第2話 豹変彼女。
ファミレス。
イトとアリスの目の前には、にっこり笑顔の神山と、神山の腕にしがみついて甘えている、村崎。
なんだかよくわからない状況である。
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数十分前。
「ななな、なんでムラサキちゃんとカミが一緒にいるんだよ! おかしくね?! だってほら、カミって今日からこの学校に通いだしたんだろ?! なんでムラサキちゃんゲットできちゃうわけ?! イトどうすんの?! ねえどうすんの?!」
「落ち着けアリス。幻覚だ……きっと幻覚だよあはは……」
「イトこそ落ち着け!」
わーわーと慌てているイトとアリスのことはいざ知れず、神山と村崎は校門を出て、通学路へと消えていく。
「イト、イト! ムラサキちゃん行っちゃったよ! どうすんだよお?!」
「く……! アリス、追いかけんぞ!」
「おう!」
鞄を引っ掴み、イトとアリスは廊下へ飛び出した。神山を捕まえて、それからどうしようかなんて考えてはいない。とりあえず、パニックを起こしているイトの脳は『神山と村崎を追いかける』としか判断しなかった。
下駄箱に上履きを投げ入れ、ローファーを地面に叩きつける。履いて、ズボンの裾を少しだけ上げてから、イトは駆けだした。
「い、イトー! 待ってー!」
アリスごめん、待ってられない! と心の中で叫び、ローファーではなくスニーカーをもたもた履いているアリスを振り返らずに、ただひたすらイトは走る。
「ちくしょー神山の野郎、何考えてやがる!」
最初見たときから、神山のことは気に入らなかった。アリスは神山に言われた通り『カミ』と呼んだが、イトは呼ぶ気にもなれなかった。それはなぜか。――こういうことだ。神山のことは、イトの本能が気に入らなかったのだ。村崎を奪われてしまうのではないか、とイトの本能が警告していたのだ。
イトは校門を出て、神山と村崎が曲がったであろう左に曲がって走り続けた。あとからスニーカーを履いたアリスが追いかけてきている気配がした。
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「見失った……」
駅前まで必死に走ってきて、イトの学ランの下のYシャツは汗でびしょびしょだった。しかし、あろうことか神山と村崎を見失ってしまったのだ。
あとから追いついたアリス(汗まみれ)も、息を切らしながら辺りを見回す。小都会の志戸瀬駅周辺は、会社員や学生でいっぱいだ。アリスにも二人は見つけられないようだった。
「み、見失ったな。イト、どうする?」
「どうするって……」
「やあ、イトとアリスじゃないか! 二人ともそんなに息を切らして、どうしたというんだ? ……事件か?!」
いつの間にか、神山がイトとアリスの後ろで涼しい顔をして立っていた。その隣には、紛れもなく、村崎桃子が少し拗ねたような顔で神山の袖を掴んで立っている。
「カミー! 探したんだぞお前っ」
「ん? 俺をか? なぜ探したんだ?」
「神山、ちょっとファミレスに入って話さないか?」
「え、今からか? うーん……モモ、どうする?」
んなあああ?!
イトは目の前が真っ白になる勢いで叫びをあげた(心中で)。神山は今、村崎のことを「モモ」と呼びやがった。なんでそんな親密になれたのか。村崎ってそんなに軽い女だったのか。イトの心はもうすでに傷だらけだった。
「私は……カミとずっと一緒にいれるならどこでも行くよ」
村崎が神山に向かって、ほんのり染まった頬で告げる。イトにとっては致命傷を負わされた気分であった。
「そうか。だそうだ、イトにアリス。ファミレスはどこにあるんだ?」
「よし、行こう! ……イト?! しっかりしろ」
アリスが握った拳を解かないイトの腕を掴み、引っ張った。イトはハッと我に返る。しかしまだ、胸中はふつふつと沸いていた。
「イト、いいな……まずはゆっくり正確に、だぞ」
アリスがイトの耳元でひそひそと話す。神山はそんな二人の後ろ姿を、にこにこ笑顔で見つめていた。
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さて、冒頭に至る。
駅近くのファミレスに入り、10分ほど経つが、4人のうちの誰一人、まだ口を開けないでいた。平日のこの時間帯に一番安いドリンクバーだけが消費されていく。
「ねえ」
最初に口を開いたのは、以外にも村崎だった。ずごご、とメロンソーダを飲み干した彼女は、ストローの先で氷をくるくる回しながら、イトとアリスを睨みつけた。
「意味がわからない。私とカミ、なんかした? ラブラブで何か悪いことでもあるの?」
今日の朝、遅刻して教室に入ってきたときの明るい太陽のような顔とは一転し、冷やかな顔つきである。目から放たれた鋭い眼光が、イトの胸をぐさりと貫く。
「いや、あのねムラサキちゃん――」
「ムラサキチャンなんて気安く呼ばないで!」
「あ、はい村崎さん……」
アリスが村崎をなだめようとしたが、失敗に終わる。しょぼん顔でアイスコーヒーを飲むアリスを、イトは気の毒に思った。そして、思い切って口を開く。
「村崎には、席をはずしてほしい」
「え? なんで?」
声を上げたのは村崎でなく、村崎にもたれかかられている神山だった。きょとんとした彼は、なんだかよくわからない「健康ジュース」なるものを一口飲み、村崎の肩に手をまわした。
「お前……っ」
握った拳を振り上げそうになったが、なんとか我慢して、グラスに半分ほど残っていたコーラを一気に飲み干し、ふう、と息をつく。
「えーと神山、お前俺に、『夢を見てないのか?』と聞いたよな。そのことで、話がある」
「だってイト、『見てねえよ』って……」
「思い出したんだよ! だからっ」
「村崎がいちゃだめなのか?」
「村崎には関係ないだろ!」
「だったらアリスにだって関係ないだろう」
「それは! ……それは、うん、確かに」
「ちょ、イト!」
「もーほんと意味不明! 帰ろうカミ!」
痺れを切らした村崎が立ち上がり、鞄と伝票を掴んでもう一度二人を睨みつける。
「お会計、私が済ませてあげるから、今後一切近寄らないでよね!」
その鬼の形相に、ビビるイトとアリス。村崎はふん、と鼻を鳴らし、そそくさと立ち去った。
神山も、後をついていくようだ。
「イト、アリス、また今度話そうな。今日はちょっと」
頭の後ろを掻く。まるでイトとアリスが神山と話せなくていじけているような構図であった。茫然と座っていたイトは、「あ、もうだめだ」と呟く心の声を聞いた。ような気がした。
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糸宇家の夕食は早い。ほとんど毎日7時に家族全員がテーブルにつき、一緒に食べ始める。
「歩頼、新しいクラスはどうだった?」
茶碗を片手に、今年50歳を迎えるイトの母親が聞いてきた。
「普通だよ。担任もクマだし」
「また熊井先生なのぅ! 良かったじゃない。お母さんは熊井先生すきよ」
「俺も好きでも嫌いでもないから別にいいけどね」
「そろそろ大学のこととかも考えなきゃよね」
「えー? まだよくねえ?」
イトは白米を箸でつかんだまま抗議する。母はにこにこ笑っているだけだった。母の隣で、次は父が口を開く。
「ところで歩頼、お前、あのお方には会ったのか」
「はあ? あのお方って誰のこと?」
「会っていないのか……。ふむ、わかった」
Yシャツにスラックス姿でビールを飲む父は、銀縁の眼鏡の奥で何か考え事をしていた。そういえば、とイトはふと思う。父は、正月あたりからなんだか気を張っていて、落ち着きが無いように見える。仕事が忙しいのか何だかわからないが、なんとなく忙しないというか、夕飯を食べているこの時間でさえ惜しそうな顔をしているのだ。なぜなのか、イトには全くわからない。
「なるべく早めに会っておきなさい。その方がいいだろう」
「だからー、誰にだよ?」
イトは、いらいらしていた。神山事件のことが気がかりで仕方ない。早く食べ終えて、松前にも電話で話を聞いてほしかった。
「歩頼、イライラしてんじゃないわよ。うっざい」
イトの隣で、姉の美頼が、女とは到底思えないような低い声で呟いた。真っ赤なタンクトップに黒のショートパンツ姿という大胆でセクシーな格好の姉は、濃い化粧を施した白い顔でイトを睨みつける。
「あんた、あたしの気も知らずに……」
涙目になる。嗚咽を漏らしながら、姉は泣き出してしまった。
「え、何?!」
「彼氏にね、ふられちゃったらしいわ」
母がにっこり言うと、一層大きな泣き声をあげて姉が咽ぶ。父はまだ何か考えているし、母は泣いている姉を目の前に笑顔だし、姉は大粒の黒い涙を流して妖怪のようになっているし、イトはわけがわからなくなり、食べ終えた食器を静かに重ねて「ごちそーさま……」と呟いて足早にリビングを後にした。
今夜は月がきれいだ。月明かりだけで十分に明るい家の廊下を、イトは携帯を見ながら歩いた。イトの家は広く、リビングから自分の部屋までは庭の真ん中を通る渡り廊下を歩かなくてはならなかった。少々面倒くさいが、イトはこの廊下が意外と嫌いではなかった。
「えーと、松前伊織……」
携帯の電話帳から松前の番号を探し出し、通話ボタンを押す。
『もしもーし』
「あ、松前? おれ、イト」
明るく聞きなれた松前の声がして、イトは少し安心する。ようやく行きついた部屋の電気をつけ、ベッドに腰掛けた。
『知ってますよ! アリスから大体の話は聞いた。あたしね、今日モモのアドレス教えてもらったから、教えてあげるね』
「え、まじ?! ……あーでも、俺嫌われたっぽいからなあ」
『なぁに言ってんの! あの子は人を嫌いになったりするような子じゃないよ。優しいし、気が利くし。あんたが好きになる理由もわかった気がするね』
「俺もそう思ってたんだけどさ、なんか今日喋ってみたら全然違ってたって言うか……」
今日のファミレスでの村崎の冷たい目を思い出すと、イトは今でも泣きそうになってくる。
「何かあったのかな、村崎……」
『もう、イトらしくないよ! とりあえずメールでモモのアドレス送るから待ってて!』
「あ、うん……。よろしく頼む! んじゃ、明日な!」
『うん!』
電話を切って、松前はいいやつだなー……とイトは笑顔になる。部活で疲れているだろうに、イトを励ましてくれる。中学の時から女子とあまりにも交流が無かったイトだが、松前とはすんなりと打ち解け、素直に話すことができた。……これは、松前が生まれ持った才能なのだろう。
携帯がベッドの上で振動する。開けて表示を見てみると、松前からのメールだ。
「ん、『今日アドレス教えてもらったのに、今日アドレス変更のメールが来たんだよ。なんでだろうね(笑)』……。ははは、なるほどね」
松前の文の下に添えられていたアドレス、『kami-lovelovelove.momo……』は、おそらく、いや、確実に村崎のものだろう。
イトは寒気がした。
つづく