第1話 最後の鎮魔師
──湊国の南隣国──蘇国にて──
ぐつぐつと煮えたぎるような瘴気が、戦場に立ち込めていた。 空がくすむ。大地がよどむ。命の気配さえ、薄れていく。
──そんな最悪の空気を、鋼の意志だけで切り裂いて進む男が一人。
湊国の鎮魔師、房空燕。 彼は、黙々と、重たい一歩を、もう一歩と重ねていった。 その歩みの先、湊国軍の軍営の中央。戦場のど真ん中。
その足が止まると、空燕は静かに膝をつき、一本の剣を抜き放つ──
鎮魔の剣、『真叶』。
握った剣を、迷いなく天へと掲げ、房空燕は舞う。
──鎮魔の剣舞。
第一の剣舞。空を裂いた刃が、黒く重たい瘴気を風にさらう。ずるずると引きずられ、引き裂かれ、四方へ逃げ散る汚濁。 風が起きる。気が変わる。空気が、少しだけ、軽くなる。
第二の剣舞。風は力を増し、天幕の中から響いていた病人たちの呻き声が、不思議と静まっていく。魘されていた彼らの苦しげな呻きが、潮のように引いていった。
──だが。
第三の剣舞。さらに鋭く。剣に風を纏い、地を斬り裂く。その一閃は、確かに空を震わせるが──熱に浮かされた者たちは、反応を示さなかった。
第四の剣舞。それでも、変わらない。額に滲む汗は乾かず、病に苦しむ者たちの息はなおも荒く、止むことはない。
──それでも、房空燕は止まらなかった。
限界を超えて、何度でも、何度でも、剣を振り続けた。 血を吐こうが、内側から焼け尽くされようが、構いやしない。
たとえこの剣舞で、自分の命を天地に捧げることになっても。 惜しくなんかない。
ただ── ただ、この戦で病に巻き込まれた弟分の子豪。 そして、娘のような弟子の憐の命が救えるなら。
笑顔を、取り戻せるのなら。
それだけのために、限界も痛みも何もかもを無視して。 房空燕は、狂ったように剣を振り続けた。
──それしか、彼にできることがなかった。
しかし。
どれほど舞おうと。 瘴気がどれだけ晴れようと。 現実は、何一つ変わらなかった。
病人たちは、良くならなかったのだ。
◆◆◆
──遡ること九年前、湊国隣国“蔡”にて──
「国費削減のため、鎮魔司は本日をもって解体する。房空燕は解任、官位剥奪。居所である鎮魔司から、即刻退去せよ。以上──」
宣言の声は、まるで真上から雷が落ちるように、無慈悲に降ってきた。 簡素な木造建築の大広間にて、空燕は静かに膝を折っていた。
勅使の読み上げる聖旨が、乾いた空気を裂く。痛いほど、はっきりと。
唐突すぎる訪問、冷たすぎる通達。 それは、突如として胸に突き刺さる氷柱。心が、一瞬で凍りついた。
たった四文の宣告。 されど、それが彼の三十年の人生を、根底から、粉々に打ち砕いた。
──嗚呼、終わったのだ。 房空燕という男の、在り方が。
◆
「魔を鎮める者は清くなければならぬ。殺生禁、飲酒禁、姦淫禁──他者との交流、基本的にすべて禁!」
朱塗りの暖簾をくぐった先、薄暗い酒房の隅っこ。
房空燕は、卓に身を投げ出すようにして酒を煽っていた。 昼間なのに客はまばら。甘い酒の匂いと、炙られた魚の香りが混ざる空間。
呑んで、呑んで、呑んだ。 頬はすでに赤く染まり、目には光がない。
だが、手だけは妙に生き生きと、盃を口へと運び続けていた。
「──こんな美味いもんが、この世にあったなんてな」
呟きは、まるで初めて遊びを知った子どものよう。 卓の上には、鯛の塩焼き。豚の角煮。そして酒。
──全部が“初めて”だった。 房空燕にとって、これは初めての悦楽。
三十年もの間、彼は魔を鎮めるという名の孤独な役目に生きてきた。奇異の目を向けてくる他者なんか、とうに風だ。
振り返れば、空しか見えない。 己は今まで何をしてきたか?答えは簡単だ──何もしていない。
魔なんて、見たこともない。聞いたこともない。 ただ剣を振って、形だけの“鎮魔”を演じ続けてきた。
年に一度の鎮魔式。舞う剣舞。それを“伝統”として残すためだけの儀式。
その報酬が、銀五十両──およそ百万円。
高いのか、安いのか。 だが、それで、肉も、酒も、女も──全部、諦めてきた。
友すら、持ったことはなかった。
官職を奪われ、土地を追われ。 首輪を切られた飼い犬みたいに、房空燕は自由になった。
それは、喪失であり。 そして、はじめて訪れた自由だった。
胸の奥がざわめく。期待なのか、戸惑いなのか、自分でもわからない。
盃を置いて、立ち上がる。 千鳥足のまま、町の夕暮れに溶け込んで──その足が向かう先。
それは、今まで踏み入れることすら許されなかった場所。
すべての掟を破るために。
房空燕は、妓楼へと向かった。
【主要登場人物イメージ画】
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