65 うたた寝の間に 2 天使のような婚約者
部屋の奥にあるグランドピアノに目を向ければ、穏やかな笑顔で熱心にピアノを弾いているセレスティーヌがいた。
俺はその瞬間、棒立ちになってしまった。
天使か。女神か。精霊か・・・窓から入る柔らかな光の中で、セレスティーヌは胸に染み入るほどに美しかった。
しかも、彼女の弾いている曲の美しいこと。
聞いたことのない曲だったが、優しく甘い旋律が、俺の心を動かした。すぐにでも駆け寄って抱きしめて、思い切り愛してると伝えたいくらい。
「まぁ、ルイ! こんなところで、どうなさったの?」
音楽が不意に止まって、恥ずかしがるようなセレスティーヌの声がした。咎めるようでいて、俺を拒否するそぶりはない。彼女はいつもそうやって・・・そうか。俺は、素直になれなかった間、ずっとそれに甘えていたことに気がついた。
手遅れになる前でよかった。
俺は思いながら、足を踏み出した。
「あぁ、・・・シドニーに、セーレは音楽室にいると聞いたものだから・・・」
「違うわ、ルイ。今日は朝までお仕事だったのでしょう? 疲れているのではなくて? 眠らなくても大丈夫なの?」
セレスティーヌの気遣いに、俺は思わず本音が出た。
「セーレの顔を見たら、疲れも吹っ飛んだよ」
「まぁ・・・お仕事、大変だったの? 何かありまして?」
セレスティーヌは心配そうに顔を曇らせた。
俺は、おそらく安心したのだろう、急に疲れを感じながら、近くのソファに腰掛けた。いつもは、使う予定のない場合、椅子は端にまとめて置かれ、ソファもカバーをかけられている。椅子は片付けられたままだが、ソファのカバーがないのは、セレスティーヌが練習で連日使っているからだろう。
「いや・・・うーん、どうかな・・・夜中に事故があって・・・その処理に追われていたからかもしれない。セーレに会うのを、午後まで待てなかったんだ」
楽譜に手を伸ばしたセレスティーヌは、目をパチクリとさせて俺を見た。
「本当に大変だったのね。最近はそんなことなかったでしょう?」
「いいや? いつもセーレには会いたいと思ってるよ。ただ、会えないだけで」
「そ・・・そうなの・・・」
だめだ。急に眠気が襲ってきた。目がくっつきそうだ。
俺は眉間を指で押さえながら続けた。
「さっきの曲、初めて聞いたけど、誰の作曲? 最近の?」
「どう思いまして?」
「素晴らしかった・・・旋律が甘すぎるような気もするけど、そんなこと気にならないくらい、いい構成の曲だった・・・と思う」
一度言葉を区切って、うっかりガクリとなりそうな頭を上げた。
「・・・セーレが弾いているから・・・採点が甘くなってるのかもしれないが・・・」
「私が弾いていると、どうして甘くなるの? そんなに下手かしら」
「違うよ、何言ってるんだ」
俺は呆れながら目を瞑った。先ほどの音が耳に蘇る。セレスティーヌの残像とともに。
「うん・・・セーレは上手いし・・・俺はセーレの音が好きだから・・・なんでも素晴らしく聞こえるのかもしれない、と思っただけだ」
「まぁ・・・」
セレスティーヌが呆れて絶句している。眠くて目を開けられず、彼女の顔が見れないけれど、半分眠ったような俺を、仕方ないなと思って見ているに違いない。
でも、全部本当のことだ。セレスティーヌの奏でる音楽は、いつだって俺の一番だ。いや、音楽だけでなくて、何もかも、セレスティーヌの全てだけれど。
「ルイ、眠ってるの?」
セレスティーヌの声が遠く聞こえた。
「いや、起きてるよ」
「それじゃ、聞いてもいい? ルイ、まだピアノは弾ける?」
どうだろう。俺は考えながら、うとうとしてまた頭を支えた。
「弾けるけど、セーレレベルには到底弾けないよ。今は弾きやすいのはバイオリンだな。持ち運びも出来るし、詰め所でも時々弾いてるから」
「そうなの。それじゃ、バイオリンの方が弾けるのね」
セーレの気軽な口調に、俺は心の中で文句をつけた。
だって、セーレがそうしようって言ったんじゃないか。結婚したら合奏をしようねっていうから、一通り楽器は弾けるようにならなきゃと思って。ピアノじゃ限りがあるだろ? でもセーレはピアノ以外は弾けないし。それで、セーレが言ったんだ、俺が弾くバイオリンの音がいっとう好きだって。だからバイオリンに絞ったんだ。なんで覚えてないんだ。
「何でって・・・だってもう十年も前の話でしょう。そんなこと忘れ・・・え・・・私のため・・・だったの? あの、あれ・・・全部? だって、ルイは何だって弾けるじゃない。楽器を弾くのは趣味だったんじゃなくて?」
趣味? 俺の趣味はセーレだけど。そんなことより、今の、誰の曲?
「え? 趣味? 冗談? ルイ、寝ないで! あの・・・私が作ったの」
セーレが? 作ったの? だからか。そんなの、最高に素晴らしいに決まってるな。
「えぇっと、ありがとう。その、明日、弾こうと思って・・・その前に、ルイに聞いてもらって、弾いていいか判断しようと思って。どう? 明日、弾いても大丈夫かしら?」
明日か。明日、これを弾くのか。いいな、俺も聞きに行けたらいいのに。
「じゃ、これを弾いても大丈夫なのね? ジネットお姉様には、甘すぎるって、すごくからかわれてしまったから、自信をなくしていたのだけど」
題名は何?
「題名はまだ決めていないの。でも、・・・何か、素敵な題名はない?」
天使・・・
俺はさっき弾いていたセレスティーヌを思い出していた。
俺の愛する天使。




