12-8
己が精霊の愛し子であることを、片時も忘れたことなどない。
愛し子はエルヴァスティで育つ弑神の霊木がなければ、長く生きていくことが極めて難しい。国外で生き永らえることはまず無理だと思え、というのはヨアキムの言葉だ。
ゆえに師匠は二年間の修行に強く反対した。リアの場合、恐れるべきは賊ではなく精霊だからと。
そして──もしも国外で大切な者と会ってしまったのなら、必ず苦しい思いをするだろうから。
「皇女様や、あの女の人たちなら、エドウィンの隣にいられるんだろうなって……」
嫉妬、いや羨望だろうか。エドウィンを含めた、精霊と無縁な生活を送る人々を羨む気持ちが、リアの胸に充満して破裂しそうだった。
今まではそんな子どもみたいな聞き分けのない感情、簡単に見て見ぬ振りができたと言うのに。自分の体質なのだからと割り切って人と接していたのに──否。
「ずっと羨ましかったのかな。皆は私より長生き出来るんでしょって、嫌なこと考えながら笑ってたのかもしれない」
他者にはいつも前向きな言葉を掛ける反面、それが実は卑屈な心から生まれるものだったなら、もう皆に顔を合わせたくないとリアは自己嫌悪に陥る。
あちらこちらで噴出する様々な感情に耐え兼ね、意図せず零れ落ちていく涙を乱雑に拭えば、その手をやんわりと掴まれた。
「リア、おやめなさいな。お前をそんな性悪に育てた覚えはない」
「だって、羨ましいのは本当です……! ある日突然消えちゃうような奴から、一緒にいたいなんて言われても困るし、後味が悪いだけだもの!」
一息に言ってしまえば、それまで以上の大粒な涙が頬を転がり落ちた。
少し前から頻繁に、エドウィンの姿が脳裏を過るのだ。その隣で微笑むのは当然自分ではなく、彼を生涯支えることの出来る女性で。
仕方ない、そもそも身分からして当たり前のことではないかと笑い飛ばしても、この虚しさは──悔しさは拭えなかった。
「……リア、よくお聞き。愛し子は確かに不自由だ。他の人間と比べて短命なのも間違いない。だが──だからこそ、誰かと生きるべきだと私は思うよ。正確には誰かのために、かね」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げれば、微笑を浮かべた大巫女に迎えられた。
「約束があれば守ろうと思えるだろう? 大切な人間を悲しませないために、どんな手を使ってでも生きようと思うだろう。愛し子に必要なのは、そんな泥臭い生への執着さ」
「執着……」
「どうせ死ぬからと、今あるものを手放すなど愚かしいと思わんか。……お前を今まで必死に生かしてきた、ヨアキムのことも考えておやり。あやつだって、お前が国外で暮らしたいと言ったらあらゆる方法を考えるさ。勿論この私も」
──ゼルフォード卿も。
何故エドウィンが、という疑問が表れていたのか、ユスティーナは肩を竦める。
そして幼子にするような手つきで頭を撫でては、ほつれた三つ編みのリボンをほどく。
「自分の気持ちなど言うだけタダさ。伝えぬまま卿から離れることなど、もう出来そうにもないくせに」
「うっ……そ、そんなことは」
「女子に囲まれておる卿を見て、泣くほど悔しかったのだろう? ん?」
今度は恥ずかしさで涙が出てきたリアは黙り込み、ユスティーナの手が黒髪を編み直していく様を見詰めることしか出来なかった。
「お前が……望みを秘めたまま生涯を終えたとして。愛し子だから叶わなかった、などと無様な言い訳はしたくなかろう」
蝶々結びにしたリボンから、指先が離れる。
赤く腫れた瞼を手のひらで押さえたリアは、未だに震えている息をゆっくりと吐きだした。
「それと少しは卿のことを信じてみなさい。お前が愛し子であることなど、とっくに承知しているはず。今も繋がりを断たずにいる意味ぐらい汲んでおやり」
見ない振りは今日で終わり。
絹をそっと被せるような、ユスティーナの優しい言葉にリアは頷く。
自覚した想いが何であれ、それを無視して進めば心は軋むばかりだ。まだ伝える勇気などは到底持てそうにないが──もう少し前向きになった方が良いのだろう。
もはや愛し子という希薄な存在を受け入れてくれるかどうか、なんて段階ではなかった。穏やかな菫色の瞳が、名を呼ぶ優しい声が、文に残る香りが、リアを惹き付けて止まなかった。
──私は、エドウィンのことが……。
「失礼いたします、ユスティーナ様。リアがそちらにいると伺ったのですが」
「びゃああああッ!?」
「あ」
扉のノックと共に聞こえたエドウィンの声に、驚いたリアは思い切り奇声を上げてしまった。慌ただしく部屋の奥へ後ずされば、それまで優しげだったユスティーナの顔も呆れたものに変わる。
「これ、リア。今の話をもう忘れたか」
「わわわ忘れてませんけど寧ろもっと無理になった気がします……!?」
「残念だがそろそろ会議の時間でな。居座られると困る」
「うう……やっぱり厳しい大巫女様……」
しばらくリアはうじうじとしていたのだが、見兼ねた大巫女の手によって呆気なく部屋の外へ摘まみ出されたのだった。