4.
八月を目前に控え、照り付ける陽射しはもはや凶器だ。三五度に到達した気温は、絶え間なく汗を噴き出させる。
「あずさせんぱぁい……まだですかぁ……」
真白な日傘を差して、美凪は舗装された道路を歩く。アスファルトの照り返しでさえも日焼けしそうなほどの暑さで、低山を上る羽目になるとは、朝起きた時には考えていなかった。
「もう着くから頑張れ。ここまで歩かされたんだから、かき氷ぐらいは出してもらわないと割に合わないしわがまま言っていいぞ」
「先輩に?」
「これから会うやつに」
対する梓は、炎天下だというのに汗一つかいていない。途中で買った水を差し出してきて、受け取った美凪は息を整えながら飲む。キャップを開けて渡す優しさも、理解するには余裕が足りない。
ざぁ、と強い風が木々を揺らした。途端、緑に彩られていた視界が一気に拓け、住み慣れた九井市を一望できる駐車場に出る。
「ほら、着いたぞ」
景色に目を奪われていた美凪に、梓は待ち望んでいただろう声をかける。
その声に振り返ると、時代劇でしか見ない白漆喰の塀が建ち、古びた木製の門があった。
「あぁ……会いたくねぇなぁ……」
「ほんとにずっと言ってる……どんだけ嫌なんですか梓先輩」
進もうとしない梓を見て、ちょっとだけ呆れながらも腕を取って今度は美凪が先行する。
門はきっちりと閉じられており、訪問客を追い返すような圧が感じられる。インターホンの類がなく、そもそも出迎えるつもりがないようだ。
「えっと……どうやれば……」
戸惑う美凪を気にすることなく、ようやく覚悟を決めた梓は門をノックする。軽い音で、すぐ向こうにいなければ聞こえないほどだ。それほどまでに、梓はやる気がないらしい。
「ほら、入るぞ」
大きな門に付けられた勝手口を開けると、梓は手招きしてみせた。
「えっ、そんな、いいんですか?」
「大丈夫だよ。ノックに気付いてくれて開くようになったから」
あんな音で聞こえたとは思えず、不法侵入しているようにしか見えない。学校に不法侵入の次は民家に不法侵入。本当に悪いことをしている罪悪感で、つい周りを見回してしまう。錆びたガードレールと、その先の森しかない。目撃者は存在しない。
「お、お邪魔しまーす」
せめてもの免罪符として、必要な挨拶を発してから門をくぐった。
門の先には古びた屋敷があり、視線をずらすと離れた位置に、塀と同じ白漆喰で作られた蔵が見える。屋敷と蔵の間には、池があり鯉が泳いでいた。教科書に載っているものがそのまま目の前に出てきたような錯覚に、門より先での異変に気付くのが遅れた。
「……涼、しい?」
エアコンをつけている部屋のように、炎天下を拒否する涼しさがあった。照り付けている太陽は変わらず空にあり、門をくぐってもまだ屋外だというのにだ。
「当然です。外界と隔絶するように陣を組んであり、ここには不快と思われるものを全て排除するように私が作ったのですから」
「ひゃあ!?」
突然の女性の声に驚いた美凪は、背後に立たれていたことに気付くと飛び上がる。
「梓、いくら暑いからといって、ここを睦み合う場に選ぶべきではありませんよ」
「そんなわけないだろ……」
細身でかつ長身。スラリとした黒髪の女は、抑揚のない声をかけながら美凪の隣を抜ける。
「何の用です? 今月の稽古はやらないと言ったはずですが」
「なら先に電話してるって。俺だって必要なければ来ねぇよ」
精一杯の嫌味と共に、梓は抗議の視線を向ける。
膝裏まで伸びた、艶やかな黒髪。磁器のような白い肌と、切れ長の双眸。左の泣きボクロが印象的で、美凪はつい見惚れてしまった。どうしてこんな美人と知り合いなのかよりも、何故心を乱すことなく嫌味を言えたのか、という文句を梓に向けたくなる。
「先生から、協力してほしいってさ」
「……埒外の事象が起きたのか」
短い言葉で通じ合うと、女は踵を返して屋敷の玄関へ向かう。
「入りなさい。可愛らしいお嬢さんも、外にいては綺麗な肌を焼いてしまいますよ」
無表情だった女は、顔だけを振り返って微笑みかけた。未だにその美しさに出所の知れない気恥ずかしさを覚えながら、美凪は会釈を返すことしか出来なかった。
通された部屋で、二人は並んで、しかし一人分は余裕があるスペースを設けて座った。美凪はあまり馴染みのない畳に直接座ることとなったが、不思議と懐かしさを覚えてしまう。
「まず、こちらから聞かせていただきたい」
座卓を挟んで向かいに座った黒髪の美女は、机上に二回指を落として音を立てた。
「あなたたちの頼み事を聞くのはその後だ」
すると、ひとりでに襖が開いた。中空をふらふらと、湯呑が三つさまよいながら部屋に入って座卓に着地する。少し遅れて急須が到着し、手際よくそれぞれに緑茶を注ぎ入れてから部屋を去っていった。
「……ごめんなさい、私が先に質問したいです」
あれほど暑かった外を歩いてきた美凪が、まるで今は極寒の下に放り出されたかのように全身を震わせながら挙手して割り込む。
「い、今の、何です?」
尋ねられた女は、何事かと訝しげに美凪を覗き込む。いつもより距離があるが隣で聞く梓は、説明を怠っていた自分を恥じるように嘆息すると、そちらへ少し詰めて声をかけた。
「お茶を淹れてくれたんだ」
「そんなの見れば分かりますよ! 何で湯呑と急須が自分たちで勝手に来たんですか!」
「あぁそっちか」
訂正。質問の意図を汲めていなかったのは、梓も同じだった。
「コレも人じゃないんだ。先生と同じ、人の形をしてるだけ」
梓の冷たい物言いに怖気が走るが、樫木が行ったことの理解を先にしていたおかげでストンと腑に落ちた。
「私はあなたたちが口にする、いわゆる『神様』という存在らしい。存外、こういうものは自分では分からないから実感はないが」
非現実的で耳馴染みのある単語に、美凪は思わず息を呑んだ。
「俺はその力も含めて『図書館』って呼んでる。なにせ名前がないらしいから」
これまた聞き覚えのある名詞のおかげで、簡単に納得してしまった。神様であれば、この美貌も、先程の現象も起きて当然なのかもしれない。そう自身に言い聞かせることにした。
「私の質問に戻します」
これ以上の問答は不要。主題へと無理矢理舵を切った。
「梓、いくら貴方の師とはいえ、恋人が出来たことの報告をする必要はありませんよ」
ずる、と肩から姿勢を崩してしまう梓。
「何の勘違いだよ! こいつはバイト。相談所に入って一年になったし、興味あるからって言うから連れてきただけ」
梓の端的な説明を受けても、『図書館』は納得してくれず眉間に皺を寄せる。
「それにしては、随分仲睦まじく見えますが」
門をくぐってから涼しいのに、美凪の顔は一気に紅潮した。自ら仕掛けることは多いが、他人から面と向かって言われるのは珍しいことだった。クラスメイトは口々に噂しているのだが、肝心の当人たちには届いていない。
「そう、かぁ……?」
首を傾げながらまた美凪を見やると、彼女がすぐさまこちらに両手を突き出してきた。
「先輩ストップ。それ以上近付かないで。近付かれるのは、まぁ……それはそれで嬉しいんですけど、今は大丈夫です。準備させてください。てか、さらに汗かいちゃう……」
早口でまくし立てられ、梓は怯むしかない。
その弟子の不出来を目の当たりにして、『図書館』は深い溜め息を吐いた。
「手足の遣い方だけではなく、女心も教えていくべきか……」




