7-5
「──どうしたの? リア」
完成した香水の瓶を手にしたまま硬直するリアに、イネスが不思議そうに声を掛けた。
丸い瓶底から仄かに煌めく、琥珀色の水。手首にひとしずく落として馴染ませてみたが最期、嗅ぎ覚えのありすぎる香りにリアは赤面してしまった。
──エドウィンの匂いだわ、これ!
ベルガモットをベースにした、少し苦味を含んだ柑橘の爽やかな香り。紳士用よりも甘やかな香気が付加されているものの、それほど鼻が利くわけでもないリアにとってみれば殆ど同じである。
深く考えていなかったとはいえ、恋人でもないのに同じ香水を買ってしまったリアは凄まじい混乱と羞恥に苛まれ、店から出るや否やイネスに抱きつく。
「イネス、ど、どうしよう、私、私の知り合いと同じ匂いがしてる」
「ん……? 嫌なの?」
「え!? ううん、断じて嫌とかじゃなくて、ちょっとあの、ムズムズする……」
ただでさえリアは紫水晶の耳飾りを見るたびに、頬を掠めた指先やら間近に迫った菫色の瞳やら、いろいろと思い出して動揺しているというのに。香りまで傍にあると、今度は抱き締められたときの感触が蘇ってしまいそうだった。
寒さで赤く染まり始めた鼻先に、イネスの手袋がそっと押し付けられる。一人で慌てていたリアがおろおろと視線を持ち上げれば、薄氷の瞳が快晴を背に微笑んだ。
「リアが好きな香りなんでしょう? なら気にすることないわ」
「そう……?」
「ええ。さっ、お腹が空いたわね。どこかでお昼にしましょ」
よしよしと頭を撫でられながら、リアは小さく唸る。とりあえず手紙には書かないでおこう、と香水を懐に納めたとき、ふと彼女らの耳に騒々しい音が舞い込んだ。
広場から伸びる街路を覗いてみると、その奥で何やら人集りが出来ていることを知った二人は、つい顔を見合わせた。
「何かしら」
「あそこって確か酒場よね? イネス、行ってみよ!」
「野次馬は良くな……あっ」
乗り気でないイネスの手を引いて、リアは人混みの中へと突入する。
傭兵の溜まり場になりやすい酒場周辺だと言うのに、集まっているのはどちらかというと女性が多いようだ。何か見世物でもやっているのだろうかと、リアは爪先立ちになって観衆の視線を追う。
すると見えたのは、別に見世物でもなければ誰かが演説をしているわけでもなく。武装した数人の騎士が、暴れる男を取り押さえている場面だった。
「喧嘩でもあったのかな?」
「物騒ね……あら? あそこにいるのアハトじゃない?」
イネスが指差した先には、確かにアハトの姿があった。真剣な表情で同僚と話していると、いつもリアに嫌味を言ってくる男と同一人物には見えない。
幼馴染の真面目な勤務態度にリアが感心したのも束の間、爪先立ちをしていた足がふと揺らぐ。踵を下ろせば今度は凍った石畳で靴裏が滑り、慌てて転ばぬよう後退したならば、イネスとの間にずいと人が割り込んでしまった。
「あっ、イネス──」
咄嗟に呼び掛けようとしたリアの手首が、誰かに強く掴まれる。
骨が軋むような痛みに驚き、彼女が振り返った先にいたのは──。
□□□
「リアっ?」
友人が傍から消えてしまったことに気付き、イネスは戸惑いを露わに周囲を見渡した。
元気な彼女のこと、はぐれそうになればすぐに大声を出して知らせてくれるはずだが、そんな兆しは未だ訪れない。生まれた焦りに衝き動かされ、イネスが一旦人混みの外へ出ようと踵を返したときだ。
「イネスさん?」
軽鎧の擦れる音と共に近付いてきたのは、先程まで酒場の前にいたアハトだった。
「どうしたんですか、こんなところで」
「アハト。リアがいなくなってしまったの、一緒に捜してくれないかしら」
「え……子どもじゃあるまいし、すぐ近くにいそう──」
楽観的な彼の肩を鷲掴みにしたイネスは、凄みを効かせた笑顔だけで言葉を遮る。
肌がひりつくような威圧感を前にして、アハトの喉がひゅっと鳴った。
「リアが昔からよく動き回るの、あなたも知ってるでしょう? 怪しい輩に誘拐されてたらどうするの? 今あの子、精霊術を禁止されてるから抵抗する術がないのよ? 好きな女の子のことなんだからよく理解してるでしょうっ?」
「ちょ、あの、すみません、ごめんなさい、俺が軽率でしたすみません、すぐに捜します」
だらだらと冷や汗をかいたり赤面したりと忙しなかったアハトは、慌ただしく同僚に断りを入れてからリアを捜しに向かった。一方のイネスも風の精霊の力を借りつつ、彼とは反対方向からリアの行方を探り始める。
──アハトの言う通り、リアも幼い子どもじゃないのだからここまで焦らずとも良いかもしれない。だが、それはいつもの話であって、今はそうもいかなかった。
ユスティーナから内密に告げられた話を心の隅に留め置きながら、イネスは亜麻色の毛先をナイフで切り落とそうとしたのだが。
「あっ」
すれ違いざまに人とぶつかり、小さなナイフが手から弾かれる。からからと回転しながら石畳を滑った刃は、やがて一人の青年の爪先に当たって停止した。鞘に納めたままだから良かったものの、少々落ち着きがなかったとイネスは反省しながら彼に駆け寄る。
「ごめんなさい、それは私の……」
ゆっくりとナイフを拾い上げた青年は、鞘に刻まれたメリカント寺院の紋章をまじまじと見詰めていた。精霊術師が所持する特徴的なナイフだから、目新しかったのだろうか。
イネスが窺うように彼の顔を覗き込むと、鳶色の瞳が静かに寄越された。透けるような金髪とくっきりとした目鼻立ち。どこか異国の匂いを纏わせた男性だとイネスが首を傾げると同時に、青年が気の抜けるような笑みで尋ねてくる。
「イネス・クレーモラかな?」
「え……はい、そうですが……あの、ナイフを返していただけないでしょうか。それがないと困るのです」
こちらの素性を知っているなら話は早い、と手を伸ばしてみたが、何故だかナイフはひょいと遠ざけられた。
お互い笑みを浮かべたまま、暫しの沈黙。
からかわれているのだろうか。いやまさかと再びナイフを取り返そうと動けば、やはり青年は逃げるように手を高く上げてしまう。
「……。何のつもりでしょう? 遊びたいのなら他を当たってください」
「そう? 残念。ところで何を急いでるの? イネス嬢」
やけに馴れ馴れしい口調に眉を顰めつつも、取り敢えずナイフは返してもらえたので良しとする。イネスはさっさと髪を切り落としてから、こちらの動きを逐一観察する青年を振り返った。
「私の友人とはぐれてしまったから、捜しに行くだけです。それでは」
「僕も行こうか」
「結構です」
「さっきみたいな物騒な喧嘩もあるしね」
にべもなく申し出を断ったつもりだったのだが、青年はお構いなしに付いて来る。イネスは極力彼を視界に入れないようにしながら、足早に酒場の前から立ち去ったのだった。




