6-11
ゼルフォード伯爵邸に戻ってきたリアは、書斎に置いてあった荷物をまとめていた。
バザロフの遺跡周辺に群生する森林の伐採はサディアスが主導することになり、初代大公ハーヴェイの最期をクルサード皇帝に伝える役目は、実際に言葉を交わしたエドウィンに任された。
つまり彼はこれから、星涙の剣を遺品として、かつバザロフの遺跡を鎮める宝剣として大公家に納めた後、遠路を超えてクルサード帝国に赴かねばならない。
エドウィンの呪い──もとい影の精霊の誘惑が解けた今、リアはこの屋敷に滞在する理由がなくなった。
「オーレリア様、本当に帰ってしまわれるのですか……?」
「グレンダさん」
書斎の戸口でしくしくと顔を覆っているのは、侍女のグレンダだった。美味しい紅茶を淹れてくれたり、短くなってしまったリアの髪を綺麗に整えてくれたりと、彼女にはとても良くしてもらった。
肩口で揃えられた黒髪を指で軽く払ったリアは、晴れやかな笑顔で彼女の傍まで歩み寄る。
「お世話になりました。エドウィンももう大丈夫だろうし、一旦お師匠様とエルヴァスティに帰ります」
「私、エドウィン様が大変なことになっているとは露知らず……こちらこそ、亡き旦那様と奥様に代わってお礼申し上げますわ。エドウィン様を救っていただいて、ありがとうございます」
「わ、そんな大げさな。私は殆ど何も出来ませんでしたよっ」
伯爵邸に帰った後、エドウィンは彼女に全ての事情を打ち明けたという。両親の代から長く仕えてくれているグレンダに、要らぬ心労を掛けた謝罪も兼ねて。
その場に居合わせたわけではないので詳しくは知らないが──さぞかしグレンダから叱られてしまったのではなかろうか。彼女と話し終えたエドウィンの顔は少々やつれていた。勿論、そこには多大な安堵もあったけれど。
「ご謙遜なさらないでくださいな。オーレリア様、あなたの暖かな心があったからこそ、今のエドウィン様があるのですよ」
「そう……ですか?」
「ええ」
笑みを滲ませて頷いたグレンダは、しかし寂しそうな顔でリアを抱き寄せた。陽の光をいっぱいに浴びるのと似た優しい抱擁に、リアはつい身を委ねてしまいそうになる。
もしかしたら母の腕とは、これほどにまで安心するのかもしれない。例えそれを享受したことがなくとも、心が満たされるには十分だった。
一方、ひしとリアを抱き締めていたグレンダはと言えば、口惜しげに眉を曇らせていた。
「……はあ、私はてっきり、エドウィン様が身を固められるのかと……いや、まだ諦めるには早いでしょうか……」
「え?」
「ああ! いいえ、何でもございません。オーレリア様、どうかまた伯爵邸にお越しくださいね。使用人一同、お待ちしておりますわ」
グレンダの後方、書斎の外から手を振るメイドたちの姿を見つけて、リアは笑みをこぼして頷く。自身も深々と頭を下げてから、屋敷の外へと向かった。
初めは迷子を恐れて道を逐一確認していたこの屋敷も、今ではすっかり歩き慣れていた。埃一つない美しい廊下を小走りに抜け、玄関口に繋がる大きな階段を下りていく。
階下で彼女を待っていたのは、いつも通り藍白の髪をきっちりと束ねたエドウィンだ。
「エドウィン!」
「リア」
それまで何処か上の空だった彼は、リアの姿を認めてはゆるやかに微笑む。だが彼女の肩掛け鞄や荷物に視線を移しては、わずかな落胆をそこに宿した。
エドウィンの様子を不思議に思ったのも束の間、あと三段ほどあった階段を勢いよく踏み外す。悲鳴を上げる暇もなく滑り落ちたリアは、あわや大惨事になるところを、逞しい腕に抱き止められた。
柑橘の香りにふわりと包まれれば、滑落の恐怖とは異なる高鳴りが胸に響く。
少しの沈黙を破り、リアがもぞもぞと体勢を整えると、背中を抱き寄せていた腕がにわかにゆるんだ。
「あ、ありがとうエドウィン。駄目ね、もっと落ち着かなきゃ」
「いえ、足は痛めてませんか?」
「大丈夫!」
その場で軽く跳躍してみせれば、エドウィンが静かに笑う。そしてリアの肩から手を滑らせては、軽くなった黒髪をそっと撫でつけた。指先で細い毛先を掻き分けた彼は、奥で煌めく紫水晶の耳飾りに触れる。
くすぐったさにリアが体を竦ませていると、やがて彼のやわらかな声が降ってきた。
「改めて、ありがとうございます。リア。あなたのおかげで穏やかな日々が取り戻せました」
「それは良かった。まあ、私だけじゃ何も出来なかったと思うけど」
「……此度の礼、本当にあれだけで良かったのですか?」
「え? お礼……うん、だって影の精霊を追い払ったのはエドウィン自身だもの。ここで快適な生活もさせてもらっちゃったし、これ以上のお金はいらないわ」
リアが謝礼として受け取ったのは、薬師として患者から支払われる代金とほぼ同じぐらいの金額だった。風邪薬を調合した程度の、伯爵からすれば微々たるお金である。
大公家の永き呪いを解かんと奮闘はしたが、リアは別に恩を売りつけたいわけでもなかった。今回得られた結果は、単純にエドウィンを救ってあげたい思いと、未知の現象への好奇心に衝き動かされてのことだ。だから対価はこれだけで十分だろう。
しかしそこでリアは、エドウィンからとんでもない話を聞くことになる。
「そうですか。……サディアス殿下が、あなたに準男爵の地位を授けてはどうかと仰っていたのですが」
「ぶほぁ!? 何それ!?」
「国家に貢献した者に贈られる名誉称号ですよ。それほどの働きであったと殿下は見なされたのでしょうね」
それは大変光栄な話だが──一平民に過ぎない自分に爵位など激しく似合わないので、リアは首を横に振った。
「え、遠慮しとく……」
「そう言うと思ったので、今のところは保留にと申し上げておきました」
その返答にほっと息をつけば、エドウィンがくすくすと笑う。彼としては爵位の授与に肯定的なのだろうか。いまいち準男爵の地位とやらに価値を見出せていないリアは、釈然としない面持ちで固まることしか出来ず。
「それに爵位なんて貰っても、私これから帰らなきゃいけないし……あっ、ちゃんと影の石は調べておくから安心して!」
「ええ、よろしくお願いします」
エドウィンが影の精霊から授けられた黒曜の石──あれはどうやら、彼が直接触れるとたちまち影獣に変化してしまう代物らしかった。
試しにリアやヨアキムが触ってみても何ら変化はなく、見初められた者だけが影の力を得るのだろうということで結論が出た。とは言えそのままエドウィンに持たせていても、星涙の剣抜きでは元の姿に戻ることが叶わない。
そういうわけで影の石を一度エルヴァスティに持ち帰り、精霊術師たちと共に調査をした上で、エドウィンに持たせるか厳重に保管しておくべきかを議論するのだ。
「精霊の加護を当人から引き離すのは、本来ならあんまり良くないことらしいんだけど……エドウィン、何かあったら手紙で知らせてね」
「……」
「……エドウィン?」
薄い瞼を伏せていた彼は、つとリアの瞳を見据えて尋ねてきた。
「会いに行くのはいけませんか?」
「へ」
「あなたに」
畳み掛けるように確かめられ、リアの頬が一拍遅れて熱くなる。
何てことを言うのだろう。こんな貴公子に「会いに行く」なんて言われた女性は皆勘違いしてしまうのではなかろうか──エドウィンがそれを望んでいるとは露知らず、リアは全くまとまっていない思考を口から吐き出した。
「い、いけないことはないけど、いや、でもエルヴァスティよ? とっても遠いし」
「帝国へ渡るついでなら、然して距離も感じません」
「大公様の許可とか」
「僕自身と大公国のためにも、精霊に関する知識を蓄えよと仰せでした」
「あう……そ、そっか……じゃあ問題ないのかしら」
「ええ。あとはリアが許してくれれば、気兼ねなく東へ向かえるのですが」
自分の許可は必要ないのでは、とリアは困惑する。しかし目の前で恭しく手をすくう麗しい貴公子は、こちらの許しを真摯に待っている。
むず痒さを覚えつつも彼の手と瞳を交互に見詰め、リアはやがて小刻みに頷いた。
「その……これからもエドウィンに会えるなら、嬉しいわ。エルヴァスティで待ってるね」
素直な気持ちを明かせば、菫色の瞳が甘くとろける。まるで飴を溶かしたようだと、リアがわけもなく疼いた胸元を押さえたとき。
うつむきがちだった顎をそっと摘まれたかと思えば、前髪を避けた額にやわらかく唇が押し付けられる。
ほんの一瞬の出来事だったが、リアの全身を発熱させるには十分すぎた。今度こそ心臓が激しく暴れるままに奇声を上げてしまった彼女は、慌ただしく後背の階段に崩れ落ちる。
「ひょわぁ!? なななな何?!」
「すみません、嬉しかったので思わず」
「思わず!? も、もう、大袈裟よ! やっぱり都会の男は油断ならないわ!」
おかしげに笑うエドウィンに頬を膨らませたリアは、手早く荷物を抱えて彼の脇をすり抜けた。屋敷の扉を肩で押し開けては、朱を引きずった顔で振り返り。
「またねエドウィン!」
「はい。また……今度はあなたの故郷で」
最後には笑顔で再会の約束をして、外で待つ師匠の元へ駆けたのだった。
※ここまで読んでいただきありがとうございます※
これにて第一部終了です。何か名前考えようとしたけどイマイチ良いのが思い浮かばなかったので、1~6までを「大公国編」としておきます…そのままだな…。
ちょっと不穏な影を残したまま、第二部は東の王国エルヴァスティに舞台が移ります。第一部よりも全体的に明るい雰囲気になる、かもしれません。
第二部を公開するまで少し日が開くと思われます。ストックが増えてきたらそっと再開しますので、続けて読んでいただける方はどうぞよろしくお願いいたします。
最後に、感想を書いてくださったりブクマや評価など付けてくださった方々、まことにありがとうございます。この後も楽しんでいただけるよう頑張ります。




