4.義姉曰く、私は聖女らしい
あの螺鈿細工を受け取ってから、数ヶ月が経った。
何の気なしに侯爵家の庭園を散歩していると、庭園の隅でたまたま二人の姿を見かけた。
義姉を抱き締める殿下と、殿下の胸で涙を流す義姉。
二人はまるで、物語の中で愛を確かめ合う恋人同士のようだった。
その日、家に殿下が来ていることすら知らなかったので、偶然見かけたと言うのは本当だ。
この頃にはもう、義姉が殿下と会う時、私を呼ぶことはなくなっていた。
「殿下は、ビビがお好きなのではないですか……?」
タイミングが良いのか悪いのか、義姉の口から聞こえてきた自分の名前。
立ち去ろうと背を向けていたけれど、思わず立ち止まり、聞き耳を立ててしまう。
「私が好きなのはリアーナ、君だけだよ」
「ですが私は、殿下に愛していただけるような人間ではないのです」
「君の過去は分かってる。それも含めて、私は君を愛してる。君は十分反省し、償ってきただろう?」
「殿下……でもっ……」
「ビビだって、あんなに君のことを慕っているじゃないか。君はもう許されて良いんだ。君が許せないと言うのなら、第一王子である私が許そう。だから、そろそろ私の気持ちを受け取ってくれると嬉しいな」
殿下の言う過去とは、義姉が私を虐げていた日々のことだろう。
殿下がそれを知っていることにも驚いたが、何よりも私の心を締め付けたのは、義姉の辛そうな表情だった。
義姉は私との過去を悔やみ、苦しんでいる。
私のせいで、苦しんでいる。
それは失恋の痛みなんかよりもずっとずっと痛く、私を絶望させた。
と同時に、私の中から殿下への恋心が完全に消え去っていくのを感じた。
これまで多くのことが原作とは変わってきているが、私のこの心境の変化も、その内の一つと言えるだろう。
義姉はずっと「ビビがヒロインで、殿下がヒーローなのよ」と言っていたけれど、そうではなかった。
もちろん変わらないもの、原作通りに進む事柄もあった。
殿下は視察に行ったし、お土産を買ってきてくれた。
侯爵家は人身売買に手を出そうとした。
私も、一時的ではあるが殿下を好きになった。
二人が婚約者になったのも、原作通りだ。
結果は変わっても、その過程は原作通りに進んでいる。
義姉はそうした原作と変わらない部分について、未来はこうあるべきという絶対的な何か……強制力のようなものが存在するのではないかと言っていた。
その強制力によって殿下と私が結ばれ、義姉は処刑される。
義姉はいまだにその可能性を捨てきれていないのだ。
だからだろう、彼女は一つの提案を持ちかけた。
「あと一年待ってはくれませんか。一年後も殿下が私を好きでいてくれたなら……その時は私、あなたの気持ちを受け入れられると思うの」
「分かった。リアーナがそれで安心できるなら、私は待つよ」
一年後、私は十六歳になる。
義姉曰く、私が聖女として覚醒する年だ。
そして、義姉が断罪される年でもある。
私は、原作通りの未来はこないと知っている。
だって当事者である私にその意思がないのだ。
仮にあったとしても、姉は原作で行われていたような悪事を働いていないので、あのような惨い罰を受けることにはならないはずだ。
……だから、どうか義姉には安心して欲しい。
怯え、恐怖することなく、心安らかに日々を過ごして欲しい。
しかし私の思いとは裏腹に、私の誕生日が近づくにつれ、義姉の表情は硬くなる一方だった。
いつもどこか緊張したような面持ちで、しきりに「私は良い姉でいられてる?」だとか「お願いだから断罪はしないでね」と言ってくる。
それが私にはたまらなく辛かった。
今にも義姉の心が決壊してしまうのではないかと、不安で仕方なかった。
「私は、お義姉様こそがロジェ殿下に相応しいと思っています」
義姉にそう伝えたのは、少しでも彼女の気持ちを楽にしたかったからだ。
私はいつも義姉の言葉に従うのみで、殿下への気持ちを明確に伝えたことはなかった。
「えっ……でもビビは殿下のことが好きなんじゃ……」
「殿下とお会いしたら、きっと好きになると仰っていましたもんね。私がこのようなことを言うのは恐れ多いのですが……そんなことはありませんでした」
「本当に?」
「はい。だからお義姉様、大丈夫です。今後も原作通りにはならないし、私がさせません」
「ビビ……」
「私が原作のようにお義姉様を断罪するなんてこと、絶対にありませんから」
「……えぇ、分かってるわ。でもね、怖いのよ。これまでどれだけ頑張っても、回避できない未来はあった。だからビビが聖女になって、その後も何事もなく過ごせたら、そこでやっと安心できると思うの」
弱々しく微笑む義姉は、私が聖女になることを確信しているようだった。
けれど彼女とは対照的に、私は自分が聖女となることに懐疑的だった。
義姉曰く、私はヒロインで、義姉は悪役令嬢で、殿下はヒーローで。
果たして本当にそうなのか。
初めてこの話を聞いた時から、ずっと思っていたことだ。
そもそも義姉が未来の記憶を持っている時点で、原作とは大きく異なっている。
これほどの違いが発生しているのであれば、私が聖女である未来も変わるかもしれない。
もしかすると義姉が聖女となる可能性だってあるのではないか。
現に今、ヒロインとヒーローの関係性も崩れてしまっているのだ。
……しかし、そんな私の心配を他所に、その時はやってきた。
十六歳の誕生日、私は聖女として覚醒したのだ。