2.
日本のよくある一軒家が建ち並んでいる風景が、レンガ造りの二階建ての洋館の出現によって乱される。閑静な住宅街で広大な敷地を誇っており、この一角だけが完全に異国になっているのだ。
「あらためて、浮いてるよな先生の家」
「バイト三年目の先輩がそんなこと言っていいんですか?」
「三年目に突入してるんだから何言ってもまあ大丈夫だろ」
日紫喜梓と相馬美凪は、雑談も程々に門を開けて敷地内に入る。整えられた庭は、日中に庭師が入っているとのことだが、二人は件の庭師を見たことがない。かといって、家主が庭いじりする人間かといわれると、思案する間もなく否のためやはり知らない人間の手が入っているのだろう。
「よろしくお願いしまーす先生」
「こんにちは先生。今日もよろしくお願いします」
勝手知ったる我が家のように、施錠されていないドアを開けながら梓と美凪は洋館に足を踏み入れる。
巨大なシャンデリアの飾られたホールと、すぐ先にある二階への階段。ドレスを着た貴婦人が毎日ここを降りてきそうな豪華さも、家主の顔を思い浮かべると霞んでしまう。
「とりあえず荷物置いてきますか。先輩のも持って行きましょうか?」
「いや、直接先生のところに行こう。どうせ今日も掃除するだけだろうから」
階段を上りながら会話を続け、東側の廊下の途中にある書斎を目指す。
「この世に許せないものが三つある」
書斎のドアを開けた瞬間、主はまるで到着を待っていたかのように口を開いた。出迎えてもらえるとは思っていなかったため、挨拶は玄関先で済ませたものだけにしよう。共通の結論に至った二人は、ソファにカバンを放り投げる。
「一つは、手に取った商品を元の商品棚に戻さず、全く関係のない場所に置いていく愚か者」
美凪は書斎済の小さな冷蔵庫から水を取り出し、梓は床に散った本を拾い上げて棚へと戻す。
「一つは、傘を中間から持って先を背後に向ける後方加害者」
そしてこの家の主は、ようやく寝転がっていた床から起き上がり、アンティーク調の机の奥からその姿を現した。
「そして一つは、酒に金額を設けたこの世界」
恨みの規模が突然大きくなるが、言っていることはめちゃくちゃである。
「また酒の値上がりしたことに対してキレてる……」
「もう先生、お酒は先週届いたでしょう?」
「足りるわけないでしょうあれしきの量で!」
白髪痩躯の男は、目を血走らせながら怒号を浴びせる。慣れている美凪は肩を竦めながらソファに座り直し、本の整理に勤しむ梓の背中を愛おしげに見つめる。
「で、先生、新しい依頼は来ましたか?」
梓の問いに、男は伸びをしながら椅子に座り、足元から酒瓶を引きずり出す。
「既に今週のノルマである依頼一〇件はこなしたので過剰労働です。今の私に依頼は必要ありません」
度数四〇の酒にそのまま直接口をつけ、水のように喉を鳴らしながら呑んでいく。
「いやいや、先生のノルマが達成されても俺らのバイト代が増えないじゃないですか。いい加減外に出て営業回ってくださいよ」
「回らなくても依頼人はやってくるからいいでしょう。ほら、もうすぐ来ますよ」
その言葉に、美凪は水のキャップを閉めて立ち上がる。そのタイミングで洋館のインターホンが鳴り、来客者を館内に知らせる。
いくら広い洋館といえど、一年ここに出入りしていればある程度の動線は分かる。書斎を出てすぐ目の前の窓を開けると、めいっぱい息を吸い込む。
「入ってきてどうぞー!」
来訪者の確認もせず、急いで階段を駆け降りる。廊下に敷かれたワインレッドの絨毯の感触が、美凪はお気に入りだったりする。
階段を降り切った後、来訪者は洋館の出入口の扉をゆっくりと開けた。
「ようこそヒトナリ相談所へ……って、あれ?」
「あのー、お願いが……あ、美凪、さっきぶり」
来訪者は、同じ制服を着ていた。先刻教室で別れた、クラスメイトの加藤だ。毎朝緩めのウェーブをかけるためにアイロンと格闘し、週二回は確実に指を火傷している。
「美凪くん」
ホールに響く男の声に、呼ばれた美凪は天井を見上げる。誰かがいるわけではないのに、その男の声は続く。
「応接間へ通してください。依頼をお聞きしましょう」
「はい、分かりました」
簡単なやり取りを済ませ、加藤の方へ向き直る。微笑む美凪を見ると、あらためて整った顔をしているなこの友人、と人知れず見惚れてしまう。
「じゃあついてきて。先生すぐ来るから」
一階西側の廊下を手で示すと、美凪は先行して歩き出す。
廊下を少し進むと、両開きの扉の前に辿り着く。
「どうぞ」
美凪がノックすると、中から声が返ってきた。ドアノブに触れるより先に、内側から勝手に開けられる。
「ん? あ、相馬のクラスの……」
「どうも、加藤です。さっきぶりです先輩」
控えめに手を振ってみせると、梓は微笑みながら軽く会釈して部屋に招き入れる。
ちらと見やると、彼が憤怒の形相で室内を睨みつけていた。その横顔を見てぎょっとしていたが、彼はそれを気にすることなくつかつかと部屋へ入っていく。
「『客だ』っつったのあんただろ! ちゃんと応対する準備してなよ先生!」
そーっと部屋を覗き込むと、ソファに寝転がる男の襟を掴んで引きずり下ろす瞬間を見ることになった。先程から想定外のことが起こり、加藤は徐々に不安が高まってきた。
「やー! ちょっと! 襟伸びる! やめようよ梓くん! 誰がお洗濯するのさ!」
「俺だよ!」
「そうでした」
白髪の男が引きずられながら、仰々しい机の奥に置かれた椅子に座らせられる。あまりに乱暴な扱いと言葉の応酬に、ただただ絶句するしかなかった。
「それではやり直そうか」
その一声に梓は部屋を出て扉を閉め、何事もなかったかのように制服を正す。
「こちらへどうぞ」
「えっ⁉ 本当にやり直すんですか⁉」
加藤はさすがに声を上げてしまい、彼は困ったように笑う。
「こうでもしないと、先生はへそ曲げるし依頼もちゃんと受けてくれないの」
美凪の言葉を聞いて、どうしてそんな気難しい人間が、他人を相手にする仕事をしているのかを尋ねたくなる。
やり直しで開けられた扉の先で、白髪の男は組んだ手を机に置きながら背筋を伸ばしてこちらを見ていた。
「……どうぞ」
先程の間抜けな声とは違い、威厳を出すような低く抑えた声で呼び寄せる。どれだけ取り繕って振る舞っても、ダメな姿が数秒前に繰り広げられたのだから威厳も何もあったものではない。
「えっと……あの……」
きっちりとしているつもりなのだろうが、その声音を台無しにするものが机に並べられている。缶や瓶が並んでいるが、そのどれもが加藤には馴染みのないものだ。だがこの部屋に入った瞬間に鼻を刺した臭いは、よく知っているものだった。
「……お酒くさっ」
思わず口と鼻を押さえて顔をしかめるが、白髪の男は決して姿勢を崩さない。
「すまない。酒のことは気にしないでくれ。私はこれが無いとダメなんだ」
その一言で、完全に信頼できなくなった。
「まぁ言いたいことは分かるけど、ちょっと事情があって。先生にはアルコールが必要なんです。完全にダメ人間みたいな言葉になってるけど」
さすがにこれはあんまりだ、と言いたくなる。酒を手放すことが出来ないくたびれたシャツを羽織っている大人に、評判の相談所がやっていけているのかが分からない。
「どうせ幻滅しているのだろうが、それは君の勝手だ。そして君が依頼するのも、僕がそれを引き受けるのも」
だというのに、どうして机越しの男はこんなにも圧力を醸し出してくるのだろうか。
「あらためて。猫探しから人探し、失せ物探しに浮気調査。どんなお困り事でもお聞きいたします。ようこそ、ヒトナリ相談所へ。ご依頼は何でしょうか?」