その手を
吉川景の出席番号はわたしのひとつ前だった。彼はいつもひどく猫背で、だからわたしは今も、まず彼の浮き出た肩甲骨を思い出す。
彼はどこのクラスにも一人はいる、ごくありふれたタイプの人間だった。いてもいなくても分からない、当たり前のように無視されて、たまに退屈している誰かに絡まれる人間。わたしはたまたま席が彼の後ろだったから、妙に視界が開けている朝は、ああ今日はあいつ休みなのかとぼんやり思ったりもしたが、やはりそれだけだった。
ある蒸し暑い朝。靴箱のところで、わたしは彼に挨拶した。確かぼうっとして他の男子と間違えたのだったと思う。彼はびくりと身を震わせ、手を止め――こちらに顔を向けた。わたしは初めて彼が顔を上げるのを見た。
胸が瞬時に冷たくなった。
彼のその目。
まだ小さかったころ、よくアスファルトの上でビー玉遊びをした。投げ上げたり、アスファルトに叩きつけたりして、やがて傷だらけになったあのガラス玉。
前髪の奥からわたしを見上げた目は、まさにそれだった。
見てはいけないものを見たように、とっさに視線を逸らす。
「おはよう」
相手が返したと思ったのは、無意識に繰り返した自分の小声だった。
それから、わたしは少し彼を気にするようになった。と言っても、安易に感情移入するほどわたしは子供ではなかったから、鈍感さに欠けたどこか一部分が気にしたのだと思う。そもそもわたしがこんな奴を気にするなど有り得ないのだ。
でも相変わらず奴の席は私の前。程無くわたしは彼の特技に気付く。
情報処理というパソコンの授業がある。ワードやエクセルを使ってあれやこれやする単元。夏は涼しく、冬は比較的温かい。珍しく嬉しい授業だ。
そう、彼の特技。
彼は誰よりもタイピングが早かった。わたしが三分の一も終えないうちに、彼はもうすべてを打ち終えている。手元なんか見やしない。ぞっとするほどの指の動き。そして彼は暇な時間をやはり猫背で、ぼんやりとスクリーンセーバを眺めながらやり過ごすのだ。
二、三時間意識して観察していると、暇になった彼がよく同じサイトへアクセスしていることに気が付いた。
薄い水色の背景の、掲示板のようなところだった。
彼は画面を狂人のような真剣さで凝視する。歪みを探す職人のように、まばたきすら少なくなる。そして次の瞬間には、まるで無関心かのように焦点の合わない瞳孔が、どこか向こうを見やる。
彼がどうしてそのページにこだわるのか、横目で窺い見る度に気になった。
彼はある休み時間、珍しく席を外した。わたしはそれをずっと待っていた。
大急ぎでモニタの電源を入れ、彼のパソコンのアクセス履歴を調べる。そして一つしかなかったそれを、プリントの裏に殴り書く。
その日は足早に帰った。自分の部屋に着くと、真っ先にパソコンを起動する。空っぽのカバンから折れ曲がったプリントだけ取り出し、皺を伸ばす。
パソコンの立ち上がる時間さえ、もどかしく感じた。
アドレスを一字ずつ打ち込み、エンター。
淡い水色が涼しげに映る。それはブログだった。画面左上にKei のページと表示されている。
ケイ?
日記はかなりまめに更新されていた。
6月16日(月)
今日も野球部の練習。夏の大会へ向けてかなりハードになってきました。夕方からバイト。暇つぶしにまた詩を書いたので、良かったら見てください。
野球部?
わたしは一日ずつ、日を遡って目を通す。
走ったけどぎりぎり遅刻した話。授業をサボって友達とサッカーをした話。女の子たちとつるんでゲーセンに行った話……。
そこには健康的な高校生の日常が描き出されていた。まるっきり出来た青春小説のような。
プロフィール。Y市Y校。2‐A。
Kei.
記事の内容からして、まさかとは思ったが、読めば読むほど吉川景自身によるものとしか思えなかった。
最後の更新はまさに最後の授業の時間だ。
日記の内容へのコメントもなかなかに多かった。よくこんな大嘘に気付かないものだ。よっぽど何か書き込みをしてやろうかとも思った。だが自分の名前まで書いて、やっぱり止めた。そんな筋合いは無い。
ふと彼の書いた詩というものが読みたくなった。タイトルは「理想」だった。
だれかのために聞きたい
だれかのために話したい
だれかのために笑いたい
だれかのために泣きたい
だれかのために眠りたい
だれかのために右手を
だれかのために左手を
空けておきたい
その
だれかを見つけたい
下手くそ。わたしは頭を強く振る。無愛想な奴の猫背を思い浮かべる。
根暗のくせに。どうせ一日じゅう誰とも話せないくせに。読むほうが恥ずかしい。
下手くそ、下手くそ……。わたしは二度三度と頭を振る。
あの目がわたしを覗き込んでくる。硬くて脆いあの目が、今はわたしを捉えて放さない。このブログを書いた奴が、確信犯的にわたしに呼びかける。
わたしの中で何かが忙しく働いていた。これが彼の本当なのだろうか。彼は或いは不器用で、どうしようもなく寂しいのだろうか。あの猫背は。
あれ。
左目が滲みだす。
学校の吉川景は、相変わらず猫背だった。特別何かを話すことも無かった。席も変わったし、わたしは無意味に笑うことで忙しかった。人の輪の端で。
そんな瞬間、ふと視界の隅に彼を捉えると、とても羨ましく感じたものだ。彼は孤独な代わりに、自由だった。
彼のブログを見ることはわたしの日課になった。時には何となしに一時間も眺めていることもあった。彼はその中で、ますます饒舌だった。
六月二十八日はわたしの学校の特別な休日だった。他の学校は通常の授業があるため、何だか得した気分になる。
その日、彼のブログは特に充実していた。本文ではない。寄せられたコメントがかつて無く多かったのだ。不思議な偶然。
わたしは胸騒ぎを覚えた。果たしてわたしの他にも同じ学校で彼を知る人がいるものだろうか。だが彼が誰か友人と共にいるところなど、わたしは見たことが無かったし、想像も出来なかった。
わたしは過去のコメントを調べた。ひたすら重なった行数を数えながら、テキストをスクロールしてゆく。学校学校学校休み、学校……。そしてコメントの数。文の量。
驚いたことに、学校の休みの時とコメントの書き込みは、はっきり比例関係にあった。中間テストの期間の午後は、やはりコメントが多かった。行事で長引いたときは全く入っていなかった。
コメントを書き込む名前をさらに順繰りに調べていく。
JIKIL、ようぞう、KYO……。
それぞれが淡々とコメントを入れている。実に整然と意見を交わしている。それぞれのコメントがそれぞれを補う。
テキストにはルールがあった。テキストはみなピリオドで終わる。
ありがとう.
JIKIL-15:53
誰だ。こいつらは―
ようぞう‐15:59
HARUK‐16:11
NIKA‐16:27
高みから落ちるように、血の気が引いていく。
何か、わたしは気付いている。
示し合わせたように、整然と。
まるで掲示板みたいに等しく時間をおいて。順番に。
しかし一人は一つのコメントに。
痛いくらいの冷たさが顔面を覆う。ゆっくりと喉を通り、突然、胸を押し潰す。
すべて、彼だ。
このブログを書いているのは、彼だ。
全て説明がつく。
すべては彼だけの、自己完結の世界なのだとすれば。コメントすら、彼の手によるものなのだとしたら。
彼の異常に速いタイプを思い出し、わたしは背筋を寒くする。
わたしの調べたことが正しければ、ここ三ヵ月の間、このブログに彼以外による入力は無かったのだ。
学校は夏休みに入った。彼の茶番は留まるところを知らなかった。彼はどうやら寝る間も惜しんで、彼自身と会話しているようだった。そして、そんな彼のブログをわたしは見続けていた。
新学期になっても、彼は学校へ来なかった。一週間、二週間。私は限りなく充実した、彼の偽の日常だけを知ることになった。
彼は今、毎日野球部の活動に精を出している。この間の試合は初めてスタメンに入った。尤もわたしの学校の野球部は実際には九人にすら足りていなかったのだけれど。
すごい数のコメント。コメント。
二週間目の半ばの朝。ホームルームで教師が、吉川は学校を辞める、と言った。明日、残ってる持ち物を取りに来るから話のある奴はそのつもりで。
暫くの白けた沈黙。思い出そうとするかの表情で見交わされる顔と顔。
そして、三秒ですべては忘れ去られる。
皆、冗談の種にもしなかった。全く関心がなかったのだ。
私も普通だったと思う。少なくとも表情は。でも内心かなり驚き、そして密かに肯いていた。予想しなかったわけでもない。
その日のブログはかつてなく賑やかだったのだから。
次の日、わたしは外ばかり見ていた。三時限目。窓の下、片手に荷物をまとめた彼の項を見た。
私は教室を走り出た。ざわめきと制止する声すら置き去りにして。
何も考えなかった。真っ白な衝動が私をひたすらに走らせる。
門で、わたしは彼に追いついた。
「吉川景」
喘ぐように名を呼ぶと、びくと背中が緊張する。
すっかり息を上げ膝に手を付くわたしを、意外そうに彼は振り返った。
猫背のまま、ちょうどわたしと視線がぶつかった。
どちらも、何も話さなかった。
わたしの徐々に落ち着く息が、微かに時を刻む。
わたしは何を言えばいいのか、何も考えていなかった。
知っているんだよ、全部。誰も見てないところで嘘ばっかり吐いて、何がしたいの?でもわたしは見ていたんだ。
でも言葉にはならなかった。
「手を」
ついにわたしは言った。彼はしばし躊躇したが、握手みたいにわたしの伸べた手にその指先を触れさせる。
「誰かのためにって」
彼の手が硬直した。髪の奥で彼の目が、剥き出しの驚きと不安を浮かべた。
「別に誰でもいいじゃない?まずは」
沈黙の中で、彼の目が私の目を覗く。光をかえす、もろくて、傷だらけのガラス玉。
不意に彼は駆け出した。呼び止める間も無く、わたしは茫然と見送った。彼の背中がブロック塀の灰色の向こうに消える。
そして、わたしは――
わたしは彼とは反対方向に駆け出した。
しなければいけないことがある。
休み時間になったパソコンルームに入り、既に電源の入っていたものからネットに繋ぐ。既に暗記していたアドレスを打ち込んだ。
見慣れた薄い水色。わたしは急いで日記の全文をコピーし、パソコンに保存した。ほっと一息を吐く。
きっと見納めになる。わたしはその一ページ一ページに目を通した。
さっきは何と言えばよかったのだろう?まずは、わたしのためでもよかったのになんて、今覚えばあまりに今さらで馬鹿らしく思える。
ブログの文章を何気なく目で追う中に、ふと自分の名前を見つけて驚いた。
6月12日(木)
今日の朝、クラスメートの吉沢さんが挨拶をしてくれた。何だか嬉しかった。吉沢さんは俺のいっこ後ろの出席番号なんだけど――
三分後、泣きそうなわたしの前で、KEIのブログは消えた。
カテゴリづけをとても難しく感じました。ちょっと変わったお話かもしれません。
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よろしくお願いします。