってなかった。でも周りからしてみたら、そんな彼を見つめる自分の視線は異常だったのだろう。
ある日、そのクラスメイトから放課後校舎裏に呼び出された。
「なぁ。お前って、俺のこと好きなの?ずっと俺のこと見てるって、周りの奴らが言うんだけどさ……その……お前、ホモなの?」
「えっ……あ……ご、ごめん……そんなつもりなくて……」
「ホモなの、否定しないんだな」
「あ……その……」
「気持ちわる」
「っ……!」
そう吐き捨てる様に言って、去っていった。それ以降、彼とは卒業式まで二度と会話をすることがなかった。もちろん、卒業後も、同窓会でも顔を合わせることはなかった。
それ以来、自分が異端者であることをひた隠しにして生きてきた。最近はLGBTQとか言って受け入れてもらえている同族もいるが、自分が若い頃は同性愛者というだけで気味悪がられたり、好奇の目で見られたものだった。
大学生の頃は、新宿二丁目に憧れを抱いていた。初めて聖地に降り立ったのは、就職を東京の会社に決めて、地方から引っ越してきた時だった。所謂【発展場】と呼ばれる所に行って、ドキドキしながら声をかけられるのを期待していた自分がいた。
その後、無事に年上の男性に優しく手解きを受けたわけだが、こんなに若い子があまり発展場に来ちゃいけないよ、と釘を刺されてへこんだ記憶もある。それでも僕は非処女になりたかったと言うと、君はネコじゃなくてタチの気があるから、食べられるより、食べる側に回った方がいいよとアドバイスをもらってからは、どういう風に男を悦ばせるかを体現しながら学んでいった。二十五を超えたら、もうその界隈では、自他共に認める立派なタチになっていた。経験人数はもう覚えていなかった。
そんなねじ曲がった人生を歩んできたからか、性癖も歪みきっている。所謂、童貞かつ処女が堪らなく好きだ。何色にも染まってない純白を、己の欲で穢すのがこの上なく至福である。
綾部もその穢れなき白だ。しかし自分は、綾部を穢したくないと思ってさえいるのだ。こんな気持ちは初めてかもしれない。いい年した穢れきった中年が、今更恋しちゃいましたとか寒気がするにも程がある。
「いやいや、あり得ないだろ。寒すぎる。いくらなんでも自分よりも一回り以上も年下だぞ……。好きとか、ないだろ、ふつーに考えて」
「何ひとり言ぶつぶつ言ってるんですか、谷町さん?」
「えっ?お、おう、なんか言ってたか、俺」
「一回り以上も年下とか、好きとか、聞こえましたけど」
「あー……。なんだその、アレだよ、アレ。経理の、可愛い子だよ。名前なんだったっけか、山中だったか?」
「好きな人の名前も知らないんですか?苦しい言い訳ですね」
綾部、妙になんか突っかかってくるな……。煙草の煙が喫煙室に漂い、空間が白く濁ってゆく。そして、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けて綾部に向き直る。
「綾部。お前は……誰かと、身体の関係を持ったことは?」
「ないです。なんで、そんなこと聞くんですか」
谷町は目を伏せる。
「俺は……そういう人じゃないと愛せないんだ」
綾部が息を吞む。
「じゃあ、俺をどうしたいんですか」
「ーー何もしたくない。散々今まで奪ってきたが、お前を穢したくない。触れたら、お前の‘‘初めて‘‘が壊れる気がする。でも、離れたら、息ができない」
沈黙の中で、煙だけが揺れている。綾部が谷町に一歩近づき、ふわっと大きく煙が揺らいだ。そして、そっと谷町の頬に手を伸ばした。触れるか触れないかの距離で、彼は言った。
「じゃあ、触れないまま、愛しましょう。あなたの罪も、俺の純粋さも、全部この距離で守ればいい」
谷町は目を閉じた。涙の代わりに震える笑いが漏れる。
「……そんな愛が、あるのか?許されるのか?俺は」
「今、あります、ここに。大丈夫、俺が全部許しますから」
綾部の手が、空気のなかで止まる。触れていないのに、確かにそこには温もりがあった。
翌朝、喫煙室にはいつも通り煙を絡ませている二人の姿があった。
「この距離、守れるかな」
谷町は自信なさげに煙草をくゆらせる。綾部は微笑んで答えた。
「守るんじゃなくて、育てるんですよ。触れないまま、ちゃんと」
二人の間に絡まる煙と視線がゆっくり重なった。触れない愛の形が確かにそこにあった。
完




