12.
ヒオウギ製薬。抗生物質開発が知られており、風邪薬や睡眠導入剤といった薬剤の開発にも携わっており、日本だけでなく世界各地にも製薬工場を抱えている。九井市の東側は工場地帯であり、一際大きな工場がそれにあたる。
「ご無沙汰しております、ヒトナリ相談所所長の樫木仁成です。依頼の件でお伺いいたしましたが、少々お時間早かったでしょうか?」
工場内の事務作業の全てが押し込まれている棟を訪れた一行は、樫木に受付の対応を任せていた。
時刻は一四時を回ったところ。高校生である梓は、授業を休んでいるため、オーバーシルエットのシャツに黒のワイドパンツという私服で訪れている。同様に、警察官であることを知られないよう、一紀はワインレッドのワイシャツにスラックスを身に着けている。
「何でホスト崩れみたいな恰好なんだよ毎回」
「ホスト崩れを実際に見たことないだろお前は」
小声でいがみ合っているが、毎度のやり取りのため樫木はそちらになど目もくれない。
「それより、俺だけに任せてよかったろ。学生の本分を忘れるな、ってまた師匠に怒られるぞ」
さらに声を潜めるために、一紀は梓のそばに寄って釘を刺そうとする。
「やるべきことは優先しろ、って言われてるだろ俺ら。きちんと教えを守ってるんだよこれでも」
「授業に出たくないだけだろ」
「正直、世界史はだるい」
「それはそう」
顔を合わせればいがみ合うのが常だが、この二人、案外馬が合うのだ。
「ありがとうございます。それでは失礼します」
樫木の言葉に、二人は口を噤んだ。
彼が歩き出すと、その背中を追って二人も歩き出す。
エレベーターに乗り、辿り着いたのは最上階である五階。窓の少ない廊下のため、陽が傾いたこの時間でもほとんど外からの光は入らない。薄暗い廊下を、くたびれたシャツの男が先陣を切り、体付きのしっかりした青年二人が後から歩く。俯瞰で見れば、どうにも異様な光景だ。
不気味な静けさのまま、ドアを三つ通り過ぎた部屋の前で止まる。三度のノック。返答はない。一瞬の躊躇いもなく、樫木はドアノブに手をかけて一息で開ける。
フロアの三分の一を超す広さの会議室があり、通り過ぎたドアたちもここに通じていた。
きちんと並べられた長机と、二つずつ設置されたパイプ椅子。正面にはホワイトボードが掛けられており、赤青黒の三色で無数の言葉が書かれていた。
「……誰も、いない……?」
迷いなく会議室の奥へ進む樫木とは裏腹に、一紀は周囲の警戒を強めながら慎重に侵入する。いつ、何が起こるか分からないと構えつつ、周囲への視線を絶え間なく飛ばす。
だが梓は、迷いない足取りの樫木の後を、これまた迷いなくついて行く。まるでやることはもう決まっているのだから、警戒は意味がないとでも言わんばかりだ。
樫木は中央の列、ややホワイトボード側寄りのパイプ椅子に腰かけると、ポケットから掌サイズの酒瓶を取り出した。中は透き通っており、慣れた手つきで開栓すると一息に呷る。
それを合図にしたかのように、ドアの一つ、入ってきたドアから一番遠いものがぎいと開けられる。音に真っ先に反応したのは、誰より警戒をしていた一紀だ。
ドアはゆっくりと開く。両開きのドアのため、内側に開いたせいで来訪者が何者なのかをまだ確認できない。
カラカラと。木製の、じゃれてくるような音がした。
それはドアに指をかけると、引っ張り上げるかのようにして自身の体を会議室へと滑らす。
三人が見慣れた、『人形』が来訪者だった。
目測約二メートル。原が見かけたという人形の特徴であり、おそらくは目撃したもの本人だろう。
『から――――か、ら――』
開戦の狼煙は、まるで声のような、からくりの駆動音からだった。
人形はその音を鳴らした途端、ドアを踏み台のようにして、一番近くにいる一紀へと飛びかかった。殺気なく向けられる暴力に、一紀はその身に沁みついた動きで対応する。
純粋な勢いだけで迫る人形の右拳。真っ直ぐ振り抜かれた拳はただの暴力だが、制約の存在しない人形にとって、純然たる蹂躙である。これに殴られてしまえば、人間の頬は皮膚が一瞬で剥がれ、肉はその内に交通する口腔へと弾き出され、歯はおろか頭蓋事を砕き、頚椎から頭部を容易く外してしまう。たったそれだけの力を持つ。
しかしそれは、〝当たれば〟の話だ。
軌道が真っ直ぐであるため、如何に力が加わっていても横からの力には非常に弱い。先に前に出していた左手は、人形の手首に向かって掌打に変わる。自身の左側へ人形の拳を躱しながら、握り込んだ右の拳を鋭く突き出す。
推進力と真逆の力を腹部に受けた人形は、あっさりと飛び出したドアへと返品される。
轟音と瓦礫をまき散らし、人形は崩れた胴体のせいで動くことが困難となった。
「んーぅ、脆いなぁ。やっぱ、しっかりと形のある『種』じゃないとダメなんだなぁ」
この場ではおよそ似つかわしくない、若いを超えて幼い少年の声が会議室に響いた。
三人は驚くことはない。敵がどんなものなのかを知っているが故に、想定通りの声が聞こえたおかげで平静を保っている。
「やぁ、一年ぶりかな。そっちの人は初めましてだけど、僕に驚かない辺り、二人から聞いてたみたいだね」
人懐っこい笑みを浮かべる異国の少年は、ホワイトボードの前に置かれた椅子に座っていた。元々発表の場で使用するのだろう、彼らは当然向かい合っていた。
「そういえば、前は名乗ってなかったよね。お兄さんと、おじさんもそういえば僕の名前は初めて聞くことになるんだ」
名乗るのが恥ずかしいと言わんばかりに口元を押さえ、少年は頬を赤らめながら笑う。
「僕はカルレス。それだけ覚えてくれたら、すごく嬉しいよ」
三人は決して動かない。カルレスが少年だから、ではない。彼のそばに控えている人形が、何をしてもおかしくないからだ。
『人形』というものは、本来人の形を模して作られるべきだ。だがその『人形』は、大まかに人の形を象ってはいるが、明確に人たりえない姿をしている。
二対の腕。肩口から生えたそれは、SF映画に出てくる敵にも思えるし、国民的ゲームのクリーチャーにも見える。それでも分かるのは、明確に三人に対して敵意を向けているということだ。
また背後に背負ったドアそれぞれからは、先刻と同様の人形たちが続々と吐き出されてくる。この場合は入ってくる、が正しいか。
「こっちは全部俺が引き受けてやるよ」
「珍しい。そもそも「何で兄弟子が一番槍捌いてんだよ!」ぐらいには怒ると思ってたのに」
視線を交わす必要もなく、梓はホワイトボード側に立つ異形の人形へ、一紀は大量に訪れる人形たちへ向き合いながら軽口を叩き合う。
「知らない俺がそっちを相手にするより、見知ったお前がやった方がそっちも喜ぶだろ」
「俺だけが喜ばない不幸せな選択じゃん。だからこないだの合コンも失敗したんだろ」
「あれは緊急で出動要請がかかったから仕方ない」
「仕事する可能性があるのに合コンに行くなよ」
互いに交わしたい言葉があるのは分かっているが、今は眼前の敵と相対するべきだと口を閉じた。二人の口元には、倣ったかのように笑みが浮かぶ。
「ねぇねぇ。お話、終わった?」
しばしの沈黙を受けて、カルレスはつまらなそうに尋ねてくる。返すべき言葉はないとばかりに、直接対する梓はただ睨みつけるのみ。
準備は整ったと判断し、カルレスは右手を自身の人形へ当てて二度タップ。カラカラカラと関節を鳴らしながら、彼を守るように前に躍り出る。
「じゃ、始めようよ」