9.練習相手を務める侍女
ルーカスは一度寝込んでしまうと、大抵は数日、長ければ一週間はベッドの上の住人と化してしまう。だが、今回は一日寝ていただけで、翌朝には自分でも驚く程、体調が回復していた。
「もう熱は下がったようですね。食欲はお有りですか?」
「ああ。腹は減っている」
「それは良い事です。すぐに朝食をご用意致します」
ルナが準備してくれた朝食を、ルーカスは全て平らげた。
「殿下は以前よりも体力が付かれたようですね。しっかりとお食事を召し上がり、真面目に訓練をされるようになった賜物でしょう」
「そう……かも知れないな」
後片付けをするルナを見遣りながら、ルーカスは曖昧に頷いた。
言われてみれば、思い当たる節はある。ブライアンの訓練に、以前よりは付いていけるようになってきたし、訓練の後は空腹を感じて、出された食事は全て平らげるようになった。細くてひょろひょろだった身体は、まだ細いながらも、少しは筋肉が付いてきた気がする。だから今回は一日寝込むだけで、回復できたのかも知れない。
「ですが、大事を取って、今日一日は無理をしないようにしてくださいませ」
「……ああ」
自分を気遣ってくれるルナの視線が何だかくすぐったく感じられて、ルーカスは目を逸らしながら返事をした。
その日一日はゆっくりと過ごしたルーカスは、翌日からは元のスケジュールに戻った。今日は午前の授業の後、午後からダンスのレッスンである。だが残念ながら、ルーカスはダンスも得意とは言えない。
「はい、ここでターンを……ッ!」
ハンナ・カーティス講師の指示にもたついたルーカスは、誤ってハンナの足を踏んでしまい、二人は縺れて転んでしまった。
「わ、悪い。大丈夫か?」
「は、はい。問題はございませんわ」
ルーカスは偶にやらかしてしまうので、ハンナも注意はしていたものの、今回は間が悪かった。方向転換をしようとした足首に無理な力が加わって痛めてしまったようで、ハンナは取り繕うように笑みを浮かべてはいるものの、足首を押さえて蹲ったままで、すぐには立ち上がれそうにない。
「すぐに先生を呼んで参ります」
ルナが連れて来たジェイソン医師は、素早くハンナを手当てした。軽い捻挫で、多少痛みはあるだろうが、数日安静にすれば問題ないだろうとの事で、ルーカスは胸を撫で下ろす。
「ですが、これでは今日のレッスンは続けられそうにありま……」
申し訳なさそうに椅子に座って、ルーカスを見上げるハンナの言葉が止まり、ルーカスは訝しげにハンナを見る。ハンナの視線が自分の後ろに向いているような気がして、振り返ると、そこには背後に控えるルナの姿があった。
「そうだわ! ルナさん、殿下のパートナーを務めてくださらないかしら!?」
「私ですか? 別に構いませんが……」
(何故こうなった)
部屋の真ん中で、ルナと向かい合ってホールドしながら、ルーカスは遠い目にならざるを得なかった。
いや、全ては自分の過失が引き起こした事態ではあるのだが。
「はい、では始めましょう!」
ハンナの手拍子でステップを踏み始めたルーカスは、すぐにいつもと違う事に気付いた。ルナが相手だと、とても踊りやすいのだ。ステップのタイミングが同じだし、ターンも何故かリードしやすい。
「良いですよ、お二人共! その調子!」
滅多に聞く事のないハンナの褒め言葉を聞きながら、ルーカスはちらりとルナを見遣る。初めて至近距離で見るルナは、相変わらず無表情だ。だが、意外と睫毛が長かったり、肌が滑らかで触り心地が良さそうだったり、唇が瑞々しくて柔らかそうだったりと、今まで気付いていなかった事に気付いて、ルーカスは慌てて視線を逸らした。
(な、何なんだよこれ!)
何だか身体が熱くなり、胸の奥がざわめいてくる。白くて滑らかな手や、身体の柔らかい感触にまで何故か意識が及んでしてしまって、ルーカスは大いに戸惑った。いつもと違う相手で緊張しているからだ、と自分に言い聞かせながら、ルーカスは何とか踊り終えた。
「素晴らしかったですわ! お二人共、とてもお上手でしたわよ!」
絶賛するハンナに、ルーカスはそっと溜息をつく。褒められた故の安堵か、至近距離のルナという緊張から解放された故なのか、ルーカスには分からなかった。
「私よりも、ルナさんがお相手の方が、ルーカス殿下は踊りやすいようですね?」
「なっ!? そ、そんな事は……!」
ルナの方が踊りやすかったのは確かだが、こんな妙な緊張感はもう御免だ。そう思ったのに、ハンナは見逃してはくれなかった。
「殿下と私では、身長差がありますし、ルナさんの方が、背丈が近い分、踊りやすかったのでしょう。今度から、殿下のレッスンのお相手はルナさんにお願いしますわ!」
「ええ!?」
嬉々として宣言したハンナに、ルーカスは愕然とする。
確かにハンナが指摘する通り、同年代の少年達と比べても身長が低いルーカスは、比較的背が高い成人女性であるハンナがパートナーだと、どうしても身長差があってやりにくい。だがルナがパートナーだと、身長はほぼ同じになるのだ。
とは言え、ルーカスの方が背が低い事に変わりはない。その事実にルーカスは更に項垂れる。
「それではもう一度、最初から踊ってみましょうか!」
ルーカスに良いパートナーを見付けられて上機嫌なハンナとは対照的に、ルーカスは苦虫を噛み潰したような顔で、盛大に溜息を吐き出した。
その日のレッスンは、いつもよりも踊りやすかった割には、酷く疲れたように思えた。妙に緊張して異様に心臓に負担が掛かっていたような気がするが、病み上がりだからだ、とルーカスは自分を納得させるのだった。