10-5
「さっき何処からかお師匠様の声が聞こえたような……」
「リア、足は大丈夫でしたか?」
「あっ、うん! ちょっと滑っただけ」
曲の終わりと同時に人混みから抜け出したリアは、優しい声に笑顔で応じた。途中、繋いだままの手を見ては分かりやすく頬を弛めつつ。
エドウィンに連れられ大広間の端にやって来るなり、彼女は興奮を露わにしつつ口を開いた。
「エドウィンって教えるの上手いのね! 私、踊るの初めてなのにちゃんと足が動いたわ!」
「いえいえ、リアに素質があるのかもしれませんね」
「やだ、そんなこと言われたら調子乗っちゃうわよ」
既に調子に乗っているリアは上機嫌に笑ったところで、はたと周囲に視線を巡らせる。
よく見てみたら、エドウィンの後方で複数の少女がこちらの様子を窺っていた。それだけではない、彼女らを押し退けるようにして前に出てきた妙齢の女性も、熱い視線をエドウィンに注いでいるではないか。
──忘れてた、この人めちゃくちゃモテる騎士様だったわね。
パートナーの男性と腕を組んでいる女性でさえ目を奪われているのだから、やはり都会の色男は非常に罪深い。
それにこのダンスパーティは身分問わずに誰とでも踊れるため、素敵な貴公子と一夜のアヤマチを狙う子もいるとか何とか、カティヤが昨日ぺらぺらとそんなことを喋っていた。
「ねぇエドウィン。アヤマチ……じゃなかった、あの子たちと踊ってあげたら?」
エドウィンはぴしりと笑顔を固まらせると、リアの視線を鏡越しに確認する。背後の異常な人だかりを目視した彼は、頬を引き攣らせ暫し瞑目。
再び瞼を開く頃には、落ち着きを取り戻した様子で口を切った。
「それは承諾しかねます」
「あ、もしかして私に気をつかってるの? 大丈夫よ。昨日の件もあるし、ちゃんと人気のあるところで」
待ってる、と続けることは叶わなかった。
おもむろに伸ばされた彼の手によって、リアの顎がくいと持ち上げられる。その拍子に口も閉じてしまい、リアはまばたきを繰り返しながら菫色の瞳を見返した。
エドウィンは彼女の言葉をいとも容易く中断させると、そっと手を下ろしつつ微笑む。
「僕と過ごす時間には、もう飽きてしまいましたか?」
「……えっ?」
「すみません、僕から誘っておいてリアを満足させられなかったようですね」
「え!? いや、そういう意味じゃ」
ハッとして訂正を試みるも、エドウィンは何とも残念そうな、そして申し訳なさそうな笑みで瞼を伏せてしまう。やたらと長い睫毛に一瞬だけ見入ってから、リアは慌ただしく彼の顔を覗き込んだ。
「ご、ごめんなさいエドウィン。あの子たち、エドウィンのこと見てたから踊りたいのかなって……飽きたとかそんなことはないから安心して!」
エドウィンは口元に笑みを浮かべたまま、慌てふためくリアを眺めたのち、ふと穏やかな声音で尋ねる。
「そうですか? ……でしたら不安ついでに、もう一つだけ伺っても?」
「なに?」
「──今つけている香水、ご自分で買われたんですか?」
前のめりな姿勢で待機していたリアは、その問いにきょとんとしてしまった。
しかしそれも束の間のこと、勢いよく自分の手首を見ては後ずさる。
──しまった!
今朝、寝起きが悪くて香水をつけたことを忘れていた。恥ずかしいからエドウィンの前ではあまり付けないようにしようと密かに決めていたのに、またもや彼に気付かれてしまうとは。
どう言い訳をしようか考えていると、リアの沈黙を不穏なものとして捉えたエドウィンが笑顔で間合いを詰める。
「どなたかの贈り物でしょうか?」
「えっ」
「例えばそうですね、幼馴染のアハト殿とか」
「ええ? あいつに何か買ってもらったこと自体ないけど……じゃなくて、これはその、自分で買ったのよ」
器用にも後ろ歩きでエドウィンから逃げていたリアは、とうとう逃げ場がなくなったところで観念することにした。
少しひんやりとした空気が入り込むテラスの前で、彼女はぼそぼそと香水を買った経緯を語る。
「イネスと一緒に香水を買いに行ったのよ。そしたら店主の人からどんな香りが好きかって聞かれて、ぱっと思い浮かんだのが、ええと、エドウィンの匂いで」
「……」
「たまにあなたの手紙からも柑橘系の香りがしててね、落ち着く匂いだなって……でもいざエドウィンに同じような香水つけてること知られたら、気持ち悪がられるかなぁ……なんて」
「……。だから初めて尋ねたとき、不自然に話を逸らしたんですか」
「そうです」
それもバレてたのかと思いつつ素直に肯定すると、唐突にエドウィンがその場に屈んでしまった。
「え、何!? エドウィン!? 具合悪い!?」
「いえすみません、体調はすこぶる良いです」
「その体勢で!? 何か吐きそうになってない!?」
「ちょっとお見せできない顔なので」
「そんなはずないじゃない」
思わず真剣な声で告げてから、リアは彼の腕を両手でぐっと引き上げる。エドウィンはそれに従いながらも、未だ口元を覆い隠したまま取り繕うように笑みをこぼした。
おもむろに懐から取り出したのは、彼が普段から愛用しているであろう四角い香水瓶。中に入っている液体は、やはりリアのものと同じような色を帯びていた。
「香水は……僕が戦場にいる頃、あまりに顔色が悪いからと上官から渡されたんです。気を鎮めるには丁度良いから」
「あ……そうだったのね」
「ええ、それ以降ずるずると付けていて。気付けば常備するのが当たり前になっていましたね」
その上官が渡してくれた香水は、彼の妻が愛用していたものだったらしい。当時まだ十代だったエドウィンの体調を慮り、気休めになればと与えてくれたのだ。
戦場では厳しい面が目立つ人だったが、彼が上官でなければ初陣で心を病んでいただろうとエドウィンは語る。そうして苦笑混じりに瓶を仕舞いこんでは、リアの右手首を掬い上げた。
「だからこの香りが最も落ち着くのですが、リアも気に入ってくれていたとは知りませんでした」
「……き、気持ち悪くない? お前そんなに匂い嗅いでたのかよって」
「まさか。嬉しいですよ」
「何で?」
「僕と同じものを好んでくれたから」
さらりと返ってきた答えにリアは目を瞬かせ、やがて無意識のうちに彼の手を握り返す。
「エドウィンって」
「はい?」
「本っ当に私に甘いわね……? 大丈夫? 色気と優しさの安売りは危険よ」
「い、色気はよく分かりませんが……リアは無性に甘やかしたくなります」
「はぁ!! ほらそういうところ! そのうち私のこと餌付けでも始めそうね!?」
「ああ、それ良いですね」
「真面目に検討しないでくれる!?」
ただでさえ美味しいごはんには弱いと言うのに。リアは的外れな危機感に駆られてエドウィンの傍から逃げたが、考え込む仕草を止めた彼はやはりおかしげに笑うだけだ。
そのうち彼の穏やかな笑みに釣られて、リアもあっけなく破顔する。
「ありがとう、エドウィン」
「え?」
「ううん、何でもない。──あっ、あれサディアス様じゃない? 行ってみましょ!」
リアはエドウィンの手を引いて、暇そうにしている皇太子の元へと向かったのだった。
すっかり消え失せたはずの悪夢の余韻が、未だその影に潜んでいることには気付かずに。




