9.
「で、先輩。何で蔵に?」
もう一度疑問をぶつけると、梓はそれに答えることはなく、本棚たちが並んで作っている通路を進んでいく。美凪はその背中に駆け足で追いつくと、シャツの裾を掴みながらついていく。
「ねぇ先輩……」
さらに質問を重ねようとすると、ふと美凪は違和感に駆られた。
蔵の奥行きは、一〇メートルもなかったはずだ。しかし二人は、その距離など既に歩き切っている。その視線の先には、まだ数えられないほどの本棚が立ち並んでいる。
「大丈夫。もう出られるから」
そう言って立ち止まった梓の背中に、美凪はぶつかってしまい「んぎゅ」と情けない声を上げてしまう。
ふと左を見ると、本棚同士の間に木製のドアがあった。ノブに手をかけて開けると、事態を呑み込めない美凪の手を引いて、そのドアをくぐった。
茹だる湿度と気温が肌に戻り、不快感が再燃した。耳には人々の喧騒が聞こえ、少なくともここが蔵の中ではないことが分かる。
「ほら、着いたぞ」
次いで鼻を刺す独特の香り。美凪はこの香りを知っていて、たまに特定の場所を通る時に嗅いでいる。
「……えっ、何で商店街の本屋さんに?」
先程までいた山の屋敷から、九井市の商店街までは直線距離で約三km程度。交通手段での距離となればその倍以上である。その距離を、彼らは一分にも満たない時間で下りてきたことになる。
美凪は今の状況が理解できず、瞬きの回数がどんどん加速していく。
「この古本屋のオーナーは『図書館』なんだよ」
「いや、ここに辿り着く理由にはならないですよ」
ごもっともな意見に、梓は微笑みを返しながらさらに進んでいく。立ち並ぶ本棚の間を、美凪もついて行き、店外へ出ると見慣れた商店街の通りに出る。
「何て言ってたっけな……この店と『図書館』の蔵は、同じ座標に固定されてるんだと。だから、『図書館』が許可した人間は店と蔵を行き来できるし、その許可をもらったのは俺と結緑、相馬の三人になったってことだよ」
そうして、また二人は夏の陽射しの下へと戻ってくる。肌を刺す陽光が、少しだけ懐かしく感じてしまうが、一気に噴き出してくる汗がそれを払いのける。
蔵が古書店に繋がっているメカニズムが理解できず、そう言った梓自身も実は理解していない。神様だの、同じ座標に固定だの、結局のところ人間の埒外であるのは言うまでもない。
「……ねぇそれ、先輩だけここに来れば良かったんじゃないですか?」
「お前が来たがったんだろ。『図書館』が気に入ってくれたから良かったけど、ダメだったらまたあの山道帰る羽目になったんだぞ」
「それはそうなんですけど……汗かいた甲斐が、この帰り道の雑さでなくなっちゃったなって」
「贅沢言うんじゃねぇよ」
呆れたように肩を竦めると、梓が先導して商店街を歩き始める。その隣に追いつくと、さらに浮かんだ疑問を美凪は口にした。
「で、先輩。これからどうするんです?」
今回の被害者である丸山茜は、人魚の伝承についての研究を行っていた。下半身が鱗に覆われており、まるで人魚のようになって死んでいた。偶然というにはあまりにも出来過ぎている以上、人魚の伝承事態を調べるべきだという結論に至る。
「俺らが適当に調べるより、丸山さんの調べてたものを見た方が早い。だから、一旦相談所に戻ったら、先生に伝えて現場に入れてもらえないか聞いてみる。まあ証拠品や遺品としてほぼ押収されてそうな可能性あるけど」
下手に知識を持たない二人が、図書館やインターネットを用いたとして資料を集めるには限界がある。ましてや数年をかけて研究した情報源に心当たりがあるのだから、そちらを頼る方が現実的な解決法だろう。
「じゃあ、もしかしたらお部屋に入っちゃうかもしれない、ってことなんですね」
「……正直、お前に入ってほしくないけど」
「またそうやって私を邪魔みたいに……」
「そういうことじゃなくて……」
誤魔化そうとした言葉は、ぐっと飲み込んだ。ここで有耶無耶にするのは簡単だが、そうすれば美凪を蔑ろにしているのだと言っているようなものだ。
「じゃあ、何なんです?」
宝石のような鮮やかな瞳には、一年ほどの付き合いだがどうにも慣れない。
「……お前が、非日常である俺ら側に近付いてほしくないんだよ。だから、人の生き死ににも、出来るなら関わってほしくない」
本来高校生である梓と美凪は、今回のように警察からの依頼を受けて協力することはなく、事件現場に足を踏み入れる可能性も非常に低い。
「相馬は普通の人間のまま、お前らしく生きるべきだ、って俺と先生は思ってる」
だが梓は、彼が口にしている普通の人間とは程遠いと自覚している。何の力も持っていない彼女を、少なくとも梓はこれ以上近付けたくはないのだ。
「……私らしく、って」
美凪の手が、強く握られて小さく震える。
「それを決めるのは私です。そんなこと、先輩にも、先生にも、誰にも決めてほしくない。決めつけてほしくなかった」
大きな双眸が故に、その目力は相応以上のものだ。先刻まで組手をしていた梓だが、今まで見たことのない美凪の目に怯んでしまった。
「先輩のこと、好きだってちゃんと言い続けてますけど、こういう勝手な思い込みしてくるのは嫌いです」
珍しい拒絶まで受け、バツが悪そうに頭を掻いた。
「……悪い。そこまで怒らせるつもりはなかった。相馬のことを考えてるつもりだったんだけど、違う言葉を選ぶべきだった」
梓と美凪の間には、残念ながら圧倒的に時間が足りなかった。お互いを理解するための他愛ない会話をする余暇も。お互いをさらけ出すための積み重ねも。
「じゃあ寄り道してください」
何をどうすれば、その提案に行き着くのか。
「アイス食べながら事務所に帰ってくれるんなら、許してあげなくもないですよ?」
じと、と梓の視線が美凪に刺さる。そんな視線ですらも、美凪は笑みをこぼして嬉しそうに受け止める。
「お前、『図書館』のとこから出て暑いからだろ」
「いやいやまさか。先輩と夏休みのお散歩を楽しみたいだけですよ?」
山道を歩いていた時は暑さに文句たらたらだったというのに、こういう時だけどうして都合よく散歩に変換するのか。
罪悪感がある分、諦めたように溜め息を吐いた梓は、少し先にあるコンビニへと足を向けた。




