6.
「準備運動はしてきたか?」
縁側に『図書館』と美凪は並んで腰を下ろしており、梓が中庭に現れるのを待っていた。
靴を履いてくるだけだというのに、五分ほど時間を要していた。
「久しぶりにな。体の筋は軽く伸ばしてきた。いつもなら別にそんなことしなくても動かしてるけど、ここだとそんな雑に動くわけにはいかないからな」
ふふ、と笑いをこぼしてから、『図書館』は立ち上がって砂利を踏む音を鳴らす。
「先月、久しぶりに『鼓』を打ったと言っていたが、その時報告していないことがあるな?」
梓の歩みに、わずかに乱れが生じる。砂利の音が、それを知らせる。
「乱すな、心を。図星を突かれた程度でなんたる様だ。やはり毎日来させるべきか」
最悪の提案を聞き、不満を表情に出す。それが狙いだったようで、勝ち誇ったような表情で相対する。
池と縁側と蔵を繋ぐ石畳に、自然と二人は向かい合う位置で立つ。塀の先にある森からは、蝉の鳴き声が聞こえているというのに、どうしてこんなにも遠く聞こえるのだろう。まるでこの場所だけが、違う世界だとでも言うようだ。
「大方、『人形』に撃って腕が砕けたのだろう。踏み込みが甘いせいで、当たる距離を見誤った己に返ってきたわけだ」
梓は未だに、カルレスと対峙した際のことを思い出す。撃ち込んだ左腕は、衝突する瞬間がずれたせいでその衝撃を全て人形に伝えることが出来なかった。伝わり切らなかった衝撃は、彼の肘から先を砕く結果になる。
その場で反芻できた。もう半歩踏み込みを強く入れていれば、綺麗に撃ち抜くこととなり左腕は無傷だったろう。稽古不足を痛感したのは語るべくもなく、自身の未熟さに歯噛みしていた。故に梓は、相談所に向かう通勤時間や入浴中にボディイメージを繰り返し脳に擦り込む。
「お前はこの世界で、誰より上手く体を扱える。だのに、それを誤った。どういうことか、理解しているか?」
苦い顔をしながら、梓はその言葉に頷く。
「お前のことを祝ったどこぞの神が縛る、その加護が剥がれた時の肉体を覚え直せ。今日、これから、全霊をかけて」
穏やかな叱責に、声ではなく一つの深呼吸を返す。
白漆喰の塀に囲まれたこの場所は、『図書館』の管理する一つの世界としてここに降臨している。これの意味するところは、この空間が『図書館』以外の管理者を否定するということだ。
日紫喜梓にかけられた神の加護は、彼の時間を停止させている。成長を止め、老いを止め、傷を防ぐ状況を招いている。だがそれは、別の神の影響が及ぼす場では拒絶される。神本人と、神が送るだけの加護。本質としての情報の差によって、加護は剥がされてしまう。
神の遺骸が持つ『神の死』という情報が、加護を剥がしたことがより分かりやすいだろう。
「……やっぱ、今月来るの遅くなったことめちゃくちゃ怒ってるじゃん」
「当然だ。自分の弟子があまりにも愚か者だというのに、それを恥じることなく、女まで作っていたのだからな」
「だから違うって……あぁもう、どうせ何言っても聞かないな」
ゆっくりと深呼吸。深々と、一礼。
「よろしくお願いします、『師匠』」
右足を引いて、上体を半身に切る。左手は顎先の高さに合わせて軽く前に出し、右腕は腹に沿わせつつ左脇腹を守るように掌を同じく前方へ向ける。
砂利を蹴る音が響いた時には、『図書館』の眼前に左の拳が迫っていた。
彼女の左手で柔らかく払われた梓の左腕は、一閃とも呼ぶべき鋭い突きだった。だが容易くいなされて空を切り、がら空きの顎に真下から裏拳が突き上げられた。
彼女の拳を捉えたのではない。彼女の右肘の動きを見たのだ。
上体をわずかに反らせて、紙一重でそれを躱す。
「だから、紙一重ではいけないと何度も言っているだろう」
その言葉と同時に、梓の眼前で『図書館』の拳が止まる。
空を裂く音が聞こえた時には、もう遅かった。
容赦なく鼻先へねじ込まれる掌底が、梓の体を容易く宙へと舞い上がらせた。中空で体を捻って体勢を整えると、砂利に着地して数メートル後ずさる。
「最小限の動きで躱すのは善い。だが、貴様のそれは遅すぎる」
彼の後を追うように、砂利の上をパタパタと血が落ちた。掌底によって鼻から出血させられたが、梓は苦痛に顔を歪めることはない。
「後の先。相手に攻撃を撃たせきるより先に、自分のを当てろ」
口元に流れてくる血を乱暴に指で拭うと、再び構えを取る。
「先に撃つなら、捌かれないほどに速く撃て。捌かれ、返されたなら、さらに速く撃ち返せ」
刺すような夏の陽射しの下。その温度を集める漆黒のロングワンピースを纏う『図書館』は、一歩、梓へと歩を進める。パンプスだというのに、砂利を踏んでいる足はまるで地ごと掴んでいるかのように安定している。
「円の軌道は、疾く力を得る。螺旋の軌跡は、疾く力を伝える。突き一本一本に、何度も教えてきただろう」
梓は今、戸惑っている。加護が剥がされている現状で、数年ぶりに鼻出血したからではない。
あまりにも、肉体を動かすということに違和感を覚えているためだ。
「貴様は、誰より躰を動かせる。それは何故か、理解しているか?」
梓の身体能力が高いのは、リミッターが外れた爆発的な筋力のせいではない。自身のボディイメージが寸分の狂いもないからだ。
手を、足を、腰を、どう自分が動かしたいのかを指先まで確実に伝え、想像通りの動きをすることが出来る。自分の肉体がどこまであるのかを、脳が完全に理解しているからこそ、梓はそれを実現しているのだ。
だが、先日の梓は、『人形』相手に「もう半歩踏み込むべきだった」と考えている。梓自身が思った通りに、梓の体を動かせていなかった。
「単純なこと。加護を与えられるのが早かっただけの話だ」
日紫喜梓という人間の肉体は、二年前に神が加護を与えたせいであらゆる時間からの干渉を拒絶している。すなわち、高校一年生の肉体のままである。
「貴様は二年前から貴様を塗り変えられていない」
成長期真っ只中で、彼は神から成長を奪われた。そして今この空間では、加護が剥がされており、本来の時間軸として存在するべき肉体に成っている。脳がそれを分かっているから、踏み込む足を無意識に引かせ、踏み込み過ぎてしまうことを避けたのが先日の原因だ。
攻撃にならず、激突となれば当然怪我をする。足を引かせることでそれを避けたのだが、腕の長さも伸びていたため、本来の力の伝え方と異なってしまい左腕を無惨な姿にしてしまった。
「今、この瞬間に、しっかりと憶えろ。いずれ、加護がないまま闘う日も来る」
彼女の言葉に、梓は一つ、深呼吸で返した。
思い浮かべるのは、自身のみが存在する空間。脳から最も離れている、足先からまず輪郭をなぞる。書き殴るような速度で脚を形作り、体幹、上腕、前腕、指先、そして肩から首、頭へと至る。
一呼吸。自然なその一動作で、胸郭の動き、肩の範囲、背の流れをすくいあげる。
これが今の自分なのだと、自身に刻み付ける。
「敵の前で、目を閉じるな」
想像をより鮮明にするために瞼を落とそうとすると、鋭い叱責が飛んでくる。
砂利を踏む音が、一歩近付いてくる。突き飛ばされたせいで距離が空いているはずだが、その音は手を伸ばせば届く距離で聞こえた。
彼女はただ、目と鼻の先にある自動販売機に向かうような足取りで、一歩ただ踏み出しただけだ。だがそれは確かな殺意を持ち、もう一歩音が鳴ればそれは明らかな踏み込みとなる。
再びの砂利の音は、強く踏みしめられているのが分かる力強さ。踵の辺りはもう砕けてしまったのではないかと思うほどの音で、梓の目の前に叩きつけられた。
空を切り裂くのは、引き絞られて放たれた、螺旋を描く左の掌底。梓のものとは比べ物にならない、槍のような一撃だ。
放つ際に回転を加える利点として、捌くための横からの対応を流す。完全に躱すしか回避の方法はなく、ひどく大きな隙を作る。
「いいところだったんだ。邪魔すんなよ」
右足を後ろに引き、『図書館』との距離を作る。回避の間合いではない。迎撃の間合いだ。
迫る彼女の左掌底に、梓も自身の左掌底を突き出す。体を引きつつ、多くの関節で生み出した回転を伝える。自身の内へと捩じる回転同士であり、互いに相反する回転方向。そこに発生する力量が相殺され、運ぶ生命力と純粋な筋力だけがその間でぶつかり合う。
そうなれば当然、梓が優勢かと思われた。だが実際は、完全な拮抗。衝突した掌底同士は、そこから微塵も動くことがなかった。
「師匠に向かって、口の利き方がなっていない。さて、これを言わせるのは何度目か?」
わずかに、『図書館』の左手が、さらに内へと捩じられた。それだけで、梓は再び跳ね飛ばされた。砂利を転がり、なんとか上体を起こして次に備える。
「貴様が教わっているのが誰か、忘れたわけではないだろう?」
彼女は再び、梓の元へ一歩踏み出す。それは殺すための一歩ではなく、彼へ近付くためのただの一歩。故に、先程のように急激に距離を詰めてくることはなかった。
砂利で擦った頬の傷は、垂れ続ける鼻血と混じって顎先から落ちる。じわりと顔全体が熱を帯びており、これが痛みとして肉体は警鐘を鳴らすはずなのに、梓はそれを感じることはない。




