クピドの矢
クレーモラ侯爵家の一人娘イネスは大変に勤勉で人当たりがよく、次代の大巫女にと望む周囲の声は大きい。
しかしそこには無論、大巫女の座を長く独占しているフルメヴァーラ公爵家の力を弱めるためであったり、ユスティーナよりも物腰の柔らかいイネスならば御しやすいと踏んでの賛同だったりと、下心満載の輩も当然含まれている。
国の内外に対して強気な姿勢を崩さないユスティーナは、一部の貴族にとっては目の上の瘤。昨今、西方諸国との繋がりが復活の兆しを見せ始めているせいか、尚のことイネスをエルヴァスティ王国の顔として売ろうとする動きが目立っていた。
そんな泥臭く醜い派閥争いに娘を巻き込みたくないとして、クレーモラ侯爵は血眼になって結婚相手を探しているとか。しかし悲しいかな、そこに当人の意見は存在せず。
クルサード帝国へ遊びに──正確には養母を手伝いに──行って帰って来たリュリュは、面倒な経緯を窺わせる疲労感たっぷりの微笑を見上げ、そっと口を開いた。
「……ただいま、イネス」
「おかえりなさい。初めての帝国はどうだった?」
「たのしかった」
「ふふ、それは良かった。おいで、疲れたでしょう」
イネスが両手を控えめに広げる。同年代の少年少女と比べて一際小柄なリュリュを、親切にも彼女はいつも抱き上げて移動してくれるのだが、今日ばかりはその優しい申し出をやんわりと拒否した。
代わりに彼女と手を繋いでメリカント寺院の正殿へ入ると、貴族の男が二人の元へ尊大な振る舞いで歩み寄ってくる。
「イネス殿! 先日のお話、考えてくれましたかな」
「あ……レポラ卿、申し訳ありません。私はまだ結婚を考えていなくて……」
「おや、何故! 大巫女という重大な役目を継ぐお立場なればこそ、強力な後ろ盾が必要ではありませんか。それに我がレポラ公爵家は王家の親類に当たるのです、万に一つも不足はないでしょう。ぜひ私の息子を──」
リュリュは饒舌に語るこの男が、過去にユスティーナと度々衝突している姿を見たことがあった。大方、フルメヴァーラ公爵家を蹴落とす絶好の機会として、イネスを手中に収めたいのだろう。
何とも分かりやすいなと欠伸を噛み殺していれば、少年の存在に気付いた男が一瞬だけ眦を吊り上げた。そして、すぐさま侮りを宿した笑みを浮かべて言う。
「おやおや、リュカ殿。精霊術のお勉強は捗っていますかな? いや、ユスティーナ様も間がお悪い。次の大巫女はイネス殿だというのに、平民の養子など引き取ってしまわれて」
「レポラ卿、ユスティーナ様とリュリュへの侮辱はおやめください。私もまだ大巫女になると決まったわけではございません」
イネスが語気を強めて失言を咎める。びくりと肩を揺らした男はしかし、咳払いをするだけで謝罪はせず。
年下の娘に怒られる情けない中年を眺めること数秒、リュリュはそこでとあるお使いを思い出した。ポンチョの下にある肩掛け鞄を探りながら、不機嫌なイネスの手を引く。
「リュリュ?」
「イネス、皇太子さまがお手紙送ったって言ってたよ。読んだ?」
「え」
ピシッと硬直する彼女の様子を見るに、恐らく読んでいない。と言うより──手紙の存在に気付いてすらいなかったようだ。
「ど、どちらに送ったと仰ってたの? 寺院には来ていなかったわ」
「寮の自室に届けられてるんじゃない?」
「…………」
「帰ってない?」
「帰ってない……」
忙殺される日々ゆえの、ちょっとした行き違いがあったらしい。
イネスが青褪めていく傍ら、全く別の理由で青褪めている人物がもう一人。何が何だかといった様子で口を開こうとしたレポラ公爵を遮り、「それでね」と強めにリュリュは先手を打つ。
「今度は僕から渡してほしいって言われたから、持ってきたよ」
「アスランから!? 間違えた、サディアス殿下からのお手紙をっ?」
「うん。いろいろ馬車にも詰め込んでたから後で見に行ってね。はいお手紙」
「えっ、あ」
ガーランド皇室の印が刻まれた真紅の封蝋、それをしかと確認したイネスは恐る恐る手紙を開き、やがて大きく目を見開いてはどこかへ走り去ってしまった。
「イネス殿!? ちょ、お待ちを──」
「レポラ公爵」
あろうことか後を追いかけようとした公爵の裾を掴むと、険しい面がこちらを睨み下ろす。対するリュリュは凪いだ湖面のような瞳で男を見据え、小さな声で告げたのだった。
「ユスティーナ様とイネスを困らせるの、やめてね。僕が大巫女になったら、おじさんと仲良くできる自信ないから」
少年が静かな足取りで外へ行っても、男はその場から動けなかった。剥き出しの歯に怒りを滲ませながらも、彼の周囲に舞い降りた無数の精霊があらゆる動きを戒める。
耳朶をくすぐる人ならざるものの笑い声は、されど人の嘲笑とひどく似ていて。
彼らは段々と男の表情から憤怒を奪い、鮮明な恐怖へとすり替えていった。
風の精霊を駆使してイネスの後を追っていると、やがて寺院の中庭に辿り着いた。
きょろきょろと辺りを見回してみれば、植え込みの裏側に亜麻色の髪の乙女が屈んでいる。彼女らしからぬ体勢で手紙を見詰めているのが珍しく、リュリュは暫く様子を窺ってしまった。
「……イネス?」
ようやく声を掛けたのは、イネスの肩が微かに震えていることに気付いたときだった。
そうっと顔を覗き込んでみると、伏せた薄氷色の瞳からぽろぽろと涙があふれている。いつも優しく気品ある彼女の、これまた稀有な表情に驚いたリュリュは、小さな手のひらで雫を押さえた。
しかし文を読み終えるや否や、イネスはいよいよ手紙を顔に押し付けて蹲ってしまう。
「……リュリュ、私ね」
「うん」
「私、リュリュと同じくらいのときに、──とっても、大事な男の子がいてね」
嗚咽交じりの言葉はか細く、消え入りそうなほど小さい。
リュリュは耳を傾けつつ、彼女の隣に腰を下ろした。
「その子と久しぶりに会えたの。私のこと、怖くないって、魔女なんて思ってないって……言ってくれて嬉しかった」
でも、とイネスは深く息を吸う。引き攣った喉で何度か唾を飲み下し、再びまとまりのない言葉を紡ぐ。
「私たちが仲良くしてたのは、もうずっと昔だったから。ちゃんと、距離を開けなくちゃと思って。彼にとっても、あの謝罪でもう区切りが付いたんじゃないかって」
「……距離?」
「何でもないようなフリをしたのよ。何にも気にしていないような顔を」
そこで彼女が小さく息を噴き出した。
手紙を顔から離したイネスの表情は、涙に濡れながらも晴れやかで、隠し切れない嬉しさが滲んでいる。
「……っ駄目ね。まだ気にかけてくれてるって分かって、こんなに喜んじゃうなんて」
リュリュは目を真ん丸に開いたまま、少女のように可憐な笑みを凝視した。つい先程までの、疲労の溜まった笑みとはまるで違う。
それほどその手紙は──皇太子の言葉はイネスにとって活力になるものだったのだろうか。
忘れずに渡して良かったと安堵しながら、一呼吸置いたリュリュは肝心なことについて尋ねた。
「そっか。何て書いてたの?」
「え!? あ、ううん、それはその、内緒よ」
「?」
泣き顔から一転、頬から耳まで赤くしたイネスは、手紙をそそくさと折り畳んでは封筒に入れてしまう。
読ませてくれないのかと、リュリュは残念がる素振りを見せながらしれっと頭を働かせる。隠されると気になるのが人間の性、こうなったら二か月前に皇太子が出したと言う手紙を見てみるか。恐らくイネスの自室に届けられているはず──。
「リュリュ? 視線が合わないけど、何か悪いこと考えてない?」
「考えてない」
「…………あっ。私の自室に行く気でしょうっ! 悪戯は駄目ですからね。ほら、湯殿に行ってらっしゃい!」
その場でひょいと抱き上げられ、計画が早々に頓挫したことを悟ったリュリュは、大人しくイネスの肩にしがみつく。
──その後、イネスの婚約が公表されて国中が大騒ぎになるまで、長い時間は要さなかった。意図せず橋渡し役となっていた賢き少年は、しかし手紙の内容だけはいくら考えても推し測れず。
皇太子から直々に送られてきた謎の返礼品の数々を眺め、更に首を傾げることになったのだった。