【閑話】婚約より前の日の話
親同士の口約束から正式婚約を申し込むに至るまでの、ルイ視点。
ずっと別の男のためだと思っていた。
だってセレスティーヌはいつだって俺にがっかりしていたから。
そしていつも、いつでもセレスティーヌは可愛らしく、綺麗だったから。
親の戯れのような口約束でかりそめの婚約が決まった後。俺は自分から申し込むことができなかったことにがっかりして、セレスティーヌに思ってもいないことを言ってしまった。
『お前なんて絶対やだからな。婚約破棄してやるんだからな』
バカみたいなプライドだ。自分の気持ちがあったからこそ、親同士が約束してくれたというのに。そんなこともわからなかった。
仮婚約が決まったのは、俺が十歳、セレスティーヌが六歳。仕事を通じて懇意にするようになった父は、この頃頻繁に公爵家に出入りしていた。
当初、八歳だったセレスティーヌの姉、ジネットと俺が仲良くなればいいと軽く思っていたようだったが(公爵が)、俺とジネットはどうにも相性が悪く、お互いに仕方なく相手している状態だった。しかし、セレスティーヌは違った。
当時、弟が出来たばかりで甘える人がいなかったセレスティーヌは、甘える人を欲していたが、兄や姉はそれぞれに課せられたことも多く、セレスティーヌを可愛がりこそすれ、甘えさせてあげることができなかった。
その点、俺はしがらみの少ない子爵家、外部の人間、訪問しているだけで暇、とくれば、逆にセレスティーヌの相手をしてあげることで、公爵家の子供達にはとても助かることだったに違いない。俺だって全力で信頼して甘えてくるセレスティーヌが可愛くて仕方がなかった。
セレスティーヌは俺に甘えるだけで、せっかく覚えた令嬢としての礼儀も、俺の前では守ろうともしなかったため、乳母たちが苦言を呈したが、俺は気にするなと伝え、可愛がった。そして幼児から少女になる頃、俺たちは仮婚約をした。その後、俺は張り切って、セレスティーヌの家の格に見合うように、勉学と剣術に励んだ。その間、忙しくて、セレスティーヌに会う時間が減っていた。
彼女は彼女で、家庭教師による厳しい本格的な淑女教育を受け始めたこともあり、手紙をやりとりする程度になっていた。婚約と言ってもまだ幼い二人、一言だったり絵だったり、文面もただの近況報告だ。俺はそんなに筆まめな方でもないし、文才もない。あの間、セレスティーヌが俺の手紙を待ちわびていたとは到底思えない。俺は待ちわびていたけれど。そして、しっかりと礼儀正しい文章を書いてくるようになったセレスティーヌが頼もしいような寂しいような、そんな気持ちになったのだ。
だから久しぶりに会った時、あまりの変わりように俺は度肝を抜かれた。
八歳のセレスティーヌ。
たった二年だ。幼い淑女の佇まいはまるで妖精のようで、息が止まるほど可愛らしかった。セレスティーヌと決めてはいたけれど、それ以上に心が震えた。つまり、俺は二度目の恋をしたのだ。同じ人物に。
だけれど、思いを告白する必要もない。手に入れる努力もない。なぜなら婚約していて、彼女は俺のものだからだ。そして、身分の差を認めさせる努力はできていた。このままでいい。
だが、これ以上何をすればいい? セレスティーヌに好かれるためにどうすればいい?
俺は迷走していたのだ。
実際は、ただ好きだと言えばよかったと、とても綺麗になったと素直に言えばよかった。でも、俺はすっかり、二度目の恋に焦燥していた。できることがない。障害もない。でも、手応えもない。セレスティーヌはいつもと同じで、むしろ、礼儀作法を身につけて他人行儀になっていたからだ。
好きと言ったところで何の意味が? 婚約してるのだから意味がないだろう。
婚約してなどいなければ。
こじらせていた俺はセレスティーヌに言ってしまったのだった。
『それなら、ルイのお父上に言ってくださいな。私に言っても仕方ないことよ。決めるのはお父様方ですもの』
反応は、あきれ返った無慈悲な言葉。セレスティーヌは正しい。俺はひどいことを言った。取り返しがつかない。
だが、婚約解消はされなかった。
親は知らず、何事もなかったように、セレスティーヌとの婚約は続いた。
何でだろう?
俺なんかと、なんで?
その後、久しぶりに会った時、セレスティーヌは俺に会うなりドヤ顔で言った。
「どう? このドレス?」
淡い黄色が重なるスカートには立体的に作られた白と緑の刺繍の花がランダムに散らばり、胸元にはその花が交互に並んでセレスティーヌの愛らしさを際立たせていた。俺は言葉を失った。なんて可愛いいんだろう。目のグリーンに合わせた花の色がセレスティーヌの瞳から溢れた涙のように儚げだった。
「・・・ルイ、ダメなところがあれば言って」
がっかりした口調で、セレスティーヌが言った。
ダメなところ? セレスティーヌにあるはずがない。
でも俺が注文するなら、花は少なめでランダムじゃなくて川の流れのように動きをつける。黄色の重なりに七色のオーガンジーを混ぜれば、セレスティーヌの妖精のような繊細さが際立つ。その方がきっとセレスティーヌをもっと綺麗に見せることができる。
その時のことを俺はよく覚えていない。請われるまま、褒める間もなく思ったことを言った気がする。セレスティーヌはじっくり考えた後、にっこりと優雅に微笑み、言ったのだった。
「次は負けないわ」
何のことだ? 俺は思ったが、その後の手紙で判明した。セレスティーヌは、前回のことを覚えていて、俺がセレスティーヌを綺麗だと言わせるとしたためていたのだ。
俺がセレスティーヌを綺麗だと言うまで。
綺麗だと言ってしまったら。
そこできっと、婚約は解消されてしまうのだろう。
だとしたら、俺は言うわけにはいかなかった。絶対に。
セレスティーヌは日ごとに綺麗になっていく。
十歳になると、お茶会に顔を出すようになっていった。
十五になっていた俺は、双方の親に言われ、慣例からセレスティーヌがいくお茶会には必ず出席した。
エスコートして、他の令嬢や子息と交流する。
この頃には何を話していいかわからなくなっていた俺は、エスコートのために腕を出せば素直に組んでくれ、帰ろうかといえば抵抗することもなく従い、だが決して自分から話しかけてこないし、俺のそばに寄ろうともしない、セレスティーヌが何を考えているかすらわからなかった。
そして勝負は続く。
趣向を凝らしたそのとき最高の装いで俺の心を鷲掴みにして離さず、なのにこれで最後だと褒め言葉を強要する。俺が言わず、ダメ出しをすると、悔しそうな顔で去っていく。
何でだろう。
何でこんなにも、俺と勝負したがるのだろう。
嫌なら向こうから解消すればいい。
俺からは絶対にしないけど。
俺はその間、公爵家の娘の婚約者としてふさわしくなれるよう、脇目も振らず努力していた。
学問に剣術に社交に政治。
できることを全て、人よりも高いレベルを維持する。
そうでないなら、俺はセレスティーヌを手に入れる資格などない。
セレスティーヌの気持ちは俺になどないのだから。
政略結婚でもないのに、俺だけが好きな相手と結婚できるなんてかわいそうだ。
俺はだから、せめても、セレスティーヌが自慢できるような人間にならなければならなかった。
十八歳になり、俺は男性貴族らしく社交界にデビューした。
絶対に失敗できなかった。
すべての人に好かれなくてもいいが、権力者の不興を買うことだけは避けなければ。
俺はここでもセレスティーヌの影響力を知った。
ヴァレリー公爵の娘と婚約していることが、こんなに社交界で優遇されることになるとは。
俺は罪悪感に苛まれるようになった。
わかってたんだ。
彼女に何のメリットもない。
だからこそ、俺は完璧にならなければならなかった。
俺にとって、この中の誰よりも可愛くて美しくて綺麗なセレスティーヌ。
面と向かって褒めることができないのなら、ここで言うしかないと、俺はセレスティーヌのいない舞踏会やお茶会で、虫除けのようにセレスティーヌを褒め、忠誠を誓った。そのおかげで、男性からは評判は上々だ。
だが、当然のことながら、セレスティーヌを前にすると何も言えなかった。
人目があればそれなりに対応できるが、二人きりだと緊張してしまって言葉が出てこない。
セレスティーヌは話しかけてくれるが、俺は生返事しかできなかった。
だってセレスティーヌの可愛いことと言ったら。
何で俺なんかとまだ婚約しているんだろう?
王族にだって何の躊躇もなく嫁ぐことのできるセレスティーヌが、子爵の嫡男でしかない俺と。
そのうちに、いろいろ考えた末、セレスティーヌは誰かの気を引きたいんじゃないかと思うようになった。
俺以外の誰か。
婚約者がいるという障害があると燃え上がるのかもしれない。
そんな駆け引きがあると聞いたことがある。
そこで納得した。そういう『当て馬』として俺は選ばれたのだと。
そして、セレスティーヌの社交界デビューを一年後に控えようという頃、俺はどうにも我慢がならなくなってきた。
セレスティーヌは淑女らしく輝いていた。誰とでも明るく朗らかに会話ができ、躾も礼儀も完璧、歴史や政治への知識も豊富だ。デビューしてしまえば、みんなの目に止まる。仮婚約のままでは、他の誰かに取られてしまう。どうせとられるなら。今しかない。
今しか。