14.
異形の人形は、カルレスの前へゆっくりと躍り出る。主君を守る従者のような敬虔さだが、その真意は図りかねる。なにせ、それは物言わぬ人形なのだから。
「先生?」
背後では、既に一紀が人形を蹴散らし始めている。だのに、樫木はひたすらに酒を呷り続けている。既に長机には手の指が足りないほど、小さな酒瓶が並べられている。梓はちらと見やると、咎めるように声をかける。
「いや、あの……」
対するカルレスでさえも、人形の背後で困惑を隠せずにいた。
敵地だというのに、この男はさっきから一言も発さず、しかし口だけはずっと動かしている。まるで手品のように、袖の下や襟から酒のベビーボトルを取り出しては口に運んで、浴びるように酒を呑み続けているのだ。
「ごめん、これから戦うっていうのに水差すみたいで申し訳ないんだけどさ。その人、止めてもらっていい? さすがに怖い……無言でお酒呑み続ける大人が目の前にいるのは……」
カルレスの恐怖に、梓も敵ながら同意見だった。飲んだくれている前で闘うのは、別に些末な問題だ。単にしまらないのだ。
「先生、ちょっと止まってもらえます? 誰がそれ片付けるんです? 先生がちゃんと片付けてくれないと、一応ある体裁が崩れるんですからね」
指摘はしておくが、彼がそれだけ必要に駆られて飲酒していることを理解している。だがやはり、緊張感はある程度欲しいという本音もある。
対して、樫木は無言。とうとうズボンの裾に手を突っ込み、普通サイズのウォッカを取り出した。
「ねぇほんとにどうなってんのそれ⁉」
堪えきれず声を荒げてしまったカルレスが、今回の負けである。
「よしっ、相手の集中力削いだよ梓くん。今のうちに足の五つぐらい捥いでおいで」
「卑怯だし、多いの腕だし、腕もちぎり終わっちゃうオーダー出さないでくださいよ。信用が地に墜落してます」
けしかける樫木を、穏やかにたしなめる梓。
緊張感の欠片もない状況なのに、その背後では絶えず一紀が振るう拳が人形を砕く音が響く。
いい加減こちらも始めなければならない、とカルレスは左手で合図を出す。
一歩の大きな踏み込みで、異形の人形は梓の前に詰める。一対の左腕は拳として握り込まれ、鰐の顎のように上下から梓に襲い掛かる。
瞬きする間の一瞬の襲撃。梓はそちらを見やるだけでなく、右手一本で二つの拳を捌く。下からの拳は空を切り、上からの拳はサナトリウムの床に突き刺さる。雑に叩いたように見える動きも、大きな力を最小限の力で躱すための速度故だ。
「一つ、お前に聞きたいことがある」
突き刺さった拳が抜けないよう、左足で腕を踏みつける。
一対の腕は、同じ肩関節から生えているわけではない。下側の腕は球体関節により、通常の人間と同様の肩関節を象っている。一方で上側の腕は、肩甲骨周辺が始点であり、胸部と連動して動くため肩関節に干渉しない。
その機構のせいで腕は十字に交差し、空を切った下の拳はあっさりと梓の手に掴まれている。人形は脱出を試みようとするが、どちらも押さえつける力が強く抜け出せない。逆の腕たちで反撃しようにも、可動域の影響で梓に拳を突き出すことが出来ない。
「去年と同じ手口でこの街に帰ってきたのは、何でだ?」
添えるように肘関節を掴んでいるというのに、もう関節は微塵も動かせず、じわじわと軋む音が鳴り始めている。人形に感情があれば、間違いなく恐怖に染まっていただろう。それが分からないからこそ、これはただの人形に他ならない。
「そりゃもちろん、君たちに宣戦布告するためだよ」
カルレスは満面の笑みで答える。
その無邪気な微笑みが、梓の怒りの引き金を引いた。
破裂音が響いた。まるで豆腐のように肘の球体関節が握り潰されているとは、カルレスの角度からは見えない。だが音を立てて落ちる前腕部分を見て、何が起こったのかを理解する。
「……そういうところだよ、祝嘘者」
その呟きを聞き逃さず、梓は怒りに任せて足で押さえていた拳を踏み砕いた。再び自由になったというのに、人形は転がるように後ろへ飛び退いた。それは防衛機能が働いたわけではなく、カルレスが指示を出したからだった。
「僕たち凡人が出来ないことを簡単にやってのけて、さも当然の顔をする」
左腕たちの損傷など露ほどにも気に留めず、自身の怒りを優先した。
「でも、そんな余裕もすぐになくなるよ」
カルレスの足元には、彼が背負うには大きめの黒いリュックが置かれていた。ビジネスマンが出勤の際に背負っているのをよく見かける、ありきたりなデザインだ。
「宣戦布告だけど、ただそれだけじゃ面白くないからさ。僕たちが何をしようとしているのかを、二つ、教えてあげてって言われたんだ」
もったいぶるようにゆっくりとファスナーを開け、そこに手を突っ込む。
「まず、『種』がどうして『人形』になって動くか」
梓たちの背後では、人形を屠る音が引き続き響く。
「今いる人間たちから『人間性』だけを移して、こいつらを新しい人間の代わりにするんだ。排泄はしないから汚れないし、食事は必要ないから無益な殺生も減るだろう?」
果たしてそれは、人間性と言えるのだろうか。
口をついて出そうになるが、嬉々として相手側のことを話すカルレスから、情報を純度高く得ることを優先するため梓は押し黙る。
「もう一つ。これは、僕たちの私怨。才能がある人間たちが、神様に認められ、祝われた。それを打倒して、一人も残さず君たち祝嘘者を殺すための、ただの逆恨みだよ」
ずる、とリュックから引きずり出したそれは、円筒形のそれは周囲が透明であり、ディスプレイを目的としているものらしかった。だが問題はその中身だ。
「……腕?」
肘から指先。人間の前腕とすぐに分かるものが入っており、遠目からは造形物としか見えないため梓はそう口にした。
「そう。でもただの腕じゃないよ」
得意げな少年の笑みは、言葉を進める度にさらに深まる。
「これはいわゆる『神様』の死躰の腕だ。僕たちは『神の遺骸』と呼んでいる」
それを軽くノックすると、反響した音が響く。中は水分で満たされており、外界と遮断する部分はガラスに近いもので構成されているようだ。
「神は本来『死』というものが存在しない。でもこれは神が死んでしまった時に発生してしまった死骸の一部。ムジュンしているシロモノなんだよ」
生の否定は死。生き続け、人々を見守るはずの神の遺体の一部が存在するということは、神にも死というものは存在するという証明。
「つまり、この腕こそが神の否定」
スムーズに言葉を並べ、今この瞬間こそがそれを話すに相応しいと言わんばかりだ。
「神の祝福を受けた『祝嘘者』には、その加護を否定するだけの材料になる」
ほくそ笑む少年に、梓は面倒くさそうに首を傾げる。
「何だっけ? 優秀な人間の中でも、特に秀でた才能を持つやつを選んで、肉体を保存するから全く傷つかない、って謳い文句だったっけ。でもその加護を剥がしちゃえば、普通の人間に逆戻りしちゃうんだよね?」
神は、時に飛び抜けた才能を持って産まれてしまった者たちを、全盛期の状態で生かし続けることで損失を防ぐことを選んだ。
それは今まさに梓が受けている加護であり、彼はその生身で刃を通さず、弾丸さえ弾いてしまう肉体になっている。梓の運動神経は、それほどまでにイレギュラーなものだ。
「こいつで、もう三人は殺したんだ。だって、これがあれば君たちは人間に戻るんだからね」
事実、梓は体の軽さを実感していた。重力的なものではない、違和感の話である。本来の肉体の動きを何の阻害もなくこなせることを、話を聞きながら自身の手の把握運動ですぐに理解する。
「この腕の力で死ぬ、四人目になること、喜んで死になよ!」
片腕たちだけになった人形は、怒気を孕んだカルレスの言葉を合図に再び梓へ飛びかかった。空中から振り下ろすだけの形になるため、右腕二本だがその拳で制圧できる面積はよもや躱すことは叶わない。
それでも――――――――
異形の人形は、狂気に満ちて笑うカルレスの、その背後の壁に突き刺さっていた。