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こちらヒトナリ相談所  作者: 多希やなぎ
Case.226 June 21. 『人形』が見える
10/15

7.

今日の彼女は多忙だった。度重なる実りのないミーティングに、書類の納期を短縮されて、以前提出した書類の不備が発覚し平謝り。残業四時間は、いつもより短く済んだかもしれないと感じている辺り、疲労と日頃の慣れというのは恐ろしいものだ。


溜め息を吐きながらパンプスの足音がひどく耳につくことに気付いた時には、もう周囲には誰もいなかった。二一時という時刻は、商店街はシャッターが下ろされていて物悲しい気持ちになりながらいつも帰っていた。しかし店のほとんどに灯りが点いたままシャッターが下ろされておらず、それでも誰かがいる様子はなかった。


薄気味悪さを感じて歩調を速めた瞬間、腕を強い力で引っ張られる。バランスを崩して転び、石畳を引きずられる。声を上げたはずなのに、その声が自分の耳に全く聞こえない。


腕にある冷たさは無機物のようで、自分を引きずることだけを目的としていた。どれだけ抵抗しようとしても、彼女の身動きをものともせず暗闇の奥へと連れられて行った。


タイツは既にボロボロで意味を為さず、白い脚は石畳に擦られて血を流す。抵抗するために石畳に立てた指も爪も、タイツや脚と同様に傷ついている。引く力が急に止まった時、そんな男の声がしたのだ。


「ほ、本当に連れてきた……」


聞き覚えのない声に、震えながら彼女は振り返る。街灯が照らしていない場所だから、どんな顔をしているのかは分からない。だがこんな乱暴な扱いをされて、無事では済まないということは理解できた。


それでも声を出すことが出来ず、そこで初めて自分が恐怖に囚われてしまったのだと気付く。


「壊していいのかな……自由にしていいって言われたから、いいんだよね……」


男の息は荒く、大きく生唾を飲む音が響いた。


彼女の腕は、変わらず何かに掴まれていた。自分を引きずったのが声の主ではないとしたら、今掴んでいるこれは一体何なのだ。そこでようやく、腕を掴んでいる犯人へと視線を向けた。


それは自分に視線が向けられたと分かると、ぐっと顔を寄せてきた。正確には顔と称するべき部位が近付いてきただけで、そこに顔はなかった。顔のない木製のマネキン人形が、腕を掴んでいた。


「女の声ってうるさいから嫌いなんだ。だからなるべく、声出さないでくれよ……」


無機質な腕はどうもがいても外されることはなく、痛みをようやく感じ始めた手足がさらに逃げるということから彼女を遠ざけていく。掴んでいる人形の腕を引き剥がそうと思い付いたのは、男が一歩こちらへ踏み出してきたせいだった。


何をしてくるのかは分からないが、何かをされるというのは確実に分かる。この拘束を外さなければならないのに、腕は動くことはない。動くはずの関節はまるで固定されているように、僅かに軋むことすらしない。


それならば、と足元に転がっていた石を掴み、指先の痛みを食いしばりながら人形の腕に振り下ろす。何度も振り下ろして、鈍い音がその度に路地に響く。


しかし痛みに耐えきれず、石を落としてしまう。渾身の力で石を握っていたため、掌にも傷を作って血を滴らせる。腕は壊れるどころか傷一つなく、それが認識できるほど目が暗闇に慣れてしまっていた。


足音は、もう手を伸ばす必要もないほど傍で聞こえた。男を見上げるが、覗き込んでくるようにしているため陰になり、かろうじて目の位置が分かる程度だ。


呼吸は短く、息が上手く吐き出せない。今の今まで、どうしてこの体が感じている恐怖を他人事のように思っていたのだろう。感情と体が完全に乖離していて、最早自分ではないのではないかとすら疑うほどだ。


そんな現実逃避をしてしまう余裕があったためか、自分の後ろに別の人間が来ていることに気付かなかった。そもそも、彼女も襲ってくる寸前の男も人形も、誰一人彼の存在に気付いていなかったのだ。




「ちょっとお邪魔します」




青年の声は、この暗い路地に似つかわしくなく、ひどく明るい声だった。ひょうきんに聞こえる彼の声に、そこにある視線は全てそちらへ向けられた。ただ一つを除いて。


パキャッ、と随分間抜けな音がして、人形は壁に打ち付けられていた。彼女の腕にあった拘束はあっさりと解かれ、バラバラと崩れ落ちる人形があまりにも非現実的な光景のように映る。


「……は?」


迫っていた男は、人形の音と同様に間抜けな声を上げた。


「ど、どうなってんだよ……絶対に壊れないって言われたのに……」


青年は人形の残骸に近付くと、容赦なく胸の辺りを蹴り飛ばした。バラバラと破片を飛び散らせて、路地を無惨に転がっていく。数歩進んで破片の一つを拾い上げると、ポケットに収めてから男の方を向いた。


「その言い方、まるで誰かに人形の使い方教わったみたいだねお兄さん」


「う、うわああああああああああああああ」


標的が自分に切り替わったことを察すると、情けない悲鳴を上げながら路地を走り始めた。すぐに転んでしまい、水たまりに突っ込んだ。それでも立ち上がって逃げようとして、はたと何かに気付いたように立ち止まった。


「そうか……消しちゃえばいいんだ……」


呟いてからズボンのポケットに手を入れると、何かを取り出した。


「ちゃんと使い方聞かされてんのか……」


青年はそう呟くと、彼女の前に背を向けながら立った。


「すぐ終わらせるから、痛いのもう少し我慢しててなお姉さん」


優しく声を掛けられ、彼女は何が起こっているのかをようやく理解した。自分はこの青年に助けられたのだと分かり、ほっと気を緩めてしまい、痛みを思い出した。




男は『種』を取り出すと、口に含んだ。噛み砕く音が響き、それを飲み下した。


梓はローファーの爪先でトントンと足元を叩き、足の感触を確かめる。約一週間ぶりの仕事であり、稽古は続けていても実戦は久しぶりになるのだ。稽古のようには動けないかもしれない、という一抹の不安はある。その恐怖を忘れずにいるからこそ、迷いなく相対することが出来る。


どさっと音がして、男が再び倒れていた。喉を両手で押さえて苦しみ、何度も上体を前後に振る。まるで何かを堪えているようで、辛い呼吸だけがずっと聞こえる。ふと動きが止まり、口が大きく開いた。呼吸は嗚咽に変わり、吐き出すようにしてそれが出てきた。


喉から出てきたのは、手だった。爪が無く、皮膚としての質感も存在しない。絞り出すように、人形はその男の喉から産み落とされていった。


人間の質量からは生み出されるはずのない、人間と同じ大きさの人形が吐き出された。


男は苦しみから解放され、荒げた息をゆっくりと整えた。忌々し気に人形の背中を睨みつけるが、立ち上がってほくそ笑む。


「人形は『種』を砕けば生まれて、飲めばより強い願いを持って動くようになるって言ってたけど、どうかなぁ……」


下卑た笑みに変わった男は、立ち上がってきた人形の背を軽く叩いてみせる。


「さっきは『種』を砕いただけだったから脆かったんだろうけど、これなら壊れないだろ」


自信満々に言う男に対して、梓は呆れたように深い溜め息を返す。梓としては、もう少し種に関しての情報を持っているものだと思っていたが、あまりにも期待外れの人間だった。


「それ、リスクとかデメリットとか、普通の人間には傷一つ付けられないとか、あんた何も聞かされてないだろ」


訝し気に眉をひそめた男に、梓はさらに言葉を重ねる。


「飲んで生まれた人形が壊れたらどうなるのかも知らないなら、引っ込め方ぐらいは聞いとくべきだったな」


そうして、梓は構えた。ただ軽く左足を前に出しただけだが、上体を半身に切り、いつでも踏み込めるように右足の踵を浮かせている。


「うるさいガキだな。先にお前から殺してやるよ!」


男はその言葉で、人形に願った。


昔から、どこかにその願望があった。人を殺してみたい、傷つけて肉の感触を味わいたいという欲望はいつまでも消えることはなく、幼少期から抱えていたそれは膨れ上がるばかりだった。


口にすることは出来ず、認められることもない願望を抱えたまま生きてきた男に、『種』の存在が知らされれば食いつくことは必至だった。


渡された種から生まれた人形がその願いを肩代わりする、という触れ込みだった。決して安い買い物ではなかったが、誰にも見られることなく、誰かを殺せるのならこれほど嬉しいことはない。誰にも明かせない願いを肩代わりして叶えてくれるのだから、それこそ願ったり叶ったりだ。


ようやく種を使ったのだから、どうせなら多く殺すに越したことはない。人が来ないようにして誰でもいいから殺したい、という願いは乱入者のせいで叶わなかったが、殺す対象が増えたと考えれば儲けものだった。


人形は願いを受け取り、その体を動かした。体の感触を確かめるように、腕を軽く上げると指を開いては閉じてを繰り返す。


「お前から死んじまえ!」


指差して声を飛ばすと、人形の顔は梓へ向けられた。まっさらな顔は、それでもこちらを見ているのだと認識させる。


関節がカラカラと音を鳴らし、腕を振りかぶりながら飛びかかってきた。


男は、人形が青年を潰す様を想像して、つい下卑た笑いをこぼしてしまう。ザクロのように潰されて弾ける姿でもいいし、水風船のように壁に叩きつけられて染みになるのも面白そうだ。


人を殺す、という目的を果たされるのが、一人分増えたのだから喜びもひとしおだ。


人形の振りかぶった腕は、青年の頭へ振り下ろされる。人形の力は相当で、人間などその振り下ろした腕でたちまち肉塊に変わる。


「……あれ?」


だのに、一向に音がしない。湿度の高い、崩れながら潰れる、肉塊の音がしないのだ。砕ける頭蓋骨や、きっと防御したであろう腕の骨の折れる音が聞こえないのだ。


人形の背中しか見えず、その死角にある彼の姿が目視出来ない。立ち位置を変えるために数歩右へずれると、その目を疑った。


「あんたの願いは衝動的なものだったみたいだな」


掌で軽く受け止めている梓は、その腕を掴んでみせた。


「覚悟しとけよ。『人形(これ)』に願うっていうのは、こういうことなんだって」


掴んだ腕を、まるで枯れ木のように握って砕いてしまった。


その瞬間、男の右腕は焼けつくような熱を帯びた。


「ぎっ………ッ!」


声を上げることすらも苦しんでしまうほど、そこに鈍く、鋭く、激しい痛みが生まれた。


そう、人形の腕が砕けた瞬間、その痛みに共感してしまったように。


「人形と感覚を共有するのが、種を飲むメリットでありデメリット。まあ普通、人形は壊れることはないからそんな痛みを受けることもないんだけどな」


件の人形は、彼の腕から逃れようと身じろぎするが、微動だにしない。それでも梓を引き剥がそうと、左拳を繰り出してくる。


しかし拳は彼に当たることはなく、あっさりと首の動きだけで躱される。


「それに悪いが、人形じゃあ俺は殺せない」


躱された人形の拳は開かれて、彼の頭を横から掴んだ。握り潰そうと指が彼の皮膚に食い込むが、指の関節がギリギリと音を立てるだけ。トマトのようにあっさりと潰してしまうはずが、まるで鉄塊でも相手にしているかのようだった。


耐えきれなかったのは、人形の指の方だった。


ただの人形であれば、関節から外れるだけで済んだだろう。単純な壊れ方をせず、関節など無視して指がことごとく砕けたのだ。


何の変哲もない人間の頭を潰すだけだというのに、どうして人間以上の強度を誇る『人形』が壊れてしまうのか。


それを理解する前に、男の生み出した人形は、男の背後にある壁に叩きつけられることとなった。


轟音に遅れて振り返ると、壁に人型のくぼみが形成され、そこから剥がれ落ちるようにして人形が落下していく。床に頭から落ちた人形は、重厚な音を立てて破片を周囲に散らせた。


「な、なにが……?」


言葉を失っている男は、それ以上の言葉を紡ぐことが出来なくなっていた。彼の脳にそもそも用意された言葉を、その衝撃的な景色が吹き飛ばしてしまっているのだから、理解することに時間を費やすこととなり、何度も瞬きをしてみせていた。


「ごほっ!?」


先程は同時に痛みがやってきたのだが、背中全体の衝撃と、砕けた頭部の痛みがずいぶんと遅れて返ってきた。


「致死性の高い痛みは、遅れてかつ使用者を死に至らしめないよう弱まって返ってくる。これも、説明された? されてないでしょ」


梓はそう吐き捨てると、男の方へ歩み寄る。


ローファーの踵が鳴り、この路地にひどく響いた。一歩、また一歩と近付くその音が、男にはカウントダウンのように聞こえる。


より一層強く響いた瞬間、男は体を大きく震わせてひどく恐怖した。その恐怖は、全身を蝕む痛みを一瞬だけ晴らすほどだ。


「もう動けないんだから、諦めてそこで寝てていいよ」


すぐ上から降ってくる声に、男はもう完全に折れてしまった。


人形越しとはいえ、動けなくなるほどの痛みを受けている。しかもそれを受けた人形の痛みよりも、幾分か弱いものになっているという。もしこれを自分の肉体で直接受けることになったら、と僅かでも脳裏によぎってしまったため、男は何も出来ない。




だが、折れてしまったことがいけなかった。


生み出した側が意識を失うか、持ち主が「壊れた」と認識すると、人形との接続は切断される。糸を切られたマリオネットはそのまま地に落ちるが、この人形はそうではない。


人の思いを受けて生み出され、人の代わりに人以上の動きをするためのもの。いわば、人間の殻。人から離れても、受けた思いは殻の中に残り存在する。今この時のように接続が切断されると、人形は人形から離れてしまう。


そう、人のように振る舞うのだ。


ヒビの走る全身を動かし、ぎこちない動きで人形は立ち上がった。自分の体の動きにまだ慣れていないため、関節一つを動かすのにも一苦労だ。


しかしそれも束の間。自然な人間のように、左腕を自身の眼前へと掲げた。指が全て壊れ、掌と甲の部分が残った手を、裏へ表へと返してそれが自分のものだと確認している儀式のように見える。


腕から視界が動き、完全に砕けて空虚となった顔は梓へと向いた。男を挟んで斜向かいに立つ彼に、人形は首を傾げてみせた。


梓はその空虚に怯むことなく、両足を踏みしめる。重心を後ろに引いた右足に置き、前に置いた左足はいつでも動かせるよう踵を軽く浮かせておく。


人形はゆっくりと歩き始める。カラカラと全身を鳴らしながら、梓の方へ一歩、また一歩と進んでくる。

そうして手を伸ばせば届くほどの位置まで近付くと、うつ伏せになるようにして倒れた。


数呼吸置いて、梓は緊張を解いた。


蹲る男は、既に全身の痛みに耐えきれず気絶しており、呼吸をしているだけだ。


「お姉さん、大丈夫?」


人形に引きずられた女は、梓の声にようやく顔を上げた。優しく微笑んで手を差し伸べる梓に、彼女はほっと息を吐く。


「えっと、足は痛いけど、なんとか」


答えられた彼女に安堵し、梓はスマホを取り出して操作すると耳に当てた。


「こんばんは矢沢さん」




「また人形か……どうなってんだこの街はほんとに」


くたびれた薄手のコートを羽織った中年の男は、パトカーから出てくると真っ先に梓に声をかけた。


「はい。また増えてきましたね、困ったことに」


矢沢(やざわ)邦弘(くにひろ)は、梓のその言葉に表情を曇らせる。自分たちの行うべき治安維持を、一学生にも担ってもらっているというその情けなさ。役割を持っているというのにそれを果たせていない無力さを、矢沢は梓から連絡を受ける度に痛感している。


続いて現れた複数の制服姿の警察官は、それぞれ倒れている男の確保と、人形に襲われた女性の保護へと向かう。合わせて救急隊員も現れて、ストレッチャーが二台運び込まれる。


「とりあえず種は残ってませんでした。二つしか買ってなかったみたいで」


最初に砕いて使ったものと、自分で飲み込んだもの。それ以外は男の持ち物からは見つからず、自宅を調べてもらわなければならない。


「まあ多分、家宅捜索しても出てこないだろうな」


過去の『種』の購入者は、全員肌身離さず『種』を所持していた。だが押収すると、数時間の後腐敗してしまうことが判明している。つまり『種』が自宅から見つかるということは、使い物にならない。


「買った連中は全員その説明を受けているし、売人は全然素性を明かさずに、しかも老若男女と複数犯で足も付きにくいよう動いてる。何をしようってんだ全く」


人形の事件はここ数年で急増しており、『種』の存在が判明したのはおよそ一年前だ。その成分や製造法は不明だが、その使用方法は解明されている。使用者が砕くことと、飲み込むこと。使用者から直接聞き出したことだが、答えた全員が同じ方法で使用したと話した。


「悪いな日紫喜くん。毎度毎度、樫木の使い走りやってもらって」


「俺にしか出来ないんで、仕方ないですよ」


困ったように返す梓は、ストレッチャーに乗せられた女性へ視線を向けた。救急隊員の質問に冷静に返しており、想定していたほど精神的なダメージは見られないように思う。ちらとこちらへ向いた彼女の視線から逃れ、矢沢に向き直る。


「とりあえず、人形や種の情報、何か進展あったら先生に連絡してください。俺にも伝わるんで」


顔の横でスマホを振ってみせると、矢沢の脇を抜けていく。それを呼び止めることもなく、矢沢は現場の方へ足を踏み入れる。


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