第8話 真打ち・国境の神隠し
あまりのことに、というやつだ。
現実がぶん殴ってきた衝撃に、脳がフリーズした。意識は抵抗もなく現実から逃走し、そのまま二度寝という名の一時避難所へダイブ。そんな半逃避行を続けていた空燕の耳を、木製の扉を叩く律動が揺さぶった。
「房殿、飯の時間です。飯を食ったら出発します」
ぎぃ、と戸が軋む。気怠げな声音と共に姿を現したのは、盛将軍だった。だが、その眼差しが室内を一瞥した刹那、彼の顔に劇的な変化が起きた。
「──猫ッ!?」
弾けた。想像だにしなかった破裂音。あの厳つい将軍の喉から漏れ出したとは到底思えない、純粋すぎる歓声。喜びがダダ漏れである。
しかもそのまま一直線。遠慮ゼロ、制動装置なし、全開のエンジンで部屋に突撃し、空燕の胸の上で丸くなっていた猫──否、剣霊・真叶へと手を伸ばす。いとも容易く撫で始めると、さっきまでの鋭い眉はすっかり弛緩し、口元には、なんとも柔らかい笑み。
どうした!?誰だお前!?盛将軍の厳つさ、どこいった!?
だが、それに呼応するように、真叶も満更じゃない様子。ふわりと身を翻し、白いお腹を見せて、どうぞ撫でてくださいと言わんばかりに身体をくねらせる。愛想の良さがバグってる。
その光景を、空燕は腹の上に乗せたまま、ただ遠い目で見つめるしかなかった。心を支配するのは、絶望にも似た諦念。ただひとつ──
──ああ、やっぱり夢じゃなかったんだな、と。
猫に全神経を捧げていた盛将軍が、ようやく現実の存在を思い出したように撫でる手を止め、表情を引き締める。空燕の方へ向き直り、訝しげに問いかけてきた。
「房殿、この猫は? 昨日は居なかったでしょう? 貴殿の猫か?」
「違──」と即答しかけた瞬間、空燕の腹に激痛が走った。
真叶の爪が、これでもかという勢いで容赦なく突き立ったのだ。ぞわり、と肌の上を冷たい痛みが走る。条件反射で息を呑んだ空燕は、顔を引きつらせつつ、正直に口を開く。
「私の剣霊です!」
驚きのまなざしで目を瞬かせた盛将軍。しかし次の瞬間には、「なるほど」とばかりに納得の頷き。
「鎮魔師ともなると、剣に霊が宿るのですね」
そう言いながら、再び真叶の背を撫でている。怖れ?何それ美味しいの?というテンションで。
それを見て、空燕の心には呆れと戸惑いが半々の思いで満ちる。
「盛将軍は、怖くないのですか? 愛らしく見えますが、これは霊ですよ?」
その問いに、盛将軍は撫でる手を止め、真っ直ぐに空燕を見つめ返す。と、その双眸に──ふ、と影が差した。
「私はこの剣霊より、よほど恐ろしい魔を知っています」
低く、静かに、だが、確かな重みを伴って響くその言葉。
盛将軍の目は、今目の前にいる空燕も猫も映していない。遥か遠く、暗い闇を見つめるような虚ろな瞳。まるで、過去の亡霊を思い出しているかのように。冷たく、そして空虚だった。
その眼差しの奥にある“何か”──空燕にはそれが何であるかは分からない。けれど、ただひとつ。
湊国に巣食うという怪異。それが、どれほどおぞましく、恐るべきものであるかだけは、言葉以上に痛烈に伝わってきた。
沈黙が場を支配する。空気が張り詰めたまま、二人は言葉少なに支度を整える。そして向かった宿の食堂で、湯気の立つ簡素な朝餉を前に並び、箸を取る。
その最中、空燕は少しだけためらってから、今後の旅路について問いかけた。
「ところで盛将軍。我々は、湊国のどこに向かっているのでしょう?」
問いに、盛将軍が「あっ」と小さく声を漏らす。
「あぁ、申し訳ない。お伝えしていませんでしたね。私達が今向かっているのは、湊国の南の国境にある町──台です」
そして彼は、重ねるように言葉を続けた。
「台では、一年前から神隠しが起こっているのです」
──神隠し。
その言葉を聞いた瞬間、空燕の背をぞくり、と寒気が走る。
まだ見ぬ恐怖が、空気の縁に、静かに──確実に滲み始めていた。