(9)
コルノはまた静かに話し始める。
「走れば強い技が出せると言ったら、あなたはどうしますか?」
「そんなもん、いくらでも走るよ……。なんで言わねえんだよ!」
「だからです。あなたはとても真面目で優しい方です。暇があったら走るでしょう。でも私はあなたにその走る時間の束縛を与えたくない。スマホゲームやラブコメマンガを見ていてほしい」
「そんなもんより、こっちのが大切だろ!」
コルノは首を振る。笑ってる。なんで、笑ってられるんだよ。
「私はあなたの日常を奪い、守護執行者を依頼しております。しかしできるだけ、あなたには自由でいて欲しいのです。これをあなたの宿命などにして欲しくないのです。もう二度とない十七歳の年月を、少しでも奪う私は必要以上に邪魔をしたくないのです」
「じゃあコルノはどうなんだよ? これしかやることないんだろ? これを宿命だと思ってんだろ? なら手伝わせてくれよ」
コルノの足枷に目をやると、彼女もそれに気付いた。
「たしかに私は守護執行者を宿命だと思っていました。でも凛郎に会えた。これこそ、宿命だと思いました」
そんなこと、キラキラした目で言うなよ。俺なんて、魔法使えることにテンション上がって、遊び半分のような、俺なんて……。
「私は凛郎がひたむきに走ってくれるのを、とても尊敬しています。あなたが朝走るために夜更かしをやめたことも、食事の改善をしたことも、全て走るためでしょう?」
「な、なんで知ってるんだよ」
「思念でスマートフォンを触ってもいいと許したのは、凛郎ですよ。使用時間や検索履歴を見ればわかります」
「り、履歴なんて見るなよ……」
「ごめんなさい。不思議と、あなたのことを知りたいと思ってしまうのです」
コルノが俺を見つめる。伸ばされた手で、頬を撫でられた。泣いてることに今更気付く。
「私は平和というものがわからなかった。目的であるのに、体験したことがありません。それが何であるのか、理解が及びませんでした。でもあなたが生きている世界を垣間見て、素晴らしいものだと知りました。凛郎のような方を育てるものだと知りました」
コルノが俺の手を取る。彼女の手は小さく、骨張って、お世辞にも綺麗な手とはいえない。でもちゃんと暖かい。
「凛郎、この世界を守りましょう」
「なんで簡単に……死ぬんだぞ⁉︎ いいのかよ⁉︎」
コルノの手を握り返した。離したくない。せっかく会えたんだ。もっと話したいことがある。
向こうで街すら行けなかったのなら、こっちの街を見れば良い。映画とかイベントとか、電車とかバスとか、服だって靴だって自分の好きなもの選べばいい。
伝えたい、だけど声にできない。
山が焼けている。焼けた小石が振り注ぐ。遠くでサイレンが鳴り始めた。灰になった木の葉が足元で崩れる。チリチリと髪が燃える。
「俺ができることなんて、ないのかよ……。いいや、俺が行く! 力を返して、その後で力をまたくれよ!」
そんなこと、コルノはしないことわかってる。でも俺は、俺は……。
「あなたに辛い思いをさせること、申し訳なく思います。でも私はこの世界が、あなたが大切なのです。ずっと希望であって欲しいのです。お願いします、凛郎」
それを最後にコルノは俺の手を振り解いた。一直線に空へ飛んで行く。
俺は無様に地に衝突した隕石のようだ。動けない。
手の中で小刻みに揺れるスマホから、くぐもった声が聞こえてきた。
——救いはこの世界で死ねることです。この世界に魂が溶けますから、あなたを見守れることでしょう。さあ、割ってください。
コルノが小さく呻いた。ゴキゴキと音がする。
俺はスマホを地面に落とす。無理だと言う思いと、やらなければという衝動。
——コリ、ジ、オン……コ、ジオ、ン、コリジ、オオン……。
その声に、拳を振り下ろした。何度も、何度も。手の甲から出た血と砕けた鹿の紋章が炎に煌めく。
——コリ、ジ、オ、ン——
グラトニーの悲鳴が空から聞こえた。衝突の光は林の中の地面まで照らす。炎は消え、焼けた小石も消滅してゆく。
体は錘を乗せられたように、伏せていく。光が消えて、乾いた地面に雨の跡のようなシミが付く。
もう何も考えたくないのに、あの短い時間で見たコルノの姿が繰り返される。
でも暖かな手の温もりだけ、うまく思い出せない。