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桜成る姫

 目前は、ただ桜の園であった。

 

「このように桜の狂い咲く年には鬼が生まれるというわな」

 吹雪く桜の花弁を不気味そうに見上げ、一人の女が言った。

「俺も爺様から聞いたことがある。桜が鬼を生むと言うな」

 夫と思われる隣の男も、そうつぶやいた。

 若い夫婦の目前は、ただただ、桜である。

 隣村に抜けるための山道は、淡桃の霧がかかっているようだった。

「この山の上に、桜守さまのお屋敷があるらしい」

「数百もの桜が植わっていると言う」

「その桜が山道にまで降りてくるのだそうだ」

 折れそうに細い若桜から巨木の姥桜まで、今が盛りとばかりに狂い咲いている。

 花の形は様々である。

 花の色も様々である。

 しかし花弁は皆一様に、こちらを見ている。

「なんと不気味なこと」

 女がつぶやくと同時に、花の一角が激しく揺れた。花を踏み荒らすように、影が揺れる。

 ひいと妻の喉が鳴り、転がる。助けようと腕を伸ばした夫も、その場に座り込む。

 二人の目の前に現れたのは、一人の男であった。

 闇色の着物を纏った巨躯であり、頭巾に隠れた顔は薄暗い。そして腕には一人の童女を抱いている。

「人浚い」

 妻が口を漏らす。

「いや、鬼か」

 夫かが呻く。

「娘を喰うのか」

 しかし男は答えない。腕に抱かれた真白な娘は死んでいるのか、生きているのか、桜の花弁に似た瞼はぴくりとも動かない。

 男は娘を抱きかかえたまま、ふらりと前に進む。大きな足だ、大きな腕だ。彼は怯える夫婦など見えてもいないように、ただ桜をかき分け前へ行く。

 娘の生白い足だけが桜吹雪の中、ゆらりゆらりと揺れている。

 夫婦は怯え、震え、互いの腕をしっかとつかみ合う。

 二人の目前に残ったものも、ただ桜であった



 目前は、ただ枯野であった。


「太吉」


 あどけない娘の声が、太吉を呼んだ。

 それは鈴が転がるような愛らしい声である。その声で呼ばれると太吉は胸が震え、堪らなくなってしまうのだ。

「まだお休みになっていないのですか、桜姫」

 できるだけ優しい声音で、太吉は腕の中の少女を覗き込む。

「夜も更けております。早うお休みなさいませ、眠らねば我儘姫とお呼びしますぞ」

「好きに呼べば良い。どうせ妾を姫なぞと呼ぶのは太吉だけじゃ」

 10の歳を迎えたばかりの娘だが物言いは鋭い。

 淡い桃色の着物に包まれた彼女は、細い顎を上げて太吉をじっと見つめた。

 彼女の長い髪は黒い絹のようである。生き物のように、さらさらと太吉の腕に絡みつく。

 彼女の瞳は桜の花弁に似ている。魅入られたように、太吉はその瞳を見つめる。

 小さな姫は、太吉に抱きしめられたまま白い頬を膨らませている。

「太吉のせいじゃ。太吉は一緒に飯を食わぬ。面白うない。太吉は一緒に眠ってくれない。妾ばかりが飯を食い、眠る。嫌じゃ嫌じゃ」

「安心して眠りなされ。太吉も一緒に眠りますゆえ」

「嫌じゃ」

 姫はすぐに太吉の腕から飛び出そうとするので、そのつど太吉は彼女を優しく束縛する羽目になる。

 娘の足が岩場に触れそうになり、急いでその小さな足を手で覆った。

 彼女の足の先は白い絹で覆われている。

 帝の宝物もかくやとばかりに守られた、その小さな足を太吉は愛おしく撫でる。

「足覆いも嫌じゃ。太吉の腕も嫌じゃ。妾は7つになろうのに、いつまでも子供扱いする太吉も嫌じゃ」

「嫌じゃ嫌じゃと言いますが、何が一番嫌でございますか。ほんに嫌な事があるのでしょう」

 太吉は笑みを押し隠し、幼い姫の手のひらをそっと包み込む。

 姫は恥ずかしがるように唇を尖らせ、やがて太吉の胸に顔を押し付けてつぶやいた。

「……嫌な夢を見る。とと様が鬼となる夢……だから眠るのは嫌じゃ」

「では姫様の夢の中まで、太吉が助けに参りましょう」

「本当に?」

「太吉が嘘を申したことがありますか」

 太吉は微笑み、彼女の目を手で覆った。

 指先を通じて、彼女の温度と心音が聞こえるようだ。

「ならば、必ず会いに来い太吉……」

 ……彼女は生きている。

 すう、と響く彼女の寝息にため息を押し殺し、太吉は姫をきつく抱きしめた。

 目の前に広がるのは、ただ、枯野だ。

 今年の夏は日照りであった。日差しがすべてを焼き尽くしたのか、木々も大地も茶色く枯れ果てた。

 水も干上がり、百姓が田畑を捨てたとそう聞いた。

 人里離れた旧街道には獣すら姿を見せぬ。乾いた土と死んだ木々が広がるばかり。

 合間合間に赤く色づく紅葉が、まるで血でも浴びたように異様に赤い。

 そんな旧街道の隅に転がる大岩、その薄く割れた隙間に太吉達は居た。

(……胎内のようだ)

 太吉は温かい姫を抱きしめたまま、黒い空を見上げる。

 母の胎内のことなど、とうに忘れた。母の顔も名前も太吉は知らぬ。

 ましてや父のことなど、余計に知らぬ。気がつけば野に捨てられ、館の主に拾われて雑人として働いていた。

 母の胎内にいた頃はよく眠れていたのかもしれない。

 しかし最近は眠り方を忘れた。

 眠れば、悪夢を見るからである。

 


 百年に一度くらい、このような『もの』が生まれるのだ。

 ……と、太吉が聞いたのは20の歳を迎えた朝のことである。

「先代から聞いてはいたが、まさか我が末娘に降りかかるとは……呪いか定めか、考えても栓の無きこと」

 館の主は扇に溜息を隠してそう言った。

 庭に植えられた桜がざわざわと喚く。

「可哀想なことよな」

 白い髭を蓄えた主が見つめていたのは、薄暗い奥の間である。

 そこに、小さな少女が乳母と遊んでいた。

 桃色の着物を纏った美しい娘である。

 10人もの子をもうけた当主が、中でも目に入れても痛くないほどに可愛がる掌中の珠。

 春に生まれ、桜と名付けられたその娘は、その名の通り美しく育った。

 まだ7つを迎えたばかりだというのに妖しいほど美しい。

 その娘を見て、父たる当主は言うのだ。

 ……この子は長く生きられない。

「稀に生まれるのだ。このような生き物が……家系ゆえの呪いかの、太吉」

 ほとほと困り果てたように、当主はつぶやいた。

「全身が桜になる奇病などな……」

 ざわりと、桜が揺れた。

 桜守を司るこの家には、数百もの桜が育つ。春になればまさに百花繚乱。ちょうど盛りの今は、桜の花弁が舞い散る音さえ喧しい。

 ……庭に咲く桜の中には、人間から桜に変化したものもある。と、いつか下男仲間から聞いたことがあった。

 この屋敷にはそんな奇病持ちが時に生まれるのだ……体が桜に成り代わる奇病である。

「……何をしても、お救いできませぬか」

 額を地面に擦り付けたまま、太吉は震える声で尋ねた。

 昨日まで、当主は姫を宝のように扱っていたはずだ。それが今は、化け物を見るような瞳で見つめている。

 姫はそれに気づいているのか、奥の間で寂しそうな目をしている。

 太吉はそれが哀れで堪らない。

「何をしても……」

「あと10年もすれば、どう守ろうが桜となる。7年前、生まれ落ちた時にそれに気づいておればのう……」

 太吉はこの娘が生まれた日のことを覚えている。寒気が去り、桜が一斉に開花したのだ。それは祝福のようであり、まさに春の寿ぎであった。

 下人である太吉が娘の顔を見るなど、夢のまた夢。

 しかし、偶然にも風が吹いた。簾が揺れ、侍女たちが騒ぎ出す。舞い上がる桜の花弁の向こう、太吉は見たのだ。

 女に抱かれた、小さな姫。

 それは自分とはまるで違う、愛されて生まれた子だ。祝福されて生まれた子だ。

 彼女は見えないはずの瞳を、太吉に向けた。

 そして薄く、微笑んだ。

 生きる意味などとうに無い太吉が、人生で初めて思ったのだ。

 ……自分はこの娘を守るために生まれてきたと。

「どうすれば助かりましょうか。お……俺の命を差し出して」

「太吉よ。お前の命一つでどうにかなるような奇病ではない」

 この夕暮れ、太吉は密かに当主に呼ばれた。

 彼が一人で呼ばれるには、理由がある。理由が分かるからこそ太吉は震え、初めて当主に物を申した。

「しかし、しかし、なにか方法が」

「土に、大地に、山に、木々に、けして足の先を触れさせてはならぬ。触れればそこから根が生え、桜に成る。体が根をはろうとするのじゃ。姫が寿命で尽きるまで、一生をかけて、これを守らねばならぬ。床であっても根を生やしたという。けして地面に下ろせぬ。それゆえ、目も離せぬ。それができようか。それに噂が帝に届けば、当家は取り潰される」

 当主は醒めた目で娘を見つめていた。床を踏みしめるあの白い足が茶色の根になるなど太吉には想像もできなかった。

「さっさと桜に成ったとて、この屋敷に植えるのは外聞が悪い。あれの母もうるさく泣くだろう。かといって、どこぞで桜に成られても家の名折れじゃの、太吉」

 ぱん、と音を立てて当主は扇子を閉じた。

 そして懐からひとつかみ、何かを掴んで太吉の前に投げ捨てる。

 ころころと、転がる銭の音は人の命の音である。

「慣れておろう」

 太吉は震える手で、銭を掴んだ。

 ……太吉はこうして生きてきた。他の下男ではこなせない、人を殺すという生業だ。

 母を知らず生まれた子は人殺しにちょうど良いのだと、そう教えられて育った。箸を握るより先に、刃物を握った。

「屋敷から遠い場所にしろ。首は持ち帰らぬでよい。せめてもの情けだ、顔は傷つけてやるな」

 目を赤く腫らした乳母が、桜姫を抱いて太吉の前に立つ。そして彼女は抵抗するように姫をきつく抱きしめたが、やがて当主に睨まれ肩を落とす。

「助けようなどと夢にも思うな、太吉。この病に関わると、鬼となるぞ」

 受け取った姫の体は、ただただ熱い。

 娘は生きている。鼓動があり、息がある。

 そして太吉はその夜、娘を抱いたまま山を下り、出奔した。



「……太吉……」

「姫っ」

 むずがる声に目を覚まし、太吉は腕に力を込める。

 熱い塊はまだ、その腕の中にあった。

「姫、姫……太吉はここに」

 抱きしめて、息を止める。そうすると彼女の鼓動がよく聞こえる。

 小さく呻いていた姫はやがて、その薄い瞼を開いた。

「太吉……」

 太吉が館を出奔して2年。毎夜、このような繰り返しだ。

 彼は彼女を抱き、ときに背に負い、駕籠で運び、馬に乗せる。このように、けして足を大地に触れさせないように生きてきた。

「夢に……太吉がきた」

 姫は瞳を開けると、少し嬉しそうに微笑む。

「恐ろしいものに追われていた妾を助けてくれた」

「よう、ございました……」

 太吉は彼女を白い駕籠にそっと乗せる。足は台にかけ、爪先は中に浮かす。まだ人の足だ。これがやがて根となり地面に張るなど、想像もできぬ。

「なあ太吉。今日は、遊びたい」

「何をして遊びましょうか」

「目隠し遊びじゃ……お前が妾を背に負う……お前の目を妾が隠して……妾が行き先を決めて」

 まだ眠いのか、彼女は目をこすりこすり、太吉の胸に腕を回す。

「それで、どこにたどり付いたかを、太吉が当てるのじゃ。なあ、遊ぼう、遊ぼう、太吉……」

「ではその前に、食事を作ってまいりますので、そのままお待ちください。けして外に出ないように」

 懐にあるのは、布袋に包まれた少しの雑穀である。それに鶏卵もいくつか。

 血糊がべたりと張り付いた布袋を掌で隠して、太吉は笑顔を浮かべる。

「温かい粥を作ります。柔らかく煮込みましょう。卵も入れて……」

「お前も食べるのだぞ」

 姫はまなじりを上げて太吉を睨む。

「最近とんと飯を食わぬでないか」

「……太吉は密かに飯を食っておりますので」

 口の中に生ぬるい味が蘇り、太吉は喉を鳴らす。

 この味は、どの食物だっただろうか。

 目玉だったか、

 腕だったか、

 足だったか、

 女だったか、

 男だったか。

 ……最初は感じていた罪の意識も、最近ではとんと薄れた。

「嘘じゃ。一緒に食べねば……妾も飯を食わぬぞ」

「……は。では、ともに……」

 姫の我儘を適当にごまかして、太吉は立ち上がる。顔を上げれば、緩やかに夜が明けようとしている。

 この旧街道は人通りが少ない。時折、商人が近道を狙って通りかかるくらいである。しかし、長居は危険だ。

 太吉は枯野を見つめ、目を細める。

 ……そろそろ町では噂になっているはずだ。

 旧街道に、人を喰う鬼が出ると。

「お前。その、姿はどうした」

 火をおこしなおそうと腰をかがめた太吉を見て、姫が目をこすった。

「なにか?」

 姫の美しい目が、太吉を見つめている。太吉はその目線から顔をそらし、頭巾を深く被りなおす。

 額から生えた生々しい一本の角が、頭巾に引っかかりちくりと痛む。

「額に、怪我でもしたのか」

「見間違えでございましょう」

 眉を寄せる姫から目をそらし、太吉は使い古した鍋で雑穀を煮る。

 季節は、冬へと向かおうとしている。



 眼の前はただ水の色であった。

「太吉。年頃の娘になれば皆、恋に焦がれるらしい」

 半分凍った川の流れを見つめ、姫がつぶやく。

 今年15となった彼女は、言葉も整ってきた。昔のように我儘に言わなくなった。

 それを切なく見つめ、太吉は微笑む。

「どこで学んでこられるのです」

「本をな」

 姫は着物の袖から古びた紙の束をそっと取り出す。ぼろぼろに薄汚れたそれを本というのだ。

 文字を知らぬ太吉にすればただ墨の汚れにしか見えないが、この姫は文字を知るのである。

「館を出る時、ばあやが妾の袖にいくつか忍ばしてあった。文字だけはばあやに仕込まれたおかげで、今でもよく読める」

 本には美しい絵が添えられていて、文字に疎い太吉でも、それがどんな場面であるのかはよく分かる。

 美しい姫君と、美しい若者の恋物語。

「妾も一度そのような味を試してみたいものだが」

「悪いおひいさまでいらっしゃる」

 白魚のように美しい姫の足先を、太吉はそっと掌の上に乗せる。

「その味は、焦げ臭くて姫のお口には合いませぬぞ」

 彼女の足には白い絹の足覆いが施してあった。

 この旅の間、太吉とてただ無闇に野を駆けて居たわけではない。医者を尋ね、呪いに詳しいという人物にもあたった。

 わかったことといえば、西方に奇病に詳しい医者がいるということだけである。

 絹糸より細い情報を頼りに、太吉は西へ西へと進んでいる。

「冷えますよ。さあ、太吉の背に足をお乗せなさい。今日の旅路はおぶって参りましょう」

「太吉」

 美しく育った姫は、とんと我儘を口にしなくなった。

 代わりに、言葉を飲み込み目を伏せることが増えてきた。

「……水が綺麗じゃな。お前も覗いてみよ」

 言葉を濁し、彼女は凍った水に手を置く。

 季節は冬だ。冬は雪となり、吹雪くこともある。

 それでも人に見咎められることがないのは助かった。人の少ない街道でも、季節が良いと旅人が増える。

 頭巾を被る巨躯の男に、輝くばかりに美しい娘。どうしても二人の旅路は目立つ。だから春から秋は、できるだけ人の目を避けて旅をしてきた。

 冬は寒くとも昼に移動できることが助かった。

「手が凍ってしまいます」

 水に触れる彼女の手を握りしめ、その冷えた手を温める。

「……出立しましょう」

「館には戻らぬか」

「……ええ。姫を攫って参りましたから。戻れば太吉が叱られます」

 姫の生家を思い、太吉は口元を引き締めた。

 桜守として古くは帝より位を授かった名家である。

 数百本もの桜を育てあげた当主は今頃、美しい桜の下でただの髑髏に成り果てているはずだ。

 当主だけではない。男も、女も、皆。

 ある春、姫を深く眠らせた夜、太吉は一度だけ屋敷に戻った。

 舞い戻った太吉をみて、年老いた当主はすべてを悟ったのだろう。彼は扇子で口元を隠し、寂しそうに言ったのだ。

『鬼になると、言っただろう』

 呪われた姫を救おうとする男は、皆、鬼となるのである。

 角が額を突き破り、痛みに何日苦しんだか。

 体が人の血を、肉を求めて幾日飢えに苦しんだか。

 最初はただ街道を行く商人を襲い荷を奪うだけだった。やがて、飢えに狂ってその肉を喰った。最初こそ怯え震えたものだが、やがて人を喰うことの抵抗も消えた。

 身は鬼となれど、心まで鬼と成り果てなかったのは、姫がためである。

『化け物を慕えば化け物になる。小銭で満足しておればいいものを、化け物を選ぶとは……』

 姫を救う方法を尋ねるべく屋敷に戻ったというのに、当主は太吉のみならず姫のことも化け物と呼んだ。

 この夜、太吉は人間の心をかなぐり捨てた……あとは、惨劇の記憶しかない。

 唯一、食いちぎらなかったのは、姫を育てた乳母だけだ。

 彼女は太吉が去った夜、姫の鞠を抱いて山より身を投げたという。

 食いちぎった老人の味を思い出し、太吉は口を拭う。

「……太吉、本当はあの屋敷に、想う娘があったのではないか」

 少しばかりふてくされたように姫がつぶやく。

「だから戻りとうないのだろう。お前は恋の味を知っているとみえるな?」

「さて」

 微笑み、太吉は彼女を背におぶった。

「恋の味など焦げ臭くて叶いませぬ。ゆめゆめ姫は、そのようなものをお求めにならぬよう」

 二人の目の前には、凍った水と雪がある。

 冬は良い。しかし、この季節が終われば春が来る。

 太吉は桜の季節が一番嫌いである。

「次はどこへ参るのだ」

「西です」

 つぶやき、太吉は雪を蹴り上げる。

 ……二人の生活はこのようなものであった。


 

 ただ、目前は雪野であった。

「太吉。今年もまもなく春が来るようじゃ」

 馬にまたがる姫が、舞い散る雪を見上げて、そういった。

 姫は17を迎えた。

 その目は桜の花弁のよう。絹糸のような黒い髪、白い肌に浮かぶ血色は桜の色だ。

 姫の容貌は年々、桜に似通ってくる。

「……昨夜、旅人が逃げ惑うのを聞いた。鬼が出ると、悲鳴を聞いたが、太吉は無事か」

「太吉は丈夫でありますれば」

 今、二人は街道外れの廃屋にいる。

 雪に覆われた街道だ。ここ数ヶ月はただ真っ白であったが、白の中に赤いものが見え始めている。梅の季節だ。雪を弾いて、赤や桃色が輝いている。

 たしかに、春の足音が聞こえ始めていた。

 西への旅路を続けて数年。たどり着いた西方の地で聞かされたのは、目当ての医者の死であった。

 絶望にめまいさえ覚えた太吉だが、かの医者の一番弟子が遠い蝦夷の地に流されたと聞いた。

 一度西にとった進路を、北へと向けたのは昨年のこと。

 姫はどこに行くのかと、もう尋ねることはしない。ただ、太吉に素直に付き従う。

 その小さな手や白い肌を見ると太吉はたまらなくなるのだ……欲望ではない。それは愛だ。純粋な愛だ。

「館から逃げて幾とせ、世界は変わるが、我らは変わらんな」

 姫は細い顎に指を這わせ、やがて良いことを思いついたように微笑んだ。

「太吉、今宵は妾の進みたい場所へ行こう。目隠し遊びをしような。久々に負うてくれんか」

 そして彼女は、慣れたように馬から太吉の背によじ登った。

 

 

「姫、前が見えませぬ」

「いい。いい。案ずるな。妾の言う道へすすめ」

 最近では、旅路には馬を使う。大きくなった姫を負うて走るのは目立ちすぎるからである。

 久々に背負うた姫は、その手で太吉の目に蓋をする。

 そして太吉に前に行け、右にいけ、上に登れなど、楽しそうに命ずるのだ。

 それはまだ彼女が7つの頃に、ともに遊んだ目隠し遊びである。姫の主導で道をゆき、どこにたどり着くのか太吉が当てる……まだ幼い頃の遊びだ。

「どこへ向かわれています、姫」

「言うては遊びにならぬ」

 背の姫は、くすくすと笑う。小さな手だが、目を覆われると何も見えない。

 姫を落とさないか案じながら進むのは、骨が折れる。しかし姫の誘導はうまいとみえ、躓くこともなく太吉は操られるように進んだ。

 雪を踏み、土を踏む。岩場を越え、道を進む。

 香るのは土と、雪、そして梅の香り。

 聞こえるのは、雪の散る音、鳥の声。

「……なあ太吉。妾の足を頑なに地面につけないのは、何故じゃ」

 姫がふと、つぶやいた。

「お前が飯を食わぬのは、何故じゃ」

「……姫?」

「お前の額にある、これは何じゃ」

 彼女の指が、太吉の額を撫でる……そこに生えた、鬼の角を。

「妾の食べる飯を、お前はどこで調達しておる……これ、足を止めるでない」

 止まりかけた太吉を、姫が一喝する。

「……数年前の春の夜、お前が消えた夜、どこへ行っていた」

 太吉の足が震え始めた。寒さではない。恐怖だ。

「姫……姫……」

 姫は、太吉の額を撫でる。髪に口づけし、柔らかな袖で太吉の首元を優しく覆う。

 甘い香りがした。それは春の香りだ。生まれた彼女を初めて目にした時、太吉を包み込んだ風の香りだ。

「なぜ」

 姫の唇が、太吉の耳に触れる。

「……なぜ、妾を救った、太吉」

 いつか、こんな日が来ると、そう思っていた。

「姫!」

 姫の手を目元から外し、太吉は叫ぶ。

「いつから……いつから!」

「ある夏、水に太吉の顔が映っていた。鬼の、角が」

 ……気がつけば、太吉は山の中にいた。

 目の前はただ、桜である。

 山桜の群生する山奥に、太吉は足を踏み入れていたのだ。

(桜の園……)

 ぞくりと、太吉の背が震える。10年、けして近づかなかった桜木が、目の前にあった。

 いまだ開かぬ桜のつぼみは硬い。しかし、芯に赤いものが見える。春の香りがする。桜の香りがする。ここには、春がある。

「戻りましょう姫。ここはなりませぬ。話は、のちほど」

 ぞっと震えた太吉が身を翻そうとする。しかしそれより早く、姫のぬくもりが背から去る。

「太吉」

 はっと振り返れば、太吉の背後に、姫が立っている。

 ……およそ数年ぶりにみた、姫の立ち姿。彼女はよろめき、桜の木に腕をかけ、足を覆う絹を取り外す。汚れのない彼女の足が、大地を踏みしめた。雪を蹴り、土を踏み、貝のような爪が赤く染まる。

 恐れていたことが、目の前で起ころうとしている。

「これ以上、お前に迷惑はかけられぬ」

 駆け寄ろうとする太吉を姫がとどめた。震えながらも、彼女はしっかと二本の足で大地を踏みしめている。

 やがてその足が、まるで色づくように茶色に染まっていく。着物の裾がら見える爪先が、木の色に染まる。足首がねじれる。しなやかな、木の根となる。

「姫、医者が」

 その足元にすがりつき、太吉は叫んだ。恐怖が背を凍らせる。慈しんだこの生命が、桜に奪われようとしている。

「医者がいるのです。医者がいれば、姫」

「妾のせいで、お前を鬼とした。お前の人生を食いつぶした」

 体が徐々に変化する。痛みはないのか、苦しくはないのか。しかし彼女は気品のある微笑みを崩さない。

「定めじゃ」

 彼女はそっと腕を差し伸ばし、太吉の頭を撫でる。やがてその手の形のまま、それは枝となる。

 小さな蕾が、太吉の涙を拭う。

「ここから先、お前の人生を行け」

 首も、髪も、瞳も、太吉の愛した姫の痕跡がすべて、桜になっていく。

「せめて、太吉も姫と同じものに……」

 太吉は叫び、手をのばす。

 しかし、掴んだものは春の風。

 そして、目の前には太吉を抱きしめるがごとく身を曲げた、一本の桜木が立っていた。

 

 

「ねえねえ、それでその後は、どうなったんだよぅ」

「さあて……」

 村外れの小さな小屋。そこに暮らす男の周囲には、いつも小さな童子が大勢集まる。

 いつの間にかこの村に住み着いていたという男だ。

 長く猟師をしていたそうで、額には熊につけられたという深い傷が生々しく残っている。

 人相の悪さから最初は遠巻きに見ていた村人たちも、彼が良き働き手であることを知ってからは何かと用事を頼むようになった。彼は畑の手伝いから獣狩りまで文句も言わずよく働く。

 そして雨の日などには、童子を集めてほら話などで楽しませてくれる。

「なんだい。うそつき」

「ああ、これはお話だ」

 男が語っていたのは、桜に化ける姫君の話である。雨の日のたび、少しずつ語られていたその話は、悲しい最後で終わった。それに不服な子どもたちは一斉に非難の声をあげる。

「また別の話をしてやりたいが、夕刻が来る。鬼が出るぞ。早く帰れ」

「しかたねえな。帰ってやるよ」

 男の言うとおり、村には夕暮れが訪れようとしていた。

 ガキ大将が胸を張り宣言すると、他の子供達も唯々諾々とそれに従った。

 ……しかし、五郎だけ拳を握りしめたまま丸木の上から動けない。

「ねえ、ねえ。お前のこの頭。熊と戦ったのでしょう。熊のお話をききたいなあ」

「さわっちゃいけねえ。今度話してやろう」

 一人の娘が男の額に手を伸ばし、彼はそれを厭うように身をよじる。

 大きな体を持つこの男は、優しげな目をしている。声もよく、笑うと可愛らしくもある。

 額の傷だけが、恐ろしいだけだ。

「ん? お前……五郎だったか。なぜ残る」

 子どもたちが喧しく去ったあと、男はふと目を細めた。

 まだ、そこに五郎が一人、残っていたからである。

 五郎は頭巾を深くかぶったまま、息を飲み込む。

 言葉を探すようにうめき、拳を握りしめ、そして立ち上がった。

「……太吉」

 名を呼ぶと、夕日に染まった男の背がびくりと震える。

「お前、太吉っていうんだろう」

 男は自分の名を、名乗らなかった。名乗らないので、皆が好きに呼んでいた。外れの廃屋に住むものだから、ハズレハズレと呼ぶものもあった。

 五郎は物語に出てきた男の名を、もう一度呼んだ。男の……太吉の顔が震える。目をそらす。五郎は確信を得て、太吉の腕を掴んだ。

「この家の裏にある桜の木は、その姫様なのかい」

 この家の裏には、大切に柵に覆われた桜の木があった。

 その桜はどの桜より美しく咲き誇る。

 小さな木だが、細い枝はまるで誰かを抱きしめるように伸ばされている。

 昨夜、五郎は見たのだ。太吉がその枝の下、一人で泣いているのを。

 季節はちょうど春。桜は数日前より咲き始めた。

 村のあちこちでも桜が咲き誇っている。山道も、街道もどこもかしこも桜であろう。

 しかし、その中でも一番美しく、一番気高い。

「その額は角なのかい。角を切ったのかい」

「とっとと帰りな。親御さんを呼ぶぜ」

「俺の知ってる娘が……っ」

 付きまとう五郎を、太吉が突き放す。五郎はそれでも、彼の前に立ちふさがった。

「今宵、山に棄てられる!」

 頭巾を投げ捨てれば、五郎の額には、一本の鬼の角。

 額を突き破らんと、膨らんだそれが現れたのは、数ヶ月前のことだ。

 隣の家に住む娘が病に臥せってからのこと。

 最初、娘は発熱した。続いて、震え、やせ衰え、動けなくなった。

 その病が何であるのか、どの医者もわからなかった。しかし数日前、遠方より医者が呼ばれて判明したのだ。

 それは桜に成る奇病。百年に一度生まれる、幻の病。

 足を地面につければ、桜と成る。

 それを知った両親は嘆いたが、村からそのような不祥事を出すことは許されないと長老がとくとくと説いた。

 そうして娘は今宵、遠い山で殺される……そう、噂に聞いた。

 その話を聞いてから、五郎の角は痛み続けている。

 五郎は太吉の腕に必死にすがった。

「医者がいるのだろう? 連れて行ってくれ。それにお前の、お前の姫も、もしかすると治せるかもしれないじゃないか。一緒に、一緒に行きたい」

「お前……」

 太吉は目を見開いて、五郎の角に触れた。

「娘に……恋をしたか」

 今にも皮膚を突き破りそうなそれは、鈍い痛みに包まれている。しかしそれよりも、娘を失うほうがずっと恐ろしい。

 小さく頷くと太吉の目の色が変わった。

「分かった」

 太吉は素早く立ち上がると、廃屋からいくつかの道具を引っ張り出した。絹の足覆い、刀、古びた旅道具。

「娘を密かに連れて来い。今夜、発つ。俺が北の地へ連れて行く」

「お、俺もいく」

「馬鹿を言うな。魅入られれば鬼となる。しかし、娘を忘れることができれば、人に戻れる。お前は俺を信じ、ここで暮らせ」

「俺に親はない。棄児だ。親戚が親代わりだが、俺を芯から大事にしてくれたのは、あの娘だけだ。あの娘だけなんだ」

 太吉に突き放されても、五郎はその手を掴んだまま離さない。

「あの娘のいない人生など考えられない。絶対に助ける……あの子を……」

 瞼の裏に浮かんだのは、愛らしい娘の顔だ。

 彼女は病がちで幼い頃から外に出られなかった。しかし庭先に五郎が遊びに行くと、優しく微笑んでくれるのだ。

 いつも腹をすかせている五郎に、密かに菓子を渡してくれることもあった。

 その手を掴んだ幼い頃、五郎は思ったのだ。

 必ず、この娘を幸せにすると。

「あの子を、好いているんだ」

 叫んだ言葉に、太吉が薄く微笑む。まるで後悔を噛みしめるように、じっと廃屋を見つめる……あの奥に、桜の木があるのだ。姫が成った、桜の木。

「……娘の足を白絹で覆い、背負え。絶対に地面に下ろすな。お前も、旅の支度を」

 太吉はしばらく悩んだあと、五郎の手を握った。

「長くなるぞ」

 彼の目は、すでにはるか北を睨んでいる。

 山桜が咲く山道を超えれば、大きな街道に出る。その道の先を、太吉は見つめているのだ。

 彼の額の傷は、まるで血を帯びたように赤く輝いている。

「……今度こそ、必ず」

 

 目前は、ただ桜の園であった。



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