16-2
無事に復帰を許された二人の護衛騎士を伴って、リアは上機嫌に皇宮の庭園へ出た。春の陽気に晒された色とりどりの花をすり抜ければ、エドウィンとの待ち合わせ場所である南門が見えてくる。
歪みのない半円のアーチをくぐりながら、以前ここで嫉妬を拗らせたことを思い出す。あのときは階段を下りたところにエドウィンがいて、リアが駆け寄るよりも先に、彼の元へ勢いよく令嬢たちが押し寄せたのだった。
苦く恥ずかしい記憶を頭の隅に押しやりつつ、恐る恐る長い階段を覗き込んでみると──。
「エドウィン様は!?」
「確かこちらに向かわれたはずですのに」
「情報は確かですの!? まさか誰か抜け駆けを……!」
侍従に日傘を持たせた令嬢たちが、そこで落ち着きなく歩き回っていた。あっちこっちへちょこまか動くものだから、侍従がそろそろ目を回すのではないだろうかと心配してしまう。
それはそうとして、彼女らはまたエドウィンの後を追いかけてきたらしい。これでは歓楽街へ下りるのも一苦労だと心配する一方で、そもそも肝心の彼が見当たらないのはどういうことだろう。
試しに辺りを見渡し、滑らかに横へ移動させた視線を途中で引き戻す。
リアの注意を惹いたのは捜し人ではなく、遠目に見て分かるほど華やかなドレスを身に纏った貴婦人だ。二階の柱廊をしずしずと、されど堂々と進む彼女の後ろには、数人の侍女が影のようにして付き従う。
さて、どこか見覚えがあるなとリアが目を凝らしたのも束の間、貴婦人の向かいからもう一人見知った男が現れた。
「あ、トラヴィスさんだわ」
メイスフィールド大公国から寄越された援軍の指揮を任されていたそうで、数日前に言葉を交わしたのがリアにとっては半年ぶりの再会だった。聞けばキーシンの急襲を鎮圧できたのは、彼自身の類稀なる剣術と采配があったから──らしい。
少し気怠そうな面差しとは裏腹に、いや、エドウィンも優男のような顔をして剣を振るえば鬼のごとし、中身と見た目は全く関係ないのだろう。
一人納得して頷いていたリアは、そこでぎょっと口を開ける。気付かぬうちにトラヴィスが件の貴婦人の手を取り、恭しく口付けたのち、軽薄さを滲ませた笑みで何やら話しかけた。
対する貴婦人は少々気分を害したような、恥ずかしげな顔でそっぽを向いてしまう。ちょうど、こちらからはっきりと顔立ちが認識できた。
「わ……あの人とっても可愛い……」
「……アナスタシア皇女殿下でございますよ」
「え!? スターシェス様のお姫様スタイルですかぁ!? じゃなくて」
護衛騎士から教えてもらった貴婦人の正体に、ついスターシェス親衛隊のような反応をしてしまったリアは、慌てて大袈裟に咳払いをして発言を取り消す。
そうして拳を唇に押し当てたまま、じっと二人の様子を観察しては唸った。
「もしかして想い人って……」
アナスタシアが惚れ薬を飲ませてまで振り向かせたいと願った相手。その答えが今になって明かされようかという瞬間、リアの背中に何か軽くフワフワとしたものが飛び乗った。
「ん?」
この魅惑の感触はもしやと上体を捻れば、美しい七彩の光を溢れさせるロケットが眼前に現れる。
案の定、ウサギのような姿をした小さな影獣──エドウィンがそこにちょこんと乗っかっていた。
「エドウィン! どうしてその姿……」
ロケットを前脚に触れさせてやろうとすると、慌てた様子で影獣がリアの手を押さえる。ふにふにと手の甲に肉球とおぼしきものが触れるたび、リアの頬は大幅に弛み、ニヤつくままにエドウィンをとっ捕まえて抱き締めてしまった。
「かわいぃ……ちょっと触らせて」
びくっと尻尾を強張らせた影獣は、しかし彼女の腕から無理やり逃げ出そうとはせず。
絹のような軽やかな手触りを思う存分堪能したところで、エドウィンは脚や頭を振って、階段下へ行くよう身振りで伝えてきた。これまたぬいぐるみが動いているような可愛い光景を、リアはしばし相槌も忘れて眺め。
「あ、分かった! 令嬢たちに見付からないようにしてるのね? あの馬車まで行けば良いかしら?」
こくこくと頷いたエドウィンを抱きかかえ、リアは階段下に留まっている栗皮色の馬車へ向かった。それは皇宮で使われている馬車の中でも比較的地味で──無論リアにとってはどれも豪華に見えるが──きっと、エドウィンがあまり人目を惹かないものを選んでくれたのだろう。
令嬢たちはよもや目当ての貴公子がぬいぐるみよろしく乙女に抱えられているなど知る由もなく、上機嫌に傍を通り抜けていくリアには目もくれなかった。
いそいそと馬車に乗り込み、余裕をもって影獣を座席に置く。扉と、念のため裾の短いカーテンも閉めたところで、眩い光が四角い密室に充満した。やがて光は人影を成し、瞬く間に弾けては明度を下げる。
ゆっくりと瞼を開いたエドウィンは、短く切り整えた藍白の髪を軽く振って、ようやく安堵の息をついた。
「すみません、合流もまともに出来ないとは……リア?」
隣に腰掛けたリアは、様変わりした彼の居姿を呆けた顔でまじまじと眺めてしまっていた。
目に見える変化は髪の長さだけだというのに、たったそれだけでエドウィンの女性的な印象がグッと抑えられたような。端的に言えば以前よりも凛々しさが増し、穏やかな笑みに垣間見える知らない一面に触れるたび、今日も飽きずに胸が高鳴った。
「最初は思わず悲鳴上げちゃったけど、その髪型も素敵だなって思って」
他に誰もいないと分かりながら、それでも恥ずかしくてリアは小声で告げた。
すぐに誤魔化すようにはにかんだのも束の間、温もりを伴った柑橘の香りが鼻腔を掠める。そのまま大きな手に背中を抱き寄せられ、火照った頬には唇が押し付けられた。
数日前、自身の唇に甘く重ねられたその感触に、リアは必要以上に驚いてしまう。
「やっぱり──可愛いのはあなたですよ」
困ったような声で耳孔を擽られれば、ぞわりと背筋が痺れた。
縮こまるリアを抱きすくめて、髪や鼻先にもキスを落としたエドウィンは、とっておきの果実を食すように唇を啄む。
薄い皮膚が離れるや否や、されるがままだったリアは途端に両手で顔を覆った。
「ほあぁ!! ままま待った待った急に来るとビックリするから!」
「ん? 事前にお伝えした方が良いですか?」
「う──今からしますって言われるの!? それも恥ずかしい!」
「では僕のタイミングで」
如何せん色気のない反応で雰囲気をぶち壊してしまうリアを、エドウィンはくすくすと笑って宥めた。然して気にした様子もなく、寧ろ元気な彼女を見て満足したような顔で居住まいを正す。
それから間もなく馬車が走り出したところで、リアは頬の熱を拭い落とすついでに掛け鞄の蓋を開いた。
「あ……そうだエドウィン。イネスとアハトのお土産って言ったんだけど、もう一個探したいものがあって」
「何でしょう?」
「これを入れられそうな、小さな箱を買いたいの」
麻袋から取り出したのは、シンプルな銀の指輪──ダグラスの遺品だった。
恐らくは、亡き母ヘルガと揃いの結婚指輪だろう。ひとつも錆びていないところから見るに、毎日手入れをしていたに違いない。大事なものだったであろう指輪を入れるのに、素っ気ない麻袋では穴が開いたり破れたりと不安が尽きないし、何より粗末な保管はしたくなかった。
ちらりとエドウィンを窺ってみれば、環を見詰めていた菫色の瞳が寄越され、優しく微笑んでくれる。
「分かりました、先にそちらを探しましょうか。他には?」
「え、他?」
「せっかくリアと街を歩けるのに、お土産と小箱とだけではすぐに済んでしまいますから」
彼がそっと顔を覗き込んで囁く。
知らぬ間に掬われていた手を握り、ならばとリアはおずおず口を開いた。
「……じゃあ一緒にお茶を選びたいわ。いつも私の好みで飲ませてたから、今度はエドウィンの好きなやつね」
「僕の? それは楽しみですね」
「ふふ、あとジェムストーンも買わなきゃ。お師匠様に便利な術を教えてもらったのよ。後で見せてあげるわ」
「ええ、ぜひ」
相変わらずの丁寧な相槌に気をよくしたリアはご機嫌のまま、自らエドウィンの肩に手を回して抱きつく。
「今日はこれぐらい。残りは明日に取っておく」
「明日?」
エドウィンが穏やかな声で問う。両腕が背中に回され、しっかりと抱き寄せられれば、互いの鼓動が全身に伝わった。
「やりたいことは沢山あるけど、一気に駆け足で片付けるんじゃなくて……す、好きな人とゆっくり話しながらが良いから」
「……ここは自惚れても?」
小刻みに頷いた直後、がたんと馬車が揺れる。
石でも踏んだのかと驚く暇もなく、リアの体が後ろへ傾いていく。エドウィンにしがみついたまま座席に雪崩れ込んでしまえば、彼女の頭を守るようにして手を差し込んだ彼が、「まずい」と言わんばかりに頬を引き攣らせた。
そこから光の速さで馬車のカーテンを開き、何故かついでに自身の頬を叩いた彼は、呆けているリアをあくまで紳士的に抱き起こして微笑む。
「大丈夫でしたか?」
「それ私の台詞じゃない?」
一体何のための自傷だったのか到底理解できず、リアは彼の赤くなった左頬を控えめに摩る。
一方のエドウィンはその手を握ると、外の流れる景色を眺めて心を落ち着かせていた。
「早めにヨアキム殿の許しを得よう……」
決意を秘めた切実な呟きは上手く聞き取れなかったが、リアは気にせず肩に寄り掛かったのだった。
これから先、彼と共に歩んでいく未来に、胸を膨らませて。