3-5
リアが遠慮なく軽やかに呼び鈴を鳴らした後、女は全速力で身なりを整えて逃亡した。
置いて行かれた男が不完全燃焼と言わんばかりに襟元を正した頃、職員の女性がすっ飛んでくる。
しかしながら倒れてしまった梯子を直したのは、それまで憮然としていたはずの男だった。
「呼びつけて悪いな、俺の不注意で倒しちまった」
低く掠れ気味の声で謝った男の左目は、黒い眼帯に覆われている。がたいの大きさも相俟って、随分と厳つい印象を与える一方、浮かべる微笑には何とも言えない艶が滲む。
異性を捕らえて惑わす笑みに、梯子を直しに来たはずの職員はポッと頬を赤らめてしまっていた。
「い、いいえ、お怪我が無くて良かったです。お嬢様も大丈夫でしたか?」
「はい。大声で呼んですみません」
リアも素直に謝ったところで、女性は「どうぞごゆっくり」と礼をして立ち去る。最中、ちらちらと男を振り返りながら。
彼女の姿が見えなくなった頃、リアと男はじろりと横目に睨み合う。
「……お嬢さん、俺ぁ静かにしろって目配せしたつもりだったんだがな」
「そこの紐引いても良いよって言ってるのかと」
「んなわけあるか」
何故こちらが悪いかのような言い種をしているのか。分別もなく図書館の中でいちゃついている方が悪いに決まっているだろうに。
リアは盛大な溜息をつき、ふいと顔を背けて元の部屋へ向かう。
「おい、どこへ行く」
「調べ物」
無愛想に答えたリアは「付いてくるな」と暗に示したつもりだったが、男は構わず閲覧席までやって来ては、怪訝そうに眉を顰める。
「何だってこの国でそんなもん読んでやがる? 異教徒扱いされたいのか」
「え? あ、ちょっと返して!」
奪われたのはリアが先程まで読んでいた、宗教の変遷をまとめた本だ。慌てて手を伸ばすも軽々と避けられ、リアは飛び跳ねた拍子に男の胸に顔面を強打する。
何て硬さだ、胸に木板でも挟んでいるのかと彼女が涙目になっていると、くつくつと笑いを噛み殺した男が、その顎を指先で掬い上げた。
「もしかしてお前、異国の人間か?」
「だったら何よ、早くそれ返して。まだ途中なの」
「ふぅん……奇遇だな。俺もこの国の人間じゃないんだ。どこか当ててみな」
「当てたら返してくれるの?」
「ああ」
男は愉快げに頷き、リアの手が届かない位置でひらひらと本を振る。
幼い頃に師匠から同じことをされた経験があるリアは、些かカチンとしつつも男の顔をまじまじと凝視した。
野性味を帯びた切れ長の碧眼、健康的な小麦色の肌、少し日に焼けて痛んだ黒髪、身に纏う黒い軍服は恐らく──。
「……東の方ね。べドナーシュじゃないかしら」
「ほう? それはまた何故?」
「その刺繍、茶器に描かれてるのと同じだもの。べドナーシュの象徴的なお花じゃなかった?」
リアが指差したのは、男の腰に巻かれた一目で高価と分かるベルトだ。上着の長い裾にも同じ刺繍が施され、一見して地味な黒衣に確かな気品が添えられている。
そこまで指摘したところで、リアは前にもこんなことがあったようなと首を傾げる。
そしてまたもや自分は、既にとんでもないことをやらかしているのではないかと冷や汗をかく。
──この人、めちゃくちゃお金持ちなのでは?
サッと青褪めたリアに気付いたのか、男が意地の悪い顔で彼女の腰を引き寄せた。
「うえ!?」
「おっと、急にどうした。そんなに青くなって」
「ちょ、ちょっと放して、何か不味い気がする! しかも今回はエドウィンみたいに優しそうじゃないから余計に!」
「失礼な奴だな。俺は女に優しいと評判だぞ、ん?」
都会の悪い男はエドウィンではなくてこいつだ。そう直感したリアは慌てて離れようとするも、頑丈な腕はいくら押しても掴んでもビクともしない。
それどころか男は子猫でも相手にしているかのような余裕たっぷりな顔で、リアの長い黒髪をさらさらと指で梳く。
「俺の出身についてはご明察の通り、べドナーシュで正解だ。今度はお前のことを当ててやろうか」
「あ、結構です早く放し……」
「──エルヴァスティの精霊術師だろう、お前」
ぐいと引き寄せられた耳元、確信を孕んだ低い囁きにリアは硬直した。
「この随分と長い髪もそうだが……お嬢さんは人の域から片足分はみ出たような、独特な匂いがする」
「わ、私ちゃんと人間よ、失礼ね」
「そうかい。で、正解は? 合ってるだろう?」
彼はどうやら精霊術師に詳しいようだ。精霊への供物として、リアたちが髪を伸ばしていることを知っている。
だからと言って「はいそうです」と肯定すれば、何をされるか分からない。さっきの腹いせに魔女だ何だと騒ぎ立てられたら──その先に待つのは火刑だ。
焦るあまり沈黙してしまったリアを見下ろし、男はそっと背を屈めて囁く。
「心配せずとも、別にここで騒いだりしないさ。最近じゃ滅多にお目に掛かれない精霊術師様に、ちょいと興味があってね」
「興味……?」
「ああ。是非ともゆっくり話がした──」
鼻先が触れ合う距離にまで近付いていた男の顔が、急激に遠のく。
後ろから肩を抱き寄せられたリアは、目の前にある腕と腹部に添えられた手にすっぽりと捕らえられ、覚えのある柑橘の香りにハッとした。
「エドウィン」
天の助けだと喜んだのも束の間、振り返った先にあったのは穏やかな笑顔ではなく。
眉間に皺を寄せて男を睨み上げる美青年の姿だった。




