53 流れて消えていく
思っていたより、ちょっと長くなりました
駆け込んできた濃紺の制服姿のルイが、フローランの腕から私を奪い取り、私を抱きしめた。頭痛が急に、スッと減った気がした。
ルイの後ろから、同じ色合いの騎士服を着た数人が駆け込んできて、フローランを組み伏せた。フローランは逃げようとして、・・・違う、逃げようとなんてしてなかった。彼はただ呆然と私を見ていたのだ。
「ルイ、どうしてここに?」
「ジョージ殿が教えてくれた。ここに君がいると。会いに行ったのにいなかったから、みんなに伝えて、探していたんだ」
私はちらりと後ろを見た。フローランが組み伏せられ、捕まっている。ということは、フローランが何かしたのだろう。
「フローラン様は何か悪いことをしてしまったの?」
「・・・ああ、」
ルイが決まり悪そうにうなずいた。髪がさらさらと頬に触れた。
「そうなの・・・」
私がしょんぼりと俯くと、ルイは不思議そうに尋ねてきた。
「俺が嘘をついているとは思わないのか」
「ルイが? 嘘をついてるの?」
「いいや。だが、フローラン殿をお前から引き離そうと、嘘をついているかもしれない。フローラン殿には罪がなくて、俺が陥れようとしてるかもしれない。そうは思わないのか?」
「・・・ルイはそんなことしないわ」
「するかもしれない。セーレを手に入れるためなら、嘘だって、なんだって、つくかもしれないだろう?」
「いいえ、例え私のためだとしても、ルイはきっと・・・嘘をつかない・・・そんな不誠実なことはしない」
そんなことをしたって、それが自分のためにならないと、ルイは知っているはず。
「セーレ・・・」
私の頭の上から聞こえるルイの声が、震えていた。
「どうしたの? ルイ、泣いているの?」
「・・・いや。でも一つ、教えて欲しい。俺を好きだと、結婚したいと言わなかったのは、俺のためだったのか? 俺に自由を与えるためだと、・・・俺がいつでもセーレを切れるようにと」
「聞いていたの?」
「刃物が見えたから刺激したくなくて、入るタイミングを図っていたんだが・・・聞いてしまった。すまない」
「ううん。いいの。大したことじゃないわ」
私が言うと、ルイは首を横に振った。
「大事なことだ、セーレ。君は俺を愛しい人と?」
「そうよ、愛しくて何より大切な人だったわ、当たり前でしょう?」
そうでなければ苦労させることがわかっているのに、婚約なんてしただろうか。
それでもそばにいて欲しいなんて思っただろうか。
「ああ、でもね、私、お心はもうあなたにないの。こないだまではあなたを愛していたけれど・・・だから、いつだって私を切り捨てていいの」
私が言うと、その言葉にルイは顔を上げ、信じられないものを見るように、私をじっと見た。自分の涙を乱暴に拭い、荒く呼吸を落ち着かせる余裕もないまま。
「でも、もしよかったら、・・・ルイが嫌でなかったら・・・少しでもルイのためになるのなら、結婚してくださる?」
ルイが何かをこらえるかのように、ぐっと喉を詰まらせた。
「ルイ?」
私が声をかけると、ルイはハッとして、急いでポケットを探ると、紫色の瓶を取り出した。
「それは・・・?」
フローランが持っていた瓶だ。使わないままで終わったあの・・・何の瓶だろう、気付け薬?
見ているうちにルイは瓶を開け、中身を口に含んだかと思うと、私に唇を重ねた。驚いたのもつかの間、何か甘い液体が流れ込んでくる。何か良い香りがして、うっとりしながら、私は勢いでそのまま飲み込んでしまった。これは、アガットが寝る前によく淹れてくれるハーブティーの香り。ラベンダーの香りだ。
「ゲホ、ゲホッ・・・ルイ、何をするの」
「セーレ、今のは解毒剤だ」
「解毒剤?」
「君は惚れ薬を飲まされていたんだ。一時的な感情で、誓約書にサインさせるために。今飲んだから、しばらくしたら、惚れ薬の効果はなくなるはずだ」
惚れ薬? そんなものがこの世にあるの?
私が驚いていると、ルイは青い顔で頷いた。
「君が飲んだんだ」
「フローラン様が使ったの?」
「・・・そうだ」
「私に?」
「ああ。君の心を手に入れるために」
「どうして・・・」
問いながらも私には、答えは聞かなくてもわかる気がした。
私は知っていたのに。みんなにも言われていたのに。理解していたはずだったのに。私のせいだ。
それなのに、ルイは自嘲気味に笑った。
「俺が不甲斐ないからだよ、セーレ」
まさか。そんなことがあるはずがない。だってルイはいつだって、・・・いつだって?
頭が痛い。ラベンダーの香りに包まれて、バラの香りが急速に薄れていく。それと同時に、何かが消えていく。
愛おしげに微笑むフローラン。
私を心配そうに見るフローラン。
ベッドでうっとりと私を見上げるルイ。
私に手を重ねて微笑むルイ。
お茶会で笑う誰か。跪く誰か。
現れては消えていき、流れるように頭の中をめまぐるしく駆けては消えていった。
怖い。
私は一体どうなってしまうんだろう?
恐怖に震えていると、ルイが私を抱きしめながら話し始めた。
「あの薬は違法なんだよ。スミレの香りのする言うことを聞かせる薬と、バラの香りのする惚れ薬が出回っていてね。ブリュノ殿やショーンたちと協力して探していたんだ。売買の相手はほぼ逮捕できたし、薬も回収できていて、もう残っていないと思っていて、・・・油断した。セーレに惚れ薬を飲ませて結婚してしまおう、と考える奴もいるかもしれないとは思っていたんだ。でも、まさか彼だとは・・・近衛騎士に推薦したばかりだぞ」
ルイの言葉に、背後で誰かがピクリと動いたのがわかった。
「嘘だ・・・」
かすれるようなフローランの声が震えていた。
「私など・・・相手にもならなかったのに・・・」
ルイは構わず眉をひそめ、必死で何かを抑えるように手の甲を額に当てていた。
「模擬試合で対戦して、俺は推薦したんだ、彼を、・・・他の騎士団で経験を積んだからこそ、より良いものをもたらしてくれると、・・・経験の乏しい俺を引き上げてくださった、レイモン団長のような方が喜びそうな立派な騎士だと、・・・そう思っていたんだ」
ルイが深く息を吸い、ため息をついた。
「・・・俺は絶対に許さない。ジョージ殿に知らせてもらわなかったら、既成事実をつくられて何もできないところだったかもしれない。その前におさえることができてよかった。・・・セーレ、君を怖がらせてしまってすまなかった」
「まぁ、ルイ。でも私、怖いことなんてなかったわよ。とても優しくしてくれたわ」
「セーレ・・・」
言いながら、ルイが苦しそうに顔を歪め、私の頬を包んだ。どうしよう。ルイにこんな顔をさせたかったわけではないのに。
その時、騎士たちの声が止み、一瞬静寂が訪れた。
「ほら、立て。歩け」
声の方を向けば、フローランが沈痛な面持ちで立ち上がっていた。怒りと悲しみで顔を歪ませた騎士が椅子をガツンと蹴る。足取り重く、歩を進めている。困惑する様子が見て取れた。大事な仲間だった、知り合いだったと、一足ごとに困惑が深まっていく。
「・・・愛しい人」
私の声に、フローランがびくりと肩を強張らせた。
驚いたことに、その姿を見ても、先ほどのようなときめく気持ちは薄れていた。不思議と気持ちが安定している。でもやっぱり、まだ心は焦がれていた。
「私を利用しようとしたの?」
「・・・セレスティーヌ、様・・・」
話そうとしたフローランを、騎士が引っ張った。罪人には発言権はないということだろう。私は慌てて続けた。これだけは言わなくちゃ、言っておこう。
「いいんです、私の立場を利用したい人はたくさんいるのですから。だからそのことを私に悪いとは思わなくていいんです。私は、・・・私は、知っていたのですから。自分の立場を理解していました。そのつもりでした。でも、自分一人だけの力を過信していたんです。実際のところ、私一人は無力でした。簡単に、あなたにとらわれてしまったんですもの。そんなこともわからない私は、公爵令嬢である資格なんて、・・・貴族である資格なんて、ないかもしれません」
不思議なことだが、言葉が出て行くごとに、フローランに焦がれる気持ちは無くなっていった。でもその代わり、穴がぽっかり空いていくように、気持ちがそがれていく気がした。
「もし私が公爵令嬢じゃなかったら、フローラン様は、それでも私をお求めになる? ならないと思うわ、だって、あなたには権力があっての私ですもの。私などいなくても、あなたは自分の力で、なりたいものになれたのです。ええ、私など、必要ありませんでした。これからも、誰かに頼る必要などないくらい、あなたは素敵な方です」
私が息をつくと、ルイが励ますように、私の肩をそっと支えてくれた。
慣れ親しんだ、ルイの優しい手。ルイにはきっとわかってるんだ。私の存在がフローランに罪を犯させた。そのことに、私が後悔していることも、虚しく思っていることも。
「フローラン様。権力は中毒性がありますの。浸かってしまうと、逃げられなくなってしまうのです。そういう人を、父に教えられて、たくさん見てきました。とても怖いものですわ。でも、私は思うんです、国を治めるのだって、おいしいスープを作るのだって変わらないんじゃないかって。がっかりすることも嬉しいこともあるのは、きっと同じなんです。結果論ですが、・・・あなたが私を利用しなくってよかった。約束してくださいますか? これから先も、そんなことはしないと」
フローランは呆然としばらく私を見た後、黙って静かにうなずいた。
「セーレは・・・人の心配ばかり・・・」
ルイが困ったようにつぶやいた。
「だって、私のせいだもの」
「それでも、だ。悪いのはそういう気持ちにつけ込んだり、薬を盛ることだよ。あぁ、でも・・・そういうセーレが良かったんだったな俺は」
ルイがため息をついた。
ルイの言っていることの意味は半分もわからなかった。気持ちも悪いし、頭も痛い。それに、フローランが去っていくのを見ていると、やはりまだ少し胸が痛かった。
そう、少しだけ。・・・少しずつ。
どこかに行ってしまう。
悲しい気持ちだけ残して。
サインできなかった結婚誓約書の空欄を残して。




