3-7
「ええっ……!? お守りは壊れないってお師匠様言ってたのに!?」
ただの半貴石が欠けることはあっても、精霊の加護を授かったものは並大抵の衝撃では壊れないはずだ。
昔、師匠に「試しに壊してみろ」と言われて、あらゆる手段でアミュレットを破壊しようとして挫折済みだったリアは、真っ二つに割れている青い石を愕然と見詰めた。
精霊の加護が不十分だったのか、それとも呪いがアミュレットを破壊してしまったのか、原因は分からない。だがいずれにせよ、これではエドウィンを守れるほどの力は発揮できないだろう。
リアは逡巡の末、懐からナイフを引き抜く。左手の親指を薄く切っては、ぷつりと染みだした赤い雫をエドウィンの額に塗り付けた。
「──遍く命を巡る癒しの清流よ、かの人の苦しみを払いたまえ」
刹那、柱廊の床にうっすらと霧が立ち込める。
きらきらと光を放ちながらリアの方へ集まって来た冷気は、やがて彼女の血に誘われて急速に凝縮した。しかし、それと時を同じくして漆黒の影がエドウィンの全身を覆ってしまう。
「あ、待って……!!」
止まらない──リアは癒しの術を行使したまま、咄嗟に彼を抱き締めた。
黒い靄と青白い輝きが、エドウィンを奪い合うかのように包む。リアは髪を強風に煽られながらも、決してエドウィンを離すまいと背を丸めた。
だが彼女と精霊を嘲笑うかのように、影は獲物を丸呑みにしてしまった。
「エドウィン! ああ、駄目、待った、お願い、エドウィン……!」
リアは腕の中の漆黒がみるみる縮んでいくことを知りながら、何度も彼の名を呼び続けた。
せめて声だけは届くように、また元の姿に戻れるように。
やがて風が治まり、リアは恐る恐る片目を開く。
彼女の膝にくたりと横たわっている黒い獣。ゆらめく靄に指を沈めると、まるで風になびく薄い絹にでも触れているようだった。両手で慎重に持ち上げてみても、重さは殆ど感じない。
「エドウィン……?」
消え入るような声で呼びかける。
しかし反応はなく、リアがもう一度と口を開こうとしたとき、頭部についている長い耳がひくりと動く。
「エドウィン? 聞こえてるの? 聞こえてるなら、ええと……尻尾! 尻尾を動かして」
影の獣はリアの腕でもぞもぞと動いてから、垂れた尻尾を縦に動かした。それに併せて靄が舞ったところで、呆然としていたリアは笑顔を咲かせる。
以前は声もまともに届いていないようだったが、今回はリアの言葉がしっかりと認識できているようだ。変化の直前に精霊術を割り込ませたおかげだろうか。
「良かった。いやあんまり良くないけど、これですぐに戻ってくれれば……ちょっと待ってね」
草むらに落ちてしまった手拭いを拾う。途中、前のめりになると同時に胸元で獣がじたばたと動いたので、リアは慌てて腕に力を込めて押さえ込んでおいた。
何故か先程よりもぐったりしてしまった獣の全身を、広げた手拭いで覆ってみる。ふわふわと散っていた黒い靄が抑えられ、これで多少は周囲の目を誤魔化せそうだった。
「でもどうしよう。ずっとここにいるのは無理よね」
伯爵邸へ帰ろうにも、エドウィンの姿がないままでは馬車に乗れない。きっと馭者に怪しまれてしまうし、だからと言ってこうして大公宮の敷地内でずっと隠れているのも無理がある。
「絶対に見張りの兵士がいるし──」
「そこの女、何をしている」
「アーっ!?」
背後から低い声が掛けられ、リアは思わず悲鳴を上げて蹲った。
獣を隠したまま後ろを窺えば、そこに帯剣した厳つい騎士が立っている。胸元で黄金の徽章が沈みかけの西日に煌めき、そこにメイスフィールド大公国の紋章を見たリアはサッと青褪めた。
──もう同じ失敗は繰り返さないわ、この人はとても高貴な騎士よ。そして今私はその高貴な人にお尻を向けているわけで、あれ、もう失敗してないかしら。
リアの残念な有様を表すように、ちょうど教会の鐘が夕闇に低く鳴り響いた。




