むかしむかし
子供の頃は、ほとんど毎日怪我をしていた。普通の子供なら転んで怪我をした、ということがほとんどだが彼の場合は違った。
ただ走るだけで筋が切れ、ボールを投げるだけで脱臼していた。当時の彼は、自分がひどく弱い子供だと思っていた。しかし実際は逆だった。
力の加減が出来ず、その反動で負傷しているという医師の見解を両親は知らされることとなった。
人間の脳にはリミッターが掛けられており、三割程度の力しか発揮できていないという話がある。だが彼はそのリミッターが「甘く」掛けられているようで、全力を出そうとすると実際に発揮できる全力を出してしまう。
そのため走れば筋は切れ、ボールを投げれば腕のあらゆる関節が、その力によって生み出された遠心力によって外れてしまう。時には負荷に耐えられず、骨折することもあった。
成長過程の幼少期には肉体の成長も精神の成長も追いつかず、力をセーブすることが出来ないため、より負傷しやすい状況であった。
それでも彼は、自身を呪うことはなかった。壊れてしまうのなら壊れにくい体を作ればいいのだと単純に考え、彼はがむしゃらに体を動かすことにした。
その結果として、体の動かし方を理解した力の有り余る青年へと成長した。
退屈だった。何をしても、人よりこなせる、というものはひどく面白味のないものだ。
誰もいない体育館で、バスケットボールを弾ませてはキャッチを繰り返す。その音が痛々しく響き、孤独感を知らせる。
見据えたゴール下で跳び上がるが、そこで上体を大きく反転させる。綺麗なフォームで放られたボールは、遥か向こうにあるはずの反対側のゴールへ放物線を描き、リングに当たることなくバスケットへ吸い込まれる。
フォームはそのままに、放る際の力を加減しているだけだ。もうその感覚は掴んでおり、コートのどこにいてもゴールすることが出来てしまう。
歩いて拾いに行き、手にすると大きな溜め息を吐く。立ち上がって後ろ手に放ると、見てもいないゴールへ入った。
実際にプレイする時には、パスもドリブルも駆使して仲間と協力するのだが、一人でもできなくはない。それが分かってしまうと、もう心から楽しめることはない。
どんなスポーツでも、協力していかなければ面白くない。ワンマンプレイでは意味が無いのだが、力を持て余してしまうのだから不完全燃焼となるため、彼の感じる楽しさが半減する。
ボールを片付けると、体育館を後にする。
血の臭い。
ドアを開けた時、その臭いがすぐに血だと分かったのは、どうしてだろうか。
繰り返す瞬きで、この暗い室内へ慣れるはずもなく、彼は仕方なく靴を脱いで玄関からリビングへ向かう。
「父さん? 母さん?…… 帰ってないのか?」
言葉を喉から搾り出していることで、この慣れ親しんだ家で恐怖していることに気付く。
喉に張り付く感覚があって、緊張がどんどん膨れ上がる。
壁を手探り、あるはずのスイッチを押して電気を点けようとする。そこで、手がぬるりとしたものに触れる。壁に散っていた液体のような何かが、右の掌を濡らしていた。
感触を確かめながら、ようやくスイッチを押す。
一面の赤。
白い壁紙だったはずの室内の八割は赤く染まっており、それを認識した瞬間、血の臭いは存在感を一層強めた。吐き気を催す臭いで口元を覆いそうになったが、右手は件の血で赤く濡れていた。
「なん、だこれ」
彼は今まで、気付くことが出来なかった。確かにこの部屋で、音が響いていることに。
団欒を過ごしていたソファで、ぐちゃぐちゃと湿度の高い音が鳴り、カラカラと玩具が転がるような音が絶えず流れている。
音に気付いてから、その存在を認識することとなった。
顔のない木製の人形は、人間のように腕を動かして肉塊を掴み、がぱと開いた大きな口に突っ込んだ。
そうしてぐちゃぐちゃとまた音を立て、肉塊を咀嚼してみせる。
溢れる血が、口以外存在しない顔と首から下を染め上げていた。
テーブルの脇に、何かが転がっていることに気付くと、ゆっくりと視線を落とした。
細い女の足が床に投げ出されているのに、その上に繋がっているはずの胴体が無い。
視線は自然と、テーブルの上に向かう。
腰まであった長い茶髪が広がり、母親の上半身が横たえられていた。
人形は切断面に腕を入れると、そこから肉を引きちぎってまた口へと運ぶ。
母だったものが、人形に食われていた。
「何、してんだよ」
彼は、言葉を吐き出していた。
その声に気付いたらしく、人形は彼の存在を認めて顔を上げた。
「母さんに、何してんだ」
人形は立ち上がり、口を開いて中にある肉塊を全てこぼした。
ガチっと閉まると、前触れもなく彼へ飛びかかる。閉じたはずの口は再び大きく開き、それはまるで彼も同様に食おうとしているようだった。
だがそこに納まったのは彼の首ではなく、彼の左拳だった。突き刺さった拳は、文字通り人間業ではなく人形の頭を砕いた。反対側の壁に殴り飛ばされ、人形の頭は胴体から外れてフローリングを転がる。
人形は首のないまますぐ起き上がり、彼をフローリングへと叩きつけた。床にひびが入るほどの力で叩きつけられた結果、額が割れて血が吹き出す。
頭を掴み、ギリギリと締め上げながら彼を持ち上げる。骨の軋む痛みと共に、自身の死への恐怖が募っていく。足が浮くほど持ち上げられ、とうとう自由を失う。手は頭を潰されないよう、人形の手と頭の間に差し込んで抵抗している。
手の間から見えたのは、振り上げた左腕。そしてソファの脇に転がっている、無惨に首を引きちぎられた父親の亡骸。自分もこれからそうなるのだと告げられているようで、恐怖は悔しさへと変わる。
「ふざ、けんな……」
ギリギリと響いていた音は、いつしか人形の指へと変わっていた。
彼の生存本能は、ここでようやく彼のタガを外した。
「こりゃまた派手にやられましたね……」
通報の内容は、隣宅で暴れる音と青年の怒鳴り声が響き続けたから、というものだった。それだけであれば近所の交番から警察官一人が出動してくる程度だったが、外から見た窓ガラスに血液が飛び散っているともあり、多くの警察官が押し掛ける形となった。
そこに、一人の私服姿の男が混じり、そんなことを口にした。
夜空を写しているような黒髪と、前髪だけが白くなっている特徴的な髪色をしていた。血染めの部屋を見回し、ソファで血まみれのまま遺体の手を握って離さない青年へと視線を落とした。
「君が人形を壊したのかい?」
彼の視線が声の主へと持ち上げられ、小さく頷いた。人形に殺された、という点を聞けば狂ってしまったと思われるだろうし、そもそも駆け付けた警察官たちには信じてもらえなかった。このまま連行されそうなところに、この男が現れてそれを止めた。
「普通、人間にはあれを見ることは出来ないし、そもそも壊せない」
見れば、彼の左手は手首から先の皮膚が剥がれたようになっており、額の傷も決して浅くはない。決死の思いで抵抗したのだと見て取れるが、生存しているという点に関しては男から見ればあまりにも異常だった。
「これからきっと良くないことが起きる。それをどうするかは君が決めないといけない」
その言葉に、青年は目を見開いた。
「……これから? これ以上に悪いことって何だよ……わけわかんないやつに親殺されて、それより悪いことって何だよ!」
突然怒鳴る青年に、警察官たちは身構えたが、男がそれを手で制す。
「君はこれから、自らの意思では死ねなくなる」
まるで死を望んでいたことを見抜いていたかのような言葉に、青年の目からは大粒の涙がこぼれ出す。声を抑えることなく泣き始めた青年に、警察官たちはいたたまれなくなってしまう。
既に彼は死ぬことが出来ず、試そうとした形跡として、彼の母親が上半身を横たえるテーブルの上に、折れた三徳包丁が転がっていた。
「僕は仁成。樫木仁成。こういった事件に関わり、協力をさせてもらっている。まぁ、この手のプロが僕だ」
泣くのを堪えるため、彼は強く下唇を噛む。
「こうなった原因を知りたくありませんか?」
その言葉は、青年にとってあまりにも甘美な響きだった。
物事には、何事にもきっかけというものが存在する。あまりにも唐突な今回の事件に、もしも原因が存在するとしたら、青年は誰より知るべき立場だ。
「僕はきっと、こうなる原因に辿り着くことが出来る。なにより君は、もう目を逸らせない」
樫木の瞳には、無力に泣く自分が写り込む。助けることは間に合わず泣き叫んで、自分の身だけは守るために傷ついた哀れな存在だ。諦めてしまえばいいのに、そんな簡単なことすらも出来ない。
「君はもう、世界の悪いものに巻き込まれてしまった。知るべき、ではなく、知らなければいけない。君以外には権利だが、君だけが義務になった。どうせ死ねないのですし」
彼だけが、日紫喜の現状を理解している。梓以上に、彼の置かれた状況を理解しているからこそ、樫木は提案するしかない。
「僕を手伝ってください。君の手で、こうなる未来を防げる人が多くなります」
日紫喜梓は、この日天涯孤独となった。人形に襲われ、梓の両親は無惨にも殺された。
人外の存在に壊された日常を、どうあっても取り戻すことは出来ない。そしてもう人にも戻れず、それでも今までのように過ごすことしか出来ないのだ。
樫木仁成によって、これから梓は多くの不可思議な現象と向き合うことになり、自身の知るべき真実へと近付いていく。