30.狛柴夫婦の大喧嘩
「ごめんね、急に来ちゃって。無我夢中になって走ってきたらこの家の近くまで来てて……。しかも財布も無くて。申し訳ないんだけど電車代だけ借りたくて……。」
「あのマンションから?! 脚力凄い!」
そんな脚力あるなら紅葉見に行くくらい余裕であろう。
「お茶飲んだら帰るね……。」
「美里ちゃんち泊まってけばいいじゃないですか。ねぇ?」
「そうだよ、夜遅いし。もう終電ギリギリだよ!」
「え、でも……2人の邪魔したよね?」
「い、いや……そんなこと、」
自分でも理解している。
吃ったことで余計怪しいし、たぶんその動揺のせいで顔も赤くなっているから、光莉さんには色々とバレている気がする。
ほら、目の前の光莉さんまで赤面している。
私たちの反応を見て呆れたような顔をしたけど、いつもの胡散臭い笑顔を貼り付けて言った。
「ま、オレ達の時間はいつでもとれますけど、狛柴さんの問題は今しか解決できませんし。返してもらえる借りはいくつ作っても損しませんよ。」
「性格悪。」
「美里ちゃ〜ん?」
つい余計なことを言ったら頬をつねられた。
結構怒ってる?!
「……ありがとう、美里ちゃん、八草くん。」
「じゃあお風呂使って! 服は……。」
じ、と光莉さんの胸を見てしまう。
だめだ、身長も違うけど胸囲的にもダメだ。
晴の服なら着られると思うけど、でも今着てる服を貸すのは嫌だなぁ。
「……こっちのおさがりのやつなら。」
「いいの?」
「さすがに晴が今着てるやつはやですけど、こっちなら。」
「かわいい……、八草くん、私いるけど抱き締めていいよ……。」
「無理です。」
光莉さんはなぜかはわわと震えており、晴は顔を覆って天を仰いでいる。
最近気づいたけどこういう動きをする時の晴は照れている。何で今照れてるんだろう。
光莉さんがお風呂を済ませている間に布団を準備した。それから晴は一度家に帰ることになった、といっても隣だけど。
「オレは狛柴さんに話聞いてくるよ。」
「うん、男の人同士の方がいいってこともあるだろうしね。終わったら戻ってくる?」
「うーん……一応戻ってくるよ。じゃあ、とりあえずまたね。」
晴は私のおでこにキスを落とすと、なぜかにんまりと笑ってから部屋に戻っていった。
何だろう今の意味深な笑み、と思って振り返るとにやけた光莉さんが背後にいた。何で同性に見せつけてるのさ。
「仲良しだね。」
「……見なかったことに。」
「……本当、気遣い屋さんだよね。」
ふと、呟くように聞こえた寂しそうな声に私は顔をあげる。
確かに晴は普段より敢えて接触を増やしているように感じた。それは光莉さんがなるべくいつものテンションで話せるよう、雰囲気を明るくできるようにしているんだろう。
「何があったか、聞いていいよね。」
「うん。」
喧嘩のきっかけは先日の紅葉の件。
狛さんも行きたがっていたが、ハイキングなどの運動が嫌いな光莉さんの猛反対に付き合う形で結局2人は行かないことになった。
だが、狛さんは元々文学作品などの聖地巡礼をすることがあったらしい。光莉さんと結婚してからは行ったことがないそうだが、大学時代は一人旅もしていたと聞く。
光莉さんも旅行は嫌いではない。
実際に小説のネタにも気分転換にもなる。
だが、ハイキングーいわゆる運動を楽しむことーなどは基本的に嫌いらしい。プールとかも流れるだけならいい、一切泳ぎたくない、など。イベントも中継で十分って感じ。
結婚してからも気が合えば一緒に行く、それ以外は狛さん1人で行く、そんな感じでうまく行っていたらしい。
だが、今回は狛さんは行きたかった。光莉さんは行きたくなかった。なら、狛さんだけ、というのが常だが今回ばかりは光莉さんが嫌がった。
いつものメンバーが行くのに自分だけが、という疎外感があったらしい。
その場では言わなかったが、今度行く場所が舞台となった小説を見てため息をついていたのを見て、光莉さんがつい指摘してしまったらしい。
『ねぇ、誠一くん。あんまりため息つかないでくれる?』
『……僕だって行きたかったんだよ。別に着いてきてって言ってるわけじゃないし、いいじゃないか。』
『それは、私が寂しいって言うか……。』
『それなら少しくらい付き合ってくれてもいいじゃないか!』
狛さんが光莉さんに向かって怒鳴ったのは初めてだったらしい。以前怒ったという小説オチ事件も暫く不貞腐れていただけで怒鳴るなんてことはしなかったそうだ。
『……これ以上、この話するのはやめよう。苛々する。』
明らかな狛さんの拒絶を初めて受けた光莉さんはショックのあまりそのまま飛び出してしまったらしい。
その時のことを思い出したのか光莉さんはぐずぐず泣き出してしまった。どうすればいいんだろ、私はその背中を摩るしかできない。
そこにチャイムが鳴り、晴が戻ってきた。大筋は狛さんから聞いたらしい。
「私が悪いのは分かってるんだよぅ……ぐす。」
「狛柴さんちからここまで来れるんだから1回行ってみればいいと思うんですけどねぇ。美里ちゃんでさえ行けるんだから。」
「ちょっと私に失礼だよ! でも、何でそこまで行きたくないの?」
私たちからすればそれも疑問なのだ。
「大学生の時は行ってたんだよ? でも、みんなが楽しんでる景色を楽しめなかったり、いつも小説の登場人物ならここで、って何もないところで止まっちゃったり。それに虫とか苦手だし、歩くのも遅いしで、みんなにつまんないって言われるの。
誠一くんには、もうつまんない女って思われてるかもしれないけどこれ以上失態を見せたくないの! ただでさえ努力しても家のことできてないし!」
晴が見兼ねてティッシュを渡すとお礼を言いながらちーん、と鼻をかんでいる。
「それに最近ダメなんだ……。ちょっとしたことで不安になっちゃったりとか体調悪くなっちゃったりとか。なんか凄く疲れるしで。」
何か違和感を覚えつつも私と晴が顔を見合わせていると、光莉さんがこちらを見上げてきた。
「ねぇ、2人は昔からの付き合いでしょ? そういう時はどうしてるの?」
「「完全個人行動。」」
私たちが間髪入れず答えたものだから、光莉さんの涙は引っ込んだらしい。
「私はPC作ったりとか好きだし関連部品見に行くのも好きだけど晴は興味ないから絶対来ないし。」
「オレはキャンプ好きだけど美里ちゃんは好きじゃないから連れてかない。」
趣味に関してはお互いに寂しいから、という感覚がないのだ。
行きたければ行く、それだけだ。
だけど、昔から1つだけ続いていることはある。
「でも、食わず嫌いにはならないよね。」
「食わず嫌い?」
光莉さんは首をかしげた。
「共有したいことはちゃんと話して、で、内容が分からないとか良さが分からないかもだから、ちゃんとチャレンジする、だよね。」
「極端な話、富士山登頂とかだったら明らかに美里ちゃんは無理だから断られるけど。でも、ゲームとかはチュートリアルやってみて、それで一緒にやるか決めるって感じです。それでお互いハマったこともあるし。」
「あと迷ってる時はお互いに押し通す技があるしね。」
先日のお願いはずるかった。
それを思い出し、私が悔しそうにすると晴はけたけた笑っていた。
「でも、2人は付き合い長いから分かり合える部分もきっと多いよね……。羨ましいな。」
「「いや、そんなことはない。」」
これだけは間違いない。
「分かり合えてたら、こんなアホみたいに長い片想いしてないですってー。」
「そう、それに私意外と知らないことがあったんだよ。子どもの時と同じで丸くなって寝る、とか寝癖がすごい、とか。」
「え、オレそんな風に寝てる?」
「うん。あと他にも甘えたい時は私を撫で「ストップ、やめよう。」
光莉さんの涙はどこへやら。
興味津々と言わんばかりに目を輝かせていたが、残念ながら晴ストップが入ったので終わりだ。
「近いからこそ、言葉に出さないと分からない。やってみないと分からない。そういうことってたくさんあると思う……、だから光莉さんもチャレンジ! だよ。」
「美里ちゃん……!」
「そーそー、それに誠一さんって光莉さん全肯定マンだから一緒に来てくれるだけで喜ぶと思うよ。あの人はもっともっとってなるタイプじゃないし。」
「八草くん……!」
光莉さんの大きい目から再び涙が決壊する。
「ありがとぉ〜、2人とも〜! 絶対に何かお礼するね〜!」
「期待してる。」
私がよしよしとしてあげると、私に抱きついて鼻を啜っている。
涙を拭うと光莉さんは不器用だけど笑顔で言った。
「なら、私もハイキング、行ってみようかな。」
「そ「いや、やめた方がいいんじゃないですか?」
え、
晴が間髪入れずストップをかけたものだから私と光莉さんは固まった。
だけど、その時の晴の顔つきは優しげなものだった。
「な……私、確かに体力ないけど。」
「そうじゃなくて。まず行く場所は山じゃないってこと。」
「どういうこと……?」
「さて、美里ちゃん。君に分かるかな?」
不安になっちゃったり、体調が悪かったり?
それに最近買ってきてたコンビニ弁当、いつもは比較的ヘルシーなものを好む光莉さんがお肉系を買っていた。
「あ、病院?!」
「病院?!」
「正解、明日誠一さんも来るから2人で行ってみてくださいよ。」
「光莉さん! 今日はベッド、使って!」
「えぇ、どういう……、」
そこまで言って光莉さんはやっと私たちが言っていた可能性に気づいたらしい。急に大人しくなった光莉さんは私たちの言うことを聞いて大人しくベッドに寝て、翌日を迎えることとなる。
「……。」
「そわそわしすぎだって。」
翌日私と晴も近くのカフェに来てしまった。
というか、2人に呼ばれた。
狛さんはぶるぶる震えてるし、光莉さんは呆然としているしで動きが異常に緩慢だった。ついてきて、と言われたけど私もパニック。結局1番落ち着いていたのは晴で、職場の先輩や百合さんに連絡をとってオススメの産婦人科を調べてくれた。
全体的にあらぬ疑いをかけられており、げっそりしていたけど。
さすがに院内までついて行くことは遠慮して外にいるわけ。
「何でそんなに落ち着いてるの……!」
「まぁ、自分のことではないしねぇ。美里ちゃんが同じことになったら多少落ち着かないけどね。」
「そーいうもん?」
ちなみにこの時当然のように私の名前が出てきたことには疑問を抱いていなかった。
そんな話をしていると私のスマホが鳴った。
「きた!」
「どうだった?」
2人で画面を覗いてみると、予想通り。
「妊娠……3ヶ月だって!」
「山行かなくてよかったね。」
「本当だよ! 晴、今回ばかりはいい仕事した!」
「いつもしてるっつの。」
軽口を叩きながらも、私たちはどちらかともなく大きく安堵の息を漏らすのであった。




