10.
「さて、今回の反省を」
翌日の相談所で、昨日の一部始終を報告した二人に、優しい声音ながらも尋ねた。
「初めてお二人にお任せした依頼。僕を一度頼ってくれた件は称賛します。でも、迂闊な行動が多かったように思えますね」
言葉には棘があるが、その表情は柔らかく微笑んでいた。
「……寺田先生がいい人で助かりました」
苦虫を嚙み潰したように、顔をしかめて梓は吐き出す。
「俺がついてるからとはいえ、相馬がいるというのに人形に襲われる可能性があることを考えてなかったので」
寺田はあくまで教師という枠を越えることはなく、生徒である二人に危害を加えようとすることはなかった。
今朝の朝礼で寺田がしばらく休職すると連絡があった。だが昼休みに、本来学校にいるはずのない、刑事の矢沢邦弘と結緑一紀と遭遇した。職員室へ入っていったところを見るに、彼の持ち物を押収しに来たのだろう。
「寺田先生が別の罪を重ねる可能性があったこと。相馬にまた怪我をさせるかもしれなかったこと。俺の考えが浅かったのが、俺の今回の反省です」
梓の答えを受け、樫木は満足そうに頷く。
「美凪くんは?」
話題を向けられた美凪は、困ったように笑いながら返す。
「私が足を引っ張っちゃった気がします。腰が抜けちゃって背負ってもらいましたし」
その答えに、樫木は首を唸りながら思案する。
「まあ、それも一つですね。ですが不正解です。梓くんがきちんとカバー出来たので、反省点として挙げなくても構いません」
先程までの優しげな微笑みが嘘かのように、いたずらに吊り上がる。
「過程はそれなりに大事ですが、美凪くんはもう少しわがままに生きても許されるんですよ?」
目をぱちくりとしばたかせ、なかなか結論に辿り着けない。一方で、梓は気付いてしまい、深い溜め息を吐き切る。
「言ったでしょう? 頼っていいんです、と」
合点がいった美凪は、胸の前で手を合わせると、おお、と声を上げた。
「臨機応変に動くことが出来たのは褒められることでしたね。ただ、君たちが主で動くという前提があっても、僕に頼る選択肢を一度しか使わないという縛りは設けていなかったんだよ?」
「しかも夜だったから、先生が学校に入っても問題なかったってことですね!」
「いや不法侵入だから問題ではある」
冷静に考えるほど、危険な綱渡りをしているのだと気付く。『人形』を他者に向けて使う人間ではなかったとはいえ、それは今回の結果論でしかない。
「大人はずるいんですよ。君たちよりも経験がある分、悪いことやっちゃうんです」
満足げに頷きながら、樫木は引き出しを開けるとウイスキーのボトルを取り出した。
「さて。僕もお仕事をさせていただきましょうか」
そう口にした途端、インターホンの音が洋館に響いた。
登校拒否していた大沢は、母を連れ立ってヒトナリ相談所を訪れた。
「あの……どうして母まで呼ばれたんでしょうか……」
応接間に案内され、ソファに腰かけた親子は居心地悪そうにしている。
「いやぁなに、大変なことが起こっているので、お母様もお聞きするべきかと思いまして声をかけさせていただきました」
いつも腰かけている椅子から離れ、豪奢な机の前に立って深々と頭を下げる樫木。
これから起こることを知っている梓と、先程知らされて困惑している美凪がこの場に同席している。本棚を背にして並ぶ二人は、ぐっと口を噤んでいた。
懐から小さな酒瓶を取り出して、琥珀色の液体を飲み干す。
「それではまず先に、大沢保奈美さんへ質問を」
つとめて紳士的に、彼女の傍へ片膝をついて自然に見上げる。
「学校に行かなくなった理由、人形を目撃し続けた……だけではありませんね?」
覗き込まれたその瞳から、彼女は逃れようとした。だが、彼女は動けなかった。必死に首ごと逸らそうとしているというのに、樫木の瞳がそこにあると認識した途端、大沢保奈美という少女の意識は固定されてしまったようだった。
訥々と、少女の独白が始まる。
「私、色々嫌になったんです。クラスでいじめが起こってて、でもそれを助けたら、絶対次の標的は自分になっちゃう」
昨夜の寺田の言葉を、梓と美凪は思い出していた。受け持っているクラスで、いじめが起こっているのにそれを見つけることが出来ていないと。
「見て見ぬふりして、なんか、自分だけ普通に友達と遊んでお昼食べて。あの子だけ私たちの外側に出してる、この気持ち悪さが……」
途端、込み上げたものを堪えるように、右手で口元を覆った。隣に座る母親は、まるで気に掛ける素振りすら見せず微動だにしない。
「逃げるのも、一つの手です。きみを責めるのは、いじめを受けている子だけでしょう。それでも自分が加害者だということを自覚できているのは、その若さでは素晴らしいのではないでしょうか」
優しい言葉だというのに、突き放すような冷たさを孕んでいた。
「しかし、きみの生活には必要です。罪悪感を抱えながら、それでも今までの日常を過ごすべきだと僕は思います」
立ち上がった樫木は、豪奢な机に置いていたウイスキーを手にして一口呑む。
「きみ達の忘れるべき、『人形』のことだけは忘れさせてあげましょう。本来それは、必要のない情報ですからね」
量にして一リットルのウイスキーを空にすると、ボトルを頭上に掲げた。
「さぁ、在るべき世へ、戻りなさい」
ボトルを離すと、重力に従って緩やかに落下していく。スローモーションのように見える落下は、応接室の床に到達すると鋭い音を立てて砕けた。
散る破片が照明に反射して、鮮やかに煌めいた。床に飛び散ることはなく、宙で静止する。物理法則を無視した光景は、それだけでは終わらない。
破片は揺らいだかと思うと、巻き戻るようにして元のボトルへと姿を集めた。元通りのボトルは樫木の手元へ跳ねるように返り、『割れた』という事実は無かったものとなる。手早く蓋を閉じると、しばしの沈黙が室内に降りた。
幾度かの瞬きを置いて、大沢親子は不意に立ち上がる。
「ありがとうございました。後日また、御礼に伺います」
母親の言葉が残されて、そそくさと応接間を去っていく。
ボトルを置いた音が机から響くと、樫木の深い吐息が続いた。
「……お疲れ様です先生」
「いえ。これぐらいでしたらお安い御用です」
膝から崩れ落ちそうになる樫木の腕を、梓はぐいっと引き上げる。
「先生、今のって……」
美凪の問いに、樫木は努めて笑顔で頷く。
「簡単に言えば、『人形』に関する記憶を彼女たちから奪いました」
大沢保奈美が目撃した、寺田の『人形』に関する記憶。登校拒否に至るにあたって、母親にも飛び降りる人形の話をしていると思われる。そのため、樫木は親子を呼び出した。
「いずれ、学校での噂も消えていくでしょう。目撃者である彼女から広まったのですから、根を断ったことで紐づいた九不思議にも影響して消えます。もしかすると、七不思議に戻るかもしれませんね」
得体の知れない術を使った樫木を、梓は何事もなく気遣う。対する美凪は初めて目撃し、先程から言葉を失っていた。
「相馬、紅茶を持ってきてくれないか? 俺は物置から安酒一本持ってくる」
梓の意図を、美凪はすぐに理解できた。一旦腰を据えて、ゆっくりと話を聞こうということのようだ。
相馬美凪は、先程の光景を反芻する。反応が乏しくなった大沢親子も、砕けたボトルが元に戻ったことも、樫木が酒を呑んだことから始まった。
きっかけが明確だというのに、どういう原理で起こった事象なのかを理解できない。
盆にティーポットとカップを用意し、応接間へと戻った美凪はおずおずと樫木を伺う。
人の形をしているが、人ではない。それはずいぶんと早い段階で、ぼんやりとだがそう感じていた。確信するものはなかったが。
「梓くんはまだ戻らないでしょうし、先に美凪くんへ説明をしておきましょうか」
いつも通りの柔らかな言葉で、思案から引き戻される。
人外だと分かった途端、自分の中で恐怖心が膨らむと思っていたのに。自然な彼がそこにいるからだろうか。不思議と、畏怖は生まれなかった。
「私が人ではないことは薄々気付かれていたようですね。これだけ交流が多いのですから、当然だとは思っていましたが」
樫木は笑顔を見せるが、珍しく似合わないぎこちなさがある。
「常に私がお酒を嗜んでいるのは、ああいったことを行使するために必要なものだからです」
割れて元に戻ったボトルを指して、樫木は言葉を続けた。
「昔からお酒には、いろんな国で色んな意味を持たされていました。不老長寿の薬であったり、神聖なものの一部であるとされたり。特にこの国では、清めるためのものという側面があります」
美凪はふと、幼少期の墓参りで墓石に酒をかけていた親戚を思い出す。
「僕はお酒の持つそういった意味を借りて、都合のいいようにこの世界を改変しているのですよ」
わざと耳障りの悪い言葉を選んだ樫木。確かにその通りだと確信できる光景があったが、美凪はそれに怯むほどではない。
「ねぇ先生。ちょっと私のこと追い出そうとしてる?」
「まさか。めちゃくちゃ追い出そうとしていますよ」
二人は互いに、挑戦的に笑みを向け合う。
決着はすぐについた。吹き出して顔を逸らした、樫木の負けだ。
「私ね、梓先輩にすっごく感謝してるんですけど、先生にもめっちゃ感謝してるんですよ」
腰かけているソファの足元に置いたバッグを手にすると、少し探ってポーチを取り出した。
「中身全部買い替えちゃったけど、先輩がこれプレゼントしてくれたから……良くないことだったけど、忘れたくないんです。だって、助けてもらった証拠なんですから」
ゆっくりと深く息を吐くと、諦めたように肩を竦める。
「困りましたね。美凪くんの記憶も頂いて、梓くんとそのまま相談所を続けてよかったかなと思ったのですけれど……そう簡単にはいかないものですね」
「そうなんですよ。私、ちょろい女じゃないので」
「梓くんには骨抜きにされているのに?」
「ちょっと言い方が年寄り臭いです」
「なんてことを言うんですか美凪くん」
声を出して笑い合う二人。廊下まで聞こえてくる声に、酒瓶を持ってきた梓は首を傾げた。
樫木と美凪で話すことは増えているが、ここまでしっかりと笑い合っているのは珍しい。これからはそんなことも増えていくのかもしれないと思うと、梓は笑みをこぼしてしまう。




