巫女の橋
「あそこの歩道橋、パワースポットらしいよ」
同僚の神埼からそれを聞いたのは、3日前の昼時だった。仕事合間の昼休み。昼食をとっている社員が多く、ざわざわしていたので最初は何を言っているのか聞こえなかった。
「え?なに?何だって?」
「だから、お前も通ってるだろ?2丁目の交差点。あそこの歩道橋が、パワースポットなんだと」
「…パワースポット?」
「そうそう。何か不思議な気持ちになるんだって」
「…漠然としてんな」
声のトーンから怪談話でも聞かされるのかと思ったが、どうもそういう訳ではないらしい。俺は煮物の大根を四分の一カットにして口に含んだ。神崎も、まだ湯気の立っている緑茶をすすり、俺の目を凝視した。
「でも最近話題になってるらしいぜ?ほらあの、ツイッターとかでさ」
「…若者の間で…だろ?」
「まあな」
「…くだらね」
思わず俺は呟いた。まさかこんな話を聞かされるために待たされるとは思わなかったのだ。
「くだらねえとか言うなよー」
「いやいや…、お前が落ち着いて話したいことがあるって言うから、仕事片付くまで待ってたんだぞ?」
「違うんだって。そこ、疲れがとれるとかいう話もあるんだよ。お前、最近ずっと体調悪そうじゃんか。だから心配して…」
「そんなんでとれる訳ないだろ…」
「いや、本当なんだって。俺の友達もそこに行ったらしいんだけど…」
「もういいから!」
思わず大声が出てしまった。はっとして神崎の顔を見る。神崎は驚いた様子でこちらを見ていた。俺はあわてて、
「あ、いや…、あの…俺大丈夫だから。心配しなくても。最近休めてないだけなんだ。今週末休みだから、家でゆっくりするよ。ごめんな、心配かけて…」
と謝った。神崎は一瞬きょとんとしていたが、我に返ったように言った。
「ああ、そうなんだ。いや、俺もさ、本当なのかなーって思っただけで…」
「ていうか…パワースポットって何だっけ?ピラミッドみたいなやつ?」
「あーエジプトの?何かあるよな。物が腐らないだっけ?」
「そうそれよく聞くよね」
それから少しピラミッドについての会話が続き、時間になったので神崎が席を立った。
「じゃあまたな」
「おう」
そして、俺も皿を片付けはじめる。ふと、先程の話を思い出した。
…何がパワースポットだ。
「くだらない…」
思わず呟いた。
─────
「須藤君、この見積もり、あなたの担当よね」
「え?」
パソコンを睨んで計算をしていたら、上司に声を掛けられた。振り向きざま、書類を目の前に突きつけられる。手に取り見てみると、確かに俺が担当していた業者の見積書だった。二日前に作成したのを思い出した。
「数量、間違ってるんだけど」
「え…」
確認すると確かに間違っていた。商品名のそれぞれの個数は合っているが、全体の合計が違っている。
「す…すみません!」
俺は反射的に頭を下げていた。注意深くやったつもりだけあって、どうして、という思いが頭の中をぐるぐると回った。
「あなたがこんなミスするなんて珍しいわね」
「いえ…本当にすみません。ちょっと疲れているみたいで。今週末休みなんでゆっくりしようかと…」
「…そうね。たまには気晴らしでゆっくりした方がいいわ。温泉にでも行ってきたら?」
「あ、はい。ありがとうございます。行ってみます」
上司が去るのを見届け、俺は思わずはー…と盛大なため息をついた。机を隔てて前に座るメガネの同期が一瞬ちらっと見てきたが、すぐに視線を戻した。
あー…人のため息なんて聞きたくないよな。
「悪ぃ…」
謝ったが、メガネの同期には聞こえていないようだった。
─────
午後八時。仕事が終わり、俺は会社を出て歩道を歩いていた。辺りは真っ暗で、車の行き違う風を切る音が鬱陶しいくらいに耳に残った。俺は何の気なしに歩道の端のでっぱりに飛び乗ってみた。五、六歩歩いてみる。が、途中で馬鹿らしくなったのでやめた。
「…」
ふと前を向くと、歩道橋があった。今まで忘れていたのに、昼間の神埼の話を思い出した。気にしていないのに、思い出してしまった自分が何だか悔しい。顔をしかめて階段を登った。暗いので足元はほとんど見えない。何だか足が重い。いつもどうやって登っていたんだっけ?と普段の感覚を思い起こす。気が付いたら、すぐ下に車が通っているというのに、辺りが静かになっていた。音は靴音とスーツがこすれあう音しか聞こえなかった。
「…あれ」
一番上まで登ったとき、白いものが見えた。向こう側の階段に行く少し手前に、何か白いものがある。俺は目を細めた。
「…っ」
人だ。少女がこちらを向いて立っていた。こんなに寒いのに真っ白なワンピースを着ている。誰だ?こんな時間に何をしている?親は?放浪してるのか?
一瞬でいろいろな考えが浮かんだが、とにかく俺は目の前の少女から目を離せず、動けなかった。
「あ、ちょっとっ…」
少女が後ろを向いた。そのまま歩き階段を下り始める。
「待っ…」
反射的に俺は少女の後を追いかけていた。少女の妙に落ち着いた様子が、俺の足を自然と動かしていた。
慌てたせいか足を滑らせ、階段を転げ落ちそうになった。足の先に精一杯の力を入れて、何とか体勢を整える。見てみれば少女は階段を下りおえていた。俺も慌ててその後を追う。階段を駆け下りた。すると少女が振り向いた。
そして笑った。
歩道橋をわたり終えると、国道から外れた住宅街に入る道がある。少女はそこに入っていった。
「なん…、今のは…?」
俺のことを知っているのか?
少し怖い感じがした。子供の時から苦手だった怪談話を思い出したのだ。しかし俺の思いとは裏腹に、俺の足は勝手に前に進んでいく。
住宅街は静かだった。明かりさえついているが、話し声は聞こえない。街灯も少なく、俺は少女の白い影を頼りに、道の奥へと進んでいった。会社を出る時は腹が減っていて仕方なかったのに、そんなことは全く気にならなかった。しばらく進むと、少女は右に曲がった。どうやら十字路のようだ。俺も迷いなく右に進む。少女がまた振り向いた。俺がちゃんとついて来ているか確かめるように。
君は誰なんだ?
頭の中で思ったが声には出さなかった。おそらく聞いたところで教えてくれないだろうと、勝手に想像したからかもしれない。
周囲の家が少なくなっていた。それこそ街灯はなくなり、真っ暗な闇が俺を包んだ。目の前が見えなくなっても、少女が確かに前を歩いているのは分かる。
「…川?」
水の流れる音が聞こえた。どうも近くに川があるらしい。俺は後ろを振り向いてみた。足元で植物と靴がこすれる音が聞こえた。俺はもう一度前を向いた。そして気付く。少女の姿がない。
「さっきまで…」
辺りを見渡すが、少女の気配は全くなかった。と同時に、体が一気に冷え切っていくのを感じた。思えば、もうとっくに家に帰れるほど時間が過ぎているはずだ。さっきまで平気だったのに、少女がいないと分かってから、言葉にならないほどの孤独感を感じた。俺は子供みたいに腕を振り上げて、真っ暗な闇の中を走って家に帰った。
─────
土曜日の午前十時。あの歩道橋で少女を見てから、三日が過ぎていた。あれから少女の姿は見ていない。全部自分の幻覚だったのではないかと思っていたが、気になることがあった。
住宅街の奥の川である。
何だか、懐かしい感じがした。暗くて見えなかったが、俺は一回あの場所に行っているような気がする。そう思い立ったのは昨日の夜中で、俺はせっかくの休日をあの川へ費やすことに決めた。Tシャツに灰色で地味なパーカをはおり、鍵をかけて家を出る。気持ち良いくらいの晴天だ。ふと、今まで買い物以外で外に出たことなんてあっただろうかと思った。仕事を始めてからもう五年が経つが、今日は何にも縛られていないと感じた。
「…行くか」
歩道を歩く。今日は車の通りが少ない。
「時間帯がなー。通勤じゃないからなー、うん。あれ、でも今日土曜日だな。みんなどっかいったりしないのかな」
などとどうでもいいようなことを想像する。誰も聞いていないからと、知らないうちに声を発していた。
「あー…みんな休日はゆっくりすんのか…」
勝手に結論づけてみる。…そりゃそうか。休日だもんな。休むべき日…だろ?
だったら何で俺は歩いてんだ…。
面倒になったので想像するのをやめた。目の前にある小石をつま先で蹴ってみる。小石は転々と転がって車道に出た。車が来てタイヤが小石を踏み潰した。
「…」
何だか自分の何かも一緒に踏み潰された気がした。
─────
住宅街は昼間に来ても静かだった。しかし人はいる。リュックを背負ったおばあさんとすれ違った。おばあさんが「いい天気ねえ」と言うので俺も「そうですね」と返した。どこかに出かけるのだろうか。しばらくすると十字路に出た。飛び出し注意!と書かれた看板が目に入る。俺は十字路を右に曲がった。
ふと自然と早足になっている自分に気付いた。家が少なくなっていく。道もどんどん細くなっていく。
「あ…」
水の流れる音が聞こえた。俺は耳を澄ませて音の行方を探して走った。眼前の緩やかな坂を上っていく。すると、一気に視界が開けた。
「この場所…」
俺が立っているのは土手だった。すぐ近くには、花は咲いていないがたくさんの菜の花が植えられていた。土手から先は石が河川敷のように敷き詰められていた。というか、河川敷そのものだ。
「ここって…」
俺の頭の中でいくつもの情景が写真みたいに次々と浮かんできた。思い出したのだ。俺は小さい頃、ここに来たことがある。両親に連れられて。
俺の父親は忙しく、仕事に追われてなかなか休みがとれない人だった。だから、小さい頃に父親と遊んだ記憶はほとんどない。しかし、そう、俺が小学四年生の時だった。久しぶりの休みに父親が俺に言ったんだ。
「いい場所に連れて行ってやる」
「えー?それってどんな所なの?」
父親がいつもよりも優しく見えたから、俺は確かうきうきしながら聞いたんだ。すると、
「父さんの秘密の場所だ」
そう言って少し誇らしげに笑ったっけ。
家族三人で遠出をしたのはその時が始めてだ。俺は車の中で学校のどうでもいいことを、べらべらと父親に聞かせていた。母親はそんな俺を見てにこにこ笑っていた。家からどれだけの距離だったか忘れたが、車を降りて少しして、突然その光景はやってきた。
「ほら、着いたぞ」
車から降りると、そこは別世界だった。俺の目の前、一面に菜の花が咲いていた。その奥では川が流れていて、太陽の光を水面で反射させていた。風が吹くと同時に菜の花はゆっくりと揺れた。お互いがこすれ合う、さぁっという音が耳に心地よく流れた。
「うわぁ…」
俺はしばらく呆然とその様子を見ていた。母親が俺の隣に来て、
「きれいねー…」
と、うっとりと眺めていた。
─────
父親が死んだのはそれから五年後、俺が十五歳の時だった。俺の父親は職場に向かう際、交通事故に遭ってあっけなくこの世を去った。母親が俺の通勤に徒歩を勧めたのは、今思えばそれが関係しているのかもしれない。
「…あれ、…出ないな」
アパートに戻ってきた俺は、久しぶりに実家に電話をかけることにした。思えば、仕事を始めてから、実家に連絡を入れたことはほとんど無かった。
「あ、つながった!」
『あんた、どうしたの?何かあったの?』
母親は少し慌てたようだった。滅多にかけなかったので、驚いたのかもしれない。
「いや、何も無いよ。ただ、全然連絡してないなーって思って…」
電話の向こうではーっというため息が聞こえた。
『おまえ全然連絡よこさないから…。忙しいのかと思ってこっちからも電話掛けられなかったのよ。どう?元気にしてるの?仕事は順調?』
久しぶりに聞いた母親の声は、全く変わっていなかった。やわらかい口調もそのままで、聞いていると胸の奥が暖かくなるのを感じた。
それから少し長電話。美人の上司のことや、神崎という同僚と業績を競い合っていることなど、どうでもいいことをべらべら喋った。母親は一つ一つに相槌を打ちながら、真剣になって俺の話を聞いていた。結婚はいつだと問われたのには参ったが、菜の花の川のことを訊ねると、
『覚えてるわよー。確かに、あんたのアパートの近くだったものね。あの時のお父さん、格好よかったわよねえ』
と、うっとりしたように言った。
─────
「須藤君、調子戻ってきたわね」
相変わらずパソコンを睨みつけていたら、上司に声を掛けられた。
「あ…、そうですか?ありがとうございます」
菜の花の川に行ってから一ヶ月後。俺の調子は嘘みたいに戻った。というか、具体的にどこが悪いというものではなかったので、精神的なものだったのかもしれない。実家には週に一度、連絡を入れるようにしている。神崎にそれを言ったら「マザコンかよ」とからかわれた。「ほっとけ」と返す。
菜の花の川には暇さえあれば行っている。すぐ近くに住んでいる老夫婦に顔を覚えられ、仲良くなってしまったほどだ。今度の休みに母親を連れてきて、みんなでピクニックをする計画を立てている。ピクニックが楽しみになってしまっている自分が少し恥ずかしい。俺は幼稚園児か。
噂で聞いたが、例の歩道橋は巫女の橋と呼ばれているらしい。
何でも、自分の忘れ物を巫女が拾ってきてくれるんだって。