理子
よろしくお願いします。
真夜中の学校は不気味な静寂に包まれていた。いつもは騒がしく賑わう教室や廊下はしんと静まり、ピンと張り詰めた空気すら感じた。
暗闇から、廊下の陰から今すぐにでも得体の知れない何かが飛び出してきそうで気が気じゃない。
キョロキョロと辺りを見渡す目は、廊下の端にある仄かに光る非常灯の灯にすら怯えていた。
「ああ、不気味。夜の学校なんて来るもんじゃないわよね。大体、私はビビりなのよ。それを……ちょっと、聞いてるの?」
『んーー?聞いてる聞いてる』
耳にさしたイヤホンから聞こえるおざなりな返事に、相楽理子はムッと顔を顰めた。
応えを返したのは理子の双子の兄、相楽理一だ。
三つ年上の従兄弟、立花翔太と二人で宿直室に待機している。
何か異変が起こった際に、直ぐにでも駆け付けられるように……なのだが。
『ちょっ、ダメだって……あっ、理一待って……リコちゃんに聞かれちゃう』
『大丈夫だって。あいつ鈍いから』
甘えた声に、フンスカと鼻息荒く興奮した声。合間に混じるリップ音。
理子は先程まで感じていた恐怖も忘れ立ち止まった。
目はもちろん、じとりとした半目だ。
こいつら、か弱い女にこんなことを押し付けて何してるのかしらね?!
ふ ざ け ん な よ ?!
「ちょっと、何してんのよ」
『何も?』
『ん……あっ』
何もじゃないよね?明らかに何かしてるよね?
「……理一あんたね……仕事中に盛ってんじゃないわよ?こっちは怖い思いして頑張ってんのに、何やってんのよ。翔兄も拒みなさいよ。受け入れてんじゃないわよ!」
『愛し合う者が密室に二人きり。ヤル事なんて一つだろ』
「仕事しろって言ってんの!!」
『ご、ごめん…リコ。り、……ダメ、あ、ヤダ…理一!』
鼻に抜ける甘い声のあと、ペチンと叩く音と、いたっと、理一の呟く声が同時に聞こえた。
――虚しい。なんで身内のそんな声を聞かされなきゃいけないのよ。
年中盛っている理一の恋人が、翔太だ。紆余曲折あって、三ヶ月前に二人は付き合うことになった。
優し過ぎて流され易い翔太は、理一の手綱を握ることが出来ず、いつも振り回されている。
今回だって、理子が止めなければ最後まで致していたはずで……。
情けないやら悔しいやらで、理子は頭を抱え特大の溜め息を吐き出した。
『溜め息ばっか吐いてると、幸せが逃げるぞ?』
誰のせいだと。
出かかった文句を飲み込み、理子は気持ちを切り替えるように大きく深呼吸をした。
怒るだけ無駄なのだと、何度も思い知らされている。
自分の欲望に忠実で、やりたい事しかしない。煩わしいことは他人にぶん投げて、迷惑を掛けても知らんぷり。
一番の被害者でもある理子は、もう既に諦めていた。
人を小馬鹿にして、正論でもって相手を傷付け抑え込む兄。
でも、そんな兄を結局嫌いになれない自分も大概なのだからと、理子は自嘲した。
***
理子の家は古くから『拝み屋』を生業とし、傍らで商売を営んでいた。
だが、今や拝み屋としての仕事は細々と。傍らで営んでいたはずの商売が主流だったりするが。
本家を遡れば平安時代には陰陽師として宮廷に仕えていたとか、江戸時代には何とかって将軍のお抱え術師だったとか、かなり由緒正しい謂れがあったりする。
今でも本家筋にあたる者は、力の強い者が多いと聞くし、拝み屋としてもこの世界では知らぬ者はいないほど名を馳せている。
現当主の北条清仁に至っては、理子より五つ上の25歳だと聞くのに、先祖返りだと噂される程にその力は強いと言われていた。
その傍流でもある相楽家は、数ある分家筋の一つだ。遠い昔の血はとっくに薄れ、力も僅かに残るのみ。
商売に重きを置くのは当然と言えた。
薄らと残る力も、見えざる者が視えたり、聞こえないはずの声が聞こえたり……そんな程度でしかなく、自衛すら出来ない。幼い頃より怖い目にばかり遭わされて鬱陶しくさえ思っていた。
祓いの力を持つ祖父の太一で、この拝み屋の仕事も終わりかと思われていたが(二人の父親には力の片鱗すらない)双子の片割れである理一に、祖父よりも強い力が宿った。
翔太は本家に近い血筋で、もちろん祓いの力を持つ。還暦を迎えた祖父に代わり、理一に修行を施すために相楽家に来たのが今から2年前のことだった。
ありがとうございました。