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「──あっ……あの、エドウィン、あぅっ、わ、私……」
「リア、大丈夫ですよ。痛かったら僕の腕を掴んでくださって構いませんから」
「うう……あ、やっぱりちょっと待って、わぁぁ無理無理! それ苦手なの!」
そのとき、壁ごと破壊する勢いで医務室の扉が開かれた。
肩で息をしながらこちらを鋭く睨むのは、頬に湿布を貼りつけたアハトだ。彼は何やら耳を赤くして、向かい合って座るリアとエドウィンの傍へずかずかと歩み寄る。
「……何やってんだお前ら」
「何って」
「傷口の消毒です」
肘まで袖を捲りあげたリアの右腕。真っ白な肌に走る数本の赤い筋は、暴客に強く掴まれたときに皮膚が剥けてしまって出来た爪痕だ。
そしてリアの腕を優しく取り、消毒液を染み込ませた綿を手に迫るのは、歓楽街で風の如く二人を助けに入った貴公子──エドウィンだった。
至って健全なやり取りだったことを確かめ、アハトは盛大なため息をついた。
「アハト殿も大事ありませんでしたか?」
「……口ん中が切れた程度です、ゼルフォード伯爵」
二人が話している間にと、しれっと消毒を回避しようとしていたリアだったが、ほどなくしてエドウィンに見付かった。
薬師のくせに消毒をされるのは昔から苦手なリアは、散々ビビりまくった後、ちょんちょんと軽く綿を押し付けられただけで「ふう」と息をつく。
「お前はそんぐらいで毎回騒ぎすぎだろ……」
「アハトだって昔はびーびー泣いてたじゃない」
「昔はな」
今は違うとでも言いたげな幼馴染を一瞥し、くすくすと笑っているエドウィンに視線を移す。
「エドウィンは?」
「僕も苦手ですよ」
「ほらっ、仲間がここに……」
リアは椅子に座ったまま跳ねたが、次第に声を小さくしていった。
すぐそこで跪き、慣れた手つきで包帯を巻いていくエドウィンの姿に、今更ながら実感が湧いてきた。
──エドウィン、本当にエルヴァスティに来たんだ。
その事実が無性に嬉しくて、気付けばリアは彼のすべすべな頬を指先で突っついていた。
「リア?」
「エドウィン、久し振りね。前よりまた顔色が良くなってるわ」
「そう、ですか?」
「ええ! 伯爵邸で健康に過ごせてるみたいで良かった」
包帯の端を結び終えたエドウィンは、こちらを見上げるなり、やわらかな笑みをこぼす。頬で遊んでいたリアの指を掬い取っては、おとぎ話の王子様も顔負けな仕草で口付けてしまった。
リアが笑顔を固まらせて真っ赤になったのと同様、それまでつまらなさそうに傍観していたアハトに至っては、絶叫する寸前のような顔で口を開閉させていた。
そんな反応もお構い無しに、エドウィンは片膝をついたまま、リアの顔をそっと覗き込む。
「帝国との行き来が増えたので、あまり休む暇はなかったのですが……リアの手紙のおかげですね」
「わ、私の? 八割ぐらい薬草のこと書いてたけど面白かった?」
「ええ。興味深かったですし、何より返事が来るだけで嬉しかったですよ。……ところで」
世辞にしては甘すぎる言葉の数々にリアが照れていると、エドウィンが何かに気付いた様子で視線を落とす。
彼は先程口付けたリアの右手を一瞥し、不思議そうに首を傾げた。
「リア、なにか……香水でも付けていますか? 珍しいですね」
「え? ……あ!!」
瞬時に両手を挙げて立ち上がり、リアは慌ただしく手首を衣服に擦り付ける。
きょとんとしているエドウィンに愛想笑いを浮かべながら、彼女は無理やり話題を変えたのだった。
「そ、それでエドウィン、どうしてあの人──サディアス様がここに来てるのっ?」
□□□
メイスフィールド大公国とキーシンの戦が、約五年の歳月を経てようやく終息を迎えた。
その報は早馬にてエルヴァスティにも届けられたが、急遽来訪した皇太子サディアス・ガーランド=クルサードのある要請によって、王宮は少々ざわついていた。
「──キーシンの王子が行方をくらませた?」
大巫女ユスティーナは怪訝な面持ちで、皇太子からもたらされた言葉を反芻する。
広々とした会議室の中央、これまた細長い大テーブルに着席するのは国王を始めとした王宮の重鎮たちと、寺院でも優れた実力者である精霊術師たちだ。
三十年前の征服戦争に参加し、以降も大公家や皇室の記録にその存在を刻んでいるヨアキム・ヴィレン。そして次代の大巫女たる資格を持つイネス・クレーモラもこの場に同席を許されている。
錚々たる面々をさっと一瞥したサディアスは、悠々と椅子に腰かけたまま頷いた。
「敗北を喫したキーシンの幹部らが王子を逃がしたのだ。我々としては、奴がまた何処かで戦力を蓄える前に捕らえてしまいたい」
「……それで皇太子自ら、遥々エルヴァスティに助力を?」
「概ねその通りだ」
サディアスは大巫女の言葉を肯定し、にこりと笑った。
「とは言え、大公家への恩もある。今回はあなたがたにキーシンの動きを伝え、備えを促すことが主な目的だ。どうか要らぬ戦火を被らぬよう注意をしてくれ」
「ふん、間違ってもキーシンの若造に手を貸すなと釘を刺しに来たのだろう。素直にそう言えばよい」
「いやはや大巫女殿は手厳しい」
そう言いつつ皇太子は特に否定もしなかった。
数ヶ月前、ヨアキムとその弟子オーレリアによって、大公家が影の精霊の呪縛から解放されたことは、既に知る人ぞ知る話だ。それに応じて、クルサード皇帝から褒美として莫大な金額がエルヴァスティに支払われたことも。
魔女狩り以降すっかり控えめになってしまった国交を、この機に復活させることもサディアスの役目なのだろう。キーシンの動向を書簡ではなく、自ら訪問して伝えに来たことが何よりの意思表示だ。
──街でのへらへらした態度は何だったのだろう。
じっと静かに話を聞いていたイネスは、堂々とした居住まいの皇太子をちらりと盗み見る。
途端、動きを読まれたかのように視線がかち合い、サディアスが唇を吊り上げた。
彼とはあまり関わらないようにしようと、イネスはそこで改めて決意したが……。
「そうだ大巫女殿。そろそろアイヤラ祭が近かったな。そちらの──イネス嬢に案内を頼んでも?」
「え」




