5.
「では、貴方たちの今回のことを聞きましょう」
彼女の力で注がれた紅茶を飲み始めながら、『図書館』は梓に促す。
「とりあえず、これを」
梓はバッグを探ると、茶封筒を『図書館』へと差し出す。真鍮製のペーパーナイフで開くと、折り畳まれた数枚の紙を取り出した。机上に広げると、そこに記された文字を指でなぞっていく。
樫木が書いた文字は、紙から剥がれて宙へとゆっくり浮かび上がる。文字は渦を描き、差し出した手へと滑り込んで、吸息に合わせて『図書館』の体へと取り込まれていった。
何かを口にしたいが、相応しい言葉を思いつかない美凪は、現実離れした目の前の現象をただ眺めることしか出来ない。
「……なるほど。これは困ったことが起こりましたね」
ずっと表情が変わらない『図書館』は、緩やかな瞬きをしながら言葉を吐いた。
「確かに、これは警察や樫木では手を持て余します。どういったものが害を及ぼしているのかは私でないと見当もつかないでしょうね」
指先で舐めるように口元を拭う、その手つきがなんだか艶めかしく見える。
「話す前に確認させていただきます」
そうして彼女の瞳は、狼狽えている美凪へと向かう。
「貴女は、もう相談所に来て長いようですね。先程の文に記されていました。故に、問います」
樫木仁成は、非情にはなれない。そのため彼は、こういった血生臭い事件を美凪から遠ざけようとする。美凪自身もそういったことは避けたいとは思っていたし、わざわざ関わることのないように席を外させたり、依頼自体に気付かせないようにしていたと知っていた。
「これから、知る覚悟は出来ていますか? それがなければ、貴女は今から帰りなさい」
それは、『図書館』なりの優しさだ。また同時に、そうしてほしいと樫木に頼まれた。あの男はそういったことを投げてくるのだから、無責任にも程がある。それだけ彼女へ愛着が生まれている証拠だと分かるが、今度用事を拵えて文句を言いに行かないと気が済まない。
「怖いです」
真意は分からない。美凪は小さく、こぼした。同じく、小さく手を震わせる。
「でもなんか、納得いかないんです」
震わせながら、小さな拳を握り込む。
「すごく大事にされてるなってのは分かるんです。でも、『あ、私いま、必要ない』って思う瞬間が明確にあって。それなのに相談所にいてもいいって言われて、都合がいいなって思ってて納得いってないんです。最近凄く、そう思うんです」
確かな疎外感があった。居場所は変わらずあった。だがその居場所から動くな、と暗に告げられているとも感じた。
「先生が言ってくれないのは、まぁそういう人っていうか、意気地なしって思うんでいいですけど。そろそろクレームは入れなきゃな、って思います。この間もそれっぽいことは言ったんですけどね」
その言葉が、完全にスイッチだった。美凪はそれを明確に自覚したが、開いてしまえばもう口は止まらない。
「そうですよ、『図書館』さんも先生に文句言いに行きましょう! 一緒に行って、『自分の口で言うべきでしょ!』って怒らないと絶対分からないですよあの人!」
身を乗り出してくる美凪に、『図書館』は驚いて瞬きを繰り返す。対応に困りかねて梓に視線を向けると、苦笑交じりに肩を竦めていた。
「なるほど。貴女も貴女で、相談所向きだ。樫木とやっていけるわけだ」
溜め息交じりに、微笑みながら本来の言葉遣いへと移して美凪へと向き直る。
「女が糸に巻かれて死んでいた。さて、どう死んでいたか、というのはよく分からん、と」
「警察が調べてる途中、って言ってください。矢沢さんたちはきちんと調べてくれて、こっちにもきちんと情報流してくれるんで」
掻い摘んで乱暴な発言をする『図書館』を窘めつつ、梓は少し冷えた紅茶を啜る。
「まだ死因には辿り着いてはいないだろうが、どうせ人間どもが調べても分からんよ」
座卓をまた指で叩くと、襖がまた勝手に開いて、今度は本が一冊舞い込んできた。
「おそらく、必要なのはこの辺りだろう」
その言葉の直後、梓のポケットでスマホが震えた。通知を確認すると、チャットアプリに樫木からの連絡が入っていた。
「……死体のことが分かったんだろう? 言い当ててやろうか?」
文面を確認しながら、梓は首を横に振る。
「いや、いい。その本と、その顔で分かるから」
寄ろうとして、そういえば拒まれたなと思い、手を伸ばして画面を美凪に見せる。
「……これ、本当に死んじゃった人のことなんですか?」
美凪の疑問に、複雑な面持ちで梓は頷く。
「この街はなんでか知らんが、『人形』以外にもおかしな事件が起きる。しかも頻繁に」
ちらと本を見やると、書かれたタイトルに対して軽く頭痛を覚える。
「ヒトナリ相談所が仕事に困らないのは、猫探しからこういった変な事件まで扱うからなんだよ、困ったことにな」
遺体の詳細についてはまだだけど、状態だけは先に届いたから伝えておくね。
部屋を埋め尽くしていた糸は、遺体を天井から吊り下げていた。
糸が巻き付いていたのは胸から下だけで、肩から顔は露出していた。
でも人としての形を保っていたのは、糸に包まれていない上半身だけ。
腰と思しき部分より下、下半身はもう人のものではなかった。
尻や脚のあるはずのその先には、びっしりとおびただしい量の鱗が付いていた。
まるで、彼女が人魚姫かのように。
前後の一文は、樫木が付け加えたものだろう。
また、警察側から共有された情報をわざわざ小説の一節のように書いているのは、『図書館』の元を訪れているからという彼なりの遊び心なのかもしれない。
そうでもしないと、送られてきた文面だけで、遺体の異常性でどうにかなってしまいそうだった。
「貴方たち現代人は、どうにも御伽噺を美化して受け取る節がある。何故そんな話が広まったかは、美化した故だろうが」
彼女が指を差す本は、装丁がくたびれておりその古さを示す。美凪はそこに書かれている文字が読めず、それを睨みつけても何が届いたのか分からなかった。
「これはコペンハーゲンの童話集。いわゆる初版本みたいなものだ。聞いたことがあるだろう、アンデルセン童話、という言葉を」
あぁと声を上げる美凪。
人魚伝説とは、ケルトの伝承に端を発し、各地に類似の生物の目撃談を多く持つ。
一八三七年、デンマークの童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンによって発表された『人魚姫』。
一九〇〇年、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによって描かれた絵画『人魚姫』。
ヨーロッパではローレライやメロウ、中南米ともなるとイアーラ、と各地で名前を変えて伝承として残っている。
交響詩にもなるなど、多くの形で今でも伝えられており、多くの創作の土台になっている。
「人魚というものが、多くの国で似たような姿で伝承されてきた、ということが面白いな」
彼らの前に置かれた本は、アンデルセンが発表した『人魚姫』を収録したものだという。二〇〇年前の本が果たして本物なのかは俄かに信じがたいが、それを調べる術は現状ない。
「何が言いたい『図書館』。最初にきちんと教えてくれないところは、性格悪いってずっと言ってるぞ」
痺れを切らした梓は、苛立ちを見せながら『図書館』を睨みつける。
「なにも、先程言った余所の国だけに、人魚の話が伝わっているというわけではない、ということだ」
対する『図書館』は、挑戦的な視線を返して弟子の反抗を追い払う。
「この国にも当然、人魚伝説、ないしは伝承があるだろう。その女はそれを調べていた。なら、何を調べて何に行きついたのかを知るのが、まずはお前たちに必要ではないか?」
大学で人魚について調べていた、今回の被害者丸山茜。ヒトナリ相談所を何度も訪れ、その裏付けを取る依頼を出していた。
アンデルセン童話、という単語を出されて、梓と美凪の頭から自国の伝承も当然あるという想定が抜けてしまった。指摘されてようやく二人は顔を見合わせ、青いな、と『図書館』は鼻で笑う。
「ヒントは与えた。次に行き詰まれば、また来るといい。報酬の話はその時で構わん」
すると彼女は立ち上がり、梓を一瞥する。嘆息すると、腹を括った彼は同じく立ち上がる。
「え、先輩、もうおしまいですか?」
見上げる美凪に、梓は複雑そうな表情を返す。梓の珍しい表情に、その理由が分からず彼と『図書館』を交互に見ることしか出来ない。
「あー……相馬は帰すか……」
「何を言う。見て行ってもらえばいいだろう。というより、お前を大人しく帰すほどぬるい教育をしているつもりはないぞ」
思惑が気付かれていたことに、舌打ちを返す態度の悪さ。既に勝負は始まっており、早くも彼女の優位が示されたが、彼らの関係性をまだ正しく認識できていない美凪にはそんなもの、露ほども分かりはしなかった。
「これから稽古をつけてもらう、というより、今月の課題を評価してもらう。そんな時間はかからないし、ここで待ってていいぞ」
「だから何故、お前たちはこの子を近付けんようにするのだ」
あまりにも深い溜め息を吐いて、指を鳴らした。梓と美凪の背後にあった襖が開き、縁側が現れる。その先には、砂利の敷かれた庭園。池では悠々と錦鯉が泳いでおり、外と通じたというのに空気は変わらず涼しいまま。陽射しだけが、変わらず夏を告げている。
「貴女はそちらから眺めなさい。貴女を守ってくれる人間が、未だ途上であることを知れば、多少の危機感は生まれるだろう」
梓へ顎をしゃくると、それに従って頭を掻きながら玄関へ向かう。
「先輩が守ってくれてる、って何で分かるんですか?」
当たり前すぎる疑問に、梓も美凪もどうしてこう抜けているのかと呆れてしまう。
「誰があいつに闘い方を教えていると思う? どう使っているのか、把握していないわけがないだろう」
呵々と笑う『図書館』を見て初めて、彼女が心から笑ったのだと気付く。あの上品な微笑みよりも今の痛快な笑い方の方が、息を吞むほどの美人なのに似合うなと、美凪は感心してしまう。




