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洞穴から離れて幾許か。ふらふらと揺れるブーツの爪先を見詰めていたリアは、何度目とも分からぬ不満を口にする。
「頭に血が上ってきた……」
「我慢しろ」
「あと寒い、このまま雪に晒されてたら死んじゃうわ。ああ、可哀想なリア……故郷で凍死してしまうなんて……」
刺青の男は舌打ちと共に溜息をつくと、ようやくリアの芝居がかった声に応じて足を止めた。
光華の塔の下に広がる渓谷は、ただでさえ暗い極夜の闇がより一層深まる。どんよりとした薄闇の中、樹氷に包まれた弑神の霊木は今にも動き出しそうでおどろおどろしい。
周囲を見回していると爪先が地に届き、仁王立ちを許されたリアは重たい頭を上向けた。
すると。
「わ」
暖かい厚手の布が頭に被せられる。エルヴァスティの羊毛ケットとはまた違う生地だが、どこの製品だろうか。
それにしても意外と優しい男である。素直に聞き入れてもらえるとは思っていなかったリアは、ありがたくケットをぐるぐると巻いてから視線を戻したのだが。
そこには何故そうなったのか、刺青の男が子守り中の母親よろしくリュリュの体を大きめの布で括りつける姿があった。あまりにも似合わなかったのでリアは失礼ながら噴き出してしまう。
「何を笑ってる」
「いや、ごめんなさい、ちょっと予想外だっただけです」
衝撃的な見た目はともかく、毛皮の外套の内側に抱きかかえられたリュリュはとても暖かそうだ。暫しその妙に手慣れた仕草を眺めていたリアは、少しの躊躇いを経て尋ねてみた。
「歳の離れた弟妹でもいるの?」
「……呑気なもんだな。誘拐犯の身内話なんか聞いて何になる」
「だってただ連行されるの暇だし寒いし……私の生存確認がてら何か話した方がいいわよ」
「俺が喋らずとも一人で喋ってるだろうさっきから」
確かに。師匠からもよく言われる。
だが他にすることがない。弑神の霊木が周りにある以上、精霊術は使えないし。リュリュもしっかり抱っこされてしまったから、一人で逃げることも叶わない。そもそも上に登る方法も分からないので、今は大人しくこの男に連行されるべきだ。
その間少しでも歩く速度をゆるめることが出来たなら、なお良し。
「じゃあ別の話振るわね。あなた何処の人? 歓楽街で襲ってきたごろつきと違うわよね。服も刺青も」
「……」
「その毛皮って本物? エルヴァスティでは羊毛が主だけど」
「…………」
「……これも駄目? もっと楽しい話がいい? エルヴァスティでは一人で後ろ向きにソリに乗ると精霊に取り殺され」
「楽しい話と言わなかったか?」
「ああもう、やっと反応したわね!」
これがエドウィンだったら丁寧に一つずつ答えてくれるのに。などと考えたところで、彼は誘拐犯ではないので愛想が良いのは当然かと思い直す。
「そうだ名前は?」
「どうせお前とはすぐにおさらばだ。知る必要はない」
「抱っこ紐って呼ぶわよ」
「イヴァン」
つい思わずといった具合で食い気味に名乗ってから、刺青の男──イヴァンは自分で呆れたようにかぶりを振っていた。
イヴァン。見慣れない衣服で薄々予想はしていたものの、リアは密かに息を呑む。恐らくバザロフと同じ、キーシン方面の名前だろう。
──もしかして大公国との戦に負けて、こっちに逃げてきたっていう人たち……?
エドウィンから聞いた話では、確かそのような経緯だったと記憶している。大将である王子が深傷を負ったことで、キーシンの民が矛を収めて撤退したのだ。それを追う形でサディアス皇太子がエルヴァスティを訪問し、王子の捕縛を要請しに来たというのがここ最近の流れである。
それが何故、愛し子を狙う大罪人などに手を貸すことになったのだろう。戦の後ろ盾として選ぶべきは、もっと身元のしっかりとした富豪や商会ではなかろうか。それか帝国と同盟関係にない、中立を維持している国とか。
戦争に関する乏しい知識を引っ張り出し、うんうんと唸ってみたが答えは見つからず。リアはさりげなくイヴァンを風除けにしながら、仕方なしに歩を進めた。
「ねぇイヴァン。私を攫う目的ぐらい聞かせてちょうだい。知る権利はあるでしょ?」
「……詳しいことは俺も知らん。だが」
白む視界を突き進んでいた背中が、ふと前のめりになる。獅子のたてがみに似た赤毛が吹雪に遊ばれたのち、彼は低く唸るような声で答えた。
「──勝利を掴むためにはお前が必要だ。我らにはもう後がない」
リアはつい足を止めてしまった。
感じたのは途方もない危機感と、漠然とした不安。
吹雪を貪欲に吸い込む闇の奥、自ら体を沈めていくイヴァンの腕を、リアは咄嗟に掴み寄せていた。
そこでイヴァンが弾かれたように振り返れば、時を同じくして我に返る。
「あ……ま、待ってイヴァン。もしかしてあなた……騙されてたりしない?」
「何だと?」
「今の言い方、私を攫う計画を立てたのはイヴァンじゃないわよね。愛し子を狙ってるとかいう、エルヴァスティから追放された悪人じゃないの?」
直接言葉にして確かめると、イヴァンが苦虫を嚙み潰したような顔で視線を逸らした。彼としても罪人の手を借りるのは好ましく思っていない、といったところだろうか。
だが甘い誘惑を撥ねつけるには、あまりにキーシンの状況は切迫しすぎている。強固な軍事力を誇るクルサード帝国や大公国から、ジスの聖地を含む多くの領土を奪い返すために、藁にも縋る思いでその手を取ったのかもしれない。
「そんな奴と手を組むなんて止めた方がいいわ、何を企んでいるか分からない! 私は余所者だから何とでも言えるし、不愉快だと思うけど……っ」
「っああ不愉快だ! 俺には力がない、なかったから戦に敗れた! みじめな姿を晒し同胞の不安を煽ることしか出来ない俺に、もはや選り好みしてる余裕などない……!」
「わ、私は信頼してる人が胡散臭い奴と仲良くしてる方が不安よ! 弱ってるだけなら支えてあげられるもの、何でわざわざ知らない奴にその役目を渡すの!?」
次第に強くなる吹雪に負けぬよう、リアは声を張り上げた。彼女の切実な訴えに、イヴァンの表情は険しくなるばかり。
互いにぜぇはぁと息を荒げる傍ら、それまでじっと大人しくイヴァンの胸元で縮こまっていたリュリュが、唐突に顔を上げた。
「……オーレリア、あれなに」
「え?」
少年が指差す先を振り返ると、にわかに風がざわめき始める。
どういうわけか弑神の霊木がひとりでに揺れていることを知ったリアは、不気味な光景につい後ずさった。
その瞬間、彼女の耳飾りが明滅する。空から舞い降りた光の粒が紫水晶に集まれば、雪を蹴る小さな影が遠くから現れた。
「ウサギ……違う!」
目を眇めて呟いたリアは、てんで的外れな予想を自ら打ち消す。ざくざくと雪を踏みしめてそちらへ向かいながら、彼女は笑顔を浮かべたのだった。
「エドウィン!」




