第6話・意を決した聖女
城に帰り自室に入った直後、アレッシオがやって来た。彼が部屋の中まで入って来るのは結婚以来、初めてだ。そのせいなのか、いつも以上に不機嫌な顔をしている。
思い当たる節は、彼の屋敷に勝手に行ったことだけだ。囲われている女性はいなかったけど、マクシミリアン殿下たちを見つけてしまったから怒っているのだろうか。
彼は不安げな顔をした侍女たちを有無を言わさずに下がらせ、更にすべての扉もきっちり閉めた。ドカリと乱暴に長椅子に座り、立ったままの私をねめつける。
帰りの馬車の中で、ちゃんとアレッシオと向き合うと決めたばかりなのに、くじけてしまいそうだ。だけどこれが最後のチャンスになるかもしれない。
……でもなんて声をかける? 訪ねてきたのはアレッシオなのだから、私に何かしらの用があるのだ。まずは彼の話を聞くべきだろう。『何のご用?』と声をかける?
わざとらしい? さっさと謝罪をする?
切り出し方が分からなくて戸惑っていると、彼は目をそらし、
「聞いた」
と言った。
やはり勝手に屋敷に行ったことを……
「秘密の外出はオスヴァルトへの報告か」
続けられた言葉に、戸惑う。オスヴァルト? なぜ急にお兄様が出てくるのだろう。
「祝杯でも上げてきたか」
「アレッシオ。何のお話をしているの?」
アレッシオが私を見た。でもすぐに目をそらす。
「……どこに出掛けていた。誰も行き先が分からないと言っていたぞ」
「それは」ぐっとお腹に力を入れる。「あなたの所領の屋敷よ」
「え?」
どことなく間の抜けた声を出して彼は再び私を見た。
「どうしてだ? ──ああ、そうか。エルヴィラから連絡でもあったか。聖女同士だものな」
とアレッシオはひとりで納得している。
もしかしたらこのまま騙せるのではないだろうかという、悪い考えが思い浮かぶ。だけどいつまでも逃げるのはやめると決めたのだ。
「違うわ。あなたが愛人を囲っていると聞いて、見に行ったのよ」
アレッシオは目を見開いている。
さあ、彼は怒るのか呆れるのか。
「そんな噂がもう君の耳に届いたのか。あそこにいるのは隣国のマクシミリアンとその婚約者エルヴィラだ。お忍びバカンスでね」
そう言った声音は平坦だった。怒っても呆れてもいないように聞こえる。
「なるほど」合点がいったようなアレッシオ。「君にとっては愛人なら都合が良かったか。無駄足だったな」
『都合が良かった』?
『無駄足』?
どういうことだろう。
「アレッシオ。何を言っているの? 意味が分からないわ」
「今更とぼけなくていい。聞いたと言っているだろう」
「待って。本当に分からないの」
アレッシオがゆっくりと瞬きする。「父から、君に離婚の決定権を与えたと聞いた。バイルシュミット公爵に懇願されてついに折れた、と。公爵と君には全て伝え済みだとのことだが」
「ええ。それなら聞いているわ」
「だから君は離婚の正当性をより強固にするために、俺の愛人を確認しに行った」
今度は私が瞬きをする番だった。確かに、私が離婚を望んでいるという前提があれば、アレッシオの考えは尤もなものだ。そんな見方があるとは気がつかなかった。
そうか。お兄様との祝杯も、同じ前提によるものか。アレッシオは私が離婚を望み喜んでいると思っているのだ。
今まで一度だって、この結婚が嫌だなんて言ったことはないのだけど。
「そうじゃないわ」
「違うのか?」
彼と私の声が重なる。アレッシオは不思議そうな顔をしている。私が嫉妬で動いたとは考えていないみたいだ。
意を決して彼の対面に座る。
「忘れないうちにマクシミリアン殿下からの伝言を伝えるわね。『相も変わらず不器用なようだね。僕たちへのアシストは完璧なのに、不思議なことだ。そのあたりを今度詳しく聞かせてほしい』だそうよ」
アレッシオはわずかに眉を寄せた。
「他には?」
「それだけよ」
「そう」何故か彼はほっとしたように息をついた。「だがどうして君は」
「見たかったからよ。あなたの大切な女性がどんな方か」
「俺の大切な女性、ね」
彼はまた顔をそむけた。黙って窓のほうを向いている。何を考えているのか、ちっとも分からない。
怯むな、私。離婚をしたくない、アレッシオをずっと好きと伝えるのだ!
「ああ、もうっ!」
突如、アレッシオが叫び頭をガシガシとかく。
まだ私は肝心なことは何も言っていないのに、彼をイラつかせたのだろうか。
「……アレッシオ?」
「この日を待っていた!」彼はやはりあらぬところを見たまま大きな声を出した。「父が諦めて、離婚を認める日をな!」
きゅっと胸の奥が痛む。分かっていたことだけど本人に口にされると辛い。視界が滲む。
「なのに実際その時が来たら……。
俺の大切なひとは君だよ、ディートリンデ」
アレッシオは大きすぎるため息をつくとうなだれた。
いまいち理解できない。大切なひとは私と言われたような気がするけど、そんなはずばないだろう。何か大事なところを聞き逃したか、私の頭が悪いのか。
「……ちょっとよく分からないわ」
「……だろうな」
「アレッシオの大切なひとはカリーナ様よね?」
「カリーナ?」彼は顔を上げた。心底驚いた表情をしている。「隣国のカリーナか? 何でだ」
「だって。見ていれば分かるわ」
「何が?」
「大切なひとだって」
「いいや」
『いいや』?
アレッシオが嘘をついているようには見えない。とにかく不思議そうだ。
「だって彼女への態度だけ全然違ったわよね」
「それは叔父上に命じられていたからだ。あの方は重度の愛妻家だから義妹のカリーナも溺愛していて、紳士的に接しないと鉄拳が飛んできた」
「そうなの!?」
今度は私が驚く番だった。そんなことは初めて聞く。私の周りの令嬢たちも皆、アレッシオはカリーナ様を特別扱いしていると思っていた。
「カリーナ様がお好きだから私と結婚したくなかったのではないの?」
「俺は君との結婚を望まなかったことなどないぞ。嫌がったのは君のほうじゃないか」
「私は嫌だなんて思ったことはないわ!」
「どうして今さら嘘をつく。号泣していたじゃないか」
「ええ? 号泣した覚えなんてないわ」
私の当惑に気づいたのか、アレッシオも戸惑い顔になった。
「君はオスヴァルトが好きで俺と結婚したくなかった。違うか?」
「違うわ! お兄様は好きだけど、あくまで兄としてよ!」
「だが結婚する予定だったのだよな?」
「何故、それを知っているの? 外部にはまだ知らせていなかったはずなのに」
「ほら、やはり君はアイツが」
「違うってば!」思わず身を乗り出す。「結婚は父の提案よ。バイルシュミットの血を引いていないお兄様が当主になることに文句を言う、阿呆な親戚たちを黙らせるためだったの。お兄様自身も血縁がないことにかなりの引け目を感じていたから、私は了承したの。お兄様は私に申し訳ないって、なかなか承諾しなかったのよ。嘘だと思うならお兄様やお父様に確認してちょうだい!」
呆然としているアレッシオ。
「……それなら何故、君はあんなに嫌がったんだ?」
「だから私は嫌がってなんかいないわ。どうしてそんな風に思っているの?」