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綺麗な婚約者  作者: 霞合 りの
優しい花の香りに誘われて
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51 どうしようもない重責

私の手は、ペンを握ったまま、動かなかった。


きっとこの後、一時間経っても、二時間経っても、動かすことはできなかっただろう。


「どうしましたか? 僕を愛してくれているのではなかったのですか?」


優しい声で、フローランが言った。


顔を上げるとーーもう何度も同じ仕草を繰り返しているけれどーー、フローランの戸惑うような、それでいて私を愛おしく見る顔が、私の心を震わせる。バラの香りが私の中で色めき立って、どうにも愛おしくてたまらなくなる。


「困りましたわ」

「何を困ることが? ・・・この結婚誓約書にサインをするだけですよ」


手に力がこもった。でも、できなかった。どうしても手が動かない。


私は諦めて、ため息をついた。


「・・・ごめんなさい、愛しい人。さっき知ってしまったでしょう。私は公爵令嬢なのです。おそらく、その結婚誓約書に、今ここで署名したとしても、受理されることなどありません。意味がないのです」

「それは・・・どういう・・・?」

「貴族の結婚は”家”が主体です。当主が認めない限り、そして国王陛下が了承しない限りは、成立しませんのよ。ですから、もし私がフローラン様と結婚をするなら、まずは父と国王陛下に認めてもらう必要があります。ですから」

「そんな、まさか。あなたの気持ちが大切でしょう? 愛する娘の切なる願い事を、父親が突っぱねるわけがないですよ」

「違うのです、そうではありませんの。あなたにはわからないのかもしれないわ・・・」


私が言うと、フローランは困ったように言った。


「私が・・・、ただの騎士だからですか? 近衛騎士にもなれない、幹部騎士にも、文官になることもできない、ただの騎士だから、わからないというのですか?」

「違いますわ、フローラン様。私、その、自分で言うのも嫌なのだけど、私の立場には権力がついてまわるのです。だから、フローラン様には知られたくなくて、・・・」

「権力? 私は権力と結婚するわけではない。あなたと結婚したいんです」


フローランの言ってくれることは嬉しかった。


でも私と権力を切り離すことは、決してできないことだ。


ルイがずっと甘んじて受けてきた負担のように。それでもルイは、それがまるで負担じゃないように、そばにいてくれたのだ。


「フローラン様・・・」


私は言うのをためらった。それでも、言うしかないとわかっていた。


「近衛騎士のルイ・ウェベールを知っておりますか?」

「ああ、・・・大抜擢された実力者です。政治的配慮があるなどと揶揄されていたが、それはないと私たちは確信しています。今は、そんなことを微塵も感じさせないほど、近衛騎士が板についていますが」

「私の婚約者は、そのルイなんです。偽名に使わせていただきましたの」

「ーーそうなんですか?」


くぐもった声は何の感情も反映されていなかった。


「ええ、名前を聞いたことがあるとは思いませんでしたか?」

「・・・いえ・・・その・・・」


言葉を濁したフローランに、私は微笑んだ。


「気がつきませんわね。ルイはいつもそうなんです。本当のところ、ルイが近衛騎士になったのは、私と婚約したからですが、今ではみんな、そうは思っておりませんもの。ルイはそんなことも気にしない人で、それすらまるで自分だけの手柄のように見せてしまうのがとても上手なんです。それで私がどれだけ慰められたか、わからないでしょう」


私の言葉に、フローランは目を見開いた。


「ウェベール殿も、あなたの後ろ盾を使ったというのですか? 必要のないあの方が?」

「使ったというと語弊があるように思いますけれど・・・ルイはもともと、子爵家を継ぐつもりで、爵位を上げようとはしておりませんの。家業の骨董商は、子爵くらいの身分がちょうどいいと考えているようです。今でも、もちろんそのつもりですわ。ですから、必要ないというのは、当たらずとも遠からずですけれど、おそらく、意味は違っているでしょう」


すると、信じられないと言いたげに、フローランは首を横に振った。


「騎士ともなれば・・・認められ、上にあがりたいのは、当たり前のことで・・・何をしても・・・あがりたい人間はいる、と・・・知っておられますか?」

「ええ、先日聞きましたわ。騎士の方は、欲しておられる方が多いと。皆さん、そのことでルイが気になるようで、色々言われました。でもルイは商売人で、アンドレやクロードと同じように、家の仕事を継ぎたいのです。王宮で仕事をしないともったいないと言われていますが、・・・フローラン様も、そうお思いになりますか?」

「・・・私は・・・」


フローランが悲しそうに目を伏せた。


私は混乱する考えで吐きそうになりながら、それでもフローランに笑顔を向けた。


「ねぇ、フローラン様。私、ルイにずっと負担をかけてきたと思っています。私が結婚したいと言えば、きっと婚約の話が進んでしまうから、どうしても言えませんでした。ルイにはもっと自由に選んで欲しくて、・・・本当は、愛しくて大切な人には、そんな苦労をして欲しくないから。私と結婚することで好きな人が苦労をするのなら、私は私を娶っても苦労しない、違う人に嫁いだほうがマシなのですわ。それを言うと、友達には怒られましたけど・・・」


バラの花の香りが頭を埋め尽くして、何も考えられない。バラの香りに心を任せれば、フローランを愛することに疑問はない。


それで問題ないでしょう? 何が問題なの? 私の心の中には、フローランしかいない。私がときめくのは、フローランだけ。彼だけが大切な人だ。


だから、ルイなんて大切じゃない。


いいえ、ルイは大切な存在ひとだ。いつだって、これからも。


そう思い直す度に、具合がどんどん悪くなる。頭の中がごちゃごちゃになっていく気がする。


「セレス、お気持ちは・・・わかります。ですが、例えウェベール殿であっても、継続しなければならない理由はありません。なぜ私と結婚してくださらないのか、私にはわかりません。あなたは私の気持ちに応えてくださった。一緒にいたいという気持ちこそが大切なのではないでしょうか? ・・・こんなに思い合っているのに・・・? ウェベール殿と結婚なさると?」


フローランの震える声で、私はふいに思い出した。お茶会であの時、クロードが言っていたのだ。


『でも好き嫌いすら関係ない、貴族の結婚ってそういうものだろ?』


「ええ、そういうものです」


私は静かに言った。


どうしてそう言ったのか、わからなかった。


クロードに言われて、考えられないと否定した私が。でも、ルイから言われない限り、私は婚約破棄をするつもりはない。だって、・・・ルイと結婚するのは私にとって現実的な未来だったから。そうでない自分が考えられなかったから。クロードでもアンドレでもショーンでもない。もちろん、フローランでも。


バラの香りがそれを揺さぶる。


ルイと婚約破棄してから考えれば? まだ時間はあるわよ? そのあと、ゆっくりと結婚準備をすればいいじゃない?


ううん、違う。私はルイと結婚しなきゃならない、ルイと結婚したいのだ。そう思っている自分に、私は戸惑った。それに必要な気持ちはもうないのに。


・・・わからない。頭が痛い、割れそうに痛い。


頭を抱えて顔を上げると、フローランが泣いていた。なぜだろう。


「違う・・・こんな、・・・こんな!」


フローランが自分の髪の毛をぐしゃりと掴んだ。


「フローラン様?」

「セレス、私はあなたを愛している!」


悲痛に聞こえる言葉が、逆に私を冷静にした。私も彼を愛している。でも。


「ええ、知っております。でも、それがなんだというのでしょう?」


私の言葉に、フローランが固まった。


恐ろしく静かな沈黙が下りた。





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