49 夢の中のような
その薬は、私が飲んだどんな薬より、甘く、とろりと舌に溶けて、美味しかった。
「ご気分はいかがですか」
飲み干した私に笑いかけたフローランを見て、私は驚いた。
とても素敵だ。こんなに魅力的な人がいていいのかしら。なんで今まで、気がつかなかったんだろう。
フローランの笑顔を見たら、体のだるさが消えていく気がした。
「ええ、なんだかとても・・・体が軽いです」
「そうですか。それでは、薬が効いているのかもしれませんね。よかったです」
言いながら、フローランは私の頬に手を当てた。
不思議と嫌ではなかった。今まで、ルイ以外の人は嫌だったのに。
じっくりと私の顔色を見て、フローランはホッとしたように笑った。心臓がドキリとした。こんなに笑顔が素敵な人だったかしら? 初めてルイに会った頃のルイの笑顔みたいに。あんな風に素直に笑ってくれたら、私だってもっと素直になれたのに。・・・いいえ、私はずっと素直だったわ。きっと。・・・多分。
「ありがとうございます。私はもう大丈夫ですわ、フローラン様。ベッドから起きても?」
私が微笑むと、フローランは私の瞳の中をじっと見た。そして、心配しすぎるのをやめたのか、諦めたように息をついた。
「・・・ええ、平気でしょう。居間へ行って、お茶をいたしましょうか」
「ぜひ」
フローランに連れられていった居間は、落ち着いた雰囲気の、騎士の生家らしいすっきりとした部屋だった。淡いグレーグリーンの家紋の刺繍の入ったリネンのクッションにソファカバー、明るいグレーの大理石のローテーブル。絨毯は濃いグレーグリーンで、カーテンはリネンと同じ柄で、そこに赤い糸が印象的に使われている。
「まぁ! 素敵」
私がはしゃいで、胸の前で手を合わせると、フローランは優しく笑った。
「セレス様はとても素直で、可愛らしくいらっしゃいますね」
「そうですか?」
「ええ。そうやって不思議そうに首を傾げるところも、とてもお可愛らしい」
「まぁ。そのようなお世辞は要りませんわ」
「いいえ。本当にそう思っているのですよ」
「・・・だと嬉しいのですが」
私の言葉に、フローランは笑うと、私の頭を撫でた。再びふわりとスミレの香りがする。
「セレス様。あぁ、あなたはとても、・・・綺麗です」
フローランの言葉が耳に甘やかに響く。私の胸がずきりと痛んだ。
その言葉を、ルイが言ってくれたなら。私を綺麗だと言ってくれるなら。こんなにも、こだわったりしなかったのに。
でも、どうしてこだわっていたのか、なぜか思い出せない。
「あぁ、・・・まだ頭が痛むようですね」
フローランが心配そうに私に尋ねた。途端に、私は頭痛がしていたのを思い出した。
「ええ、でも、・・・」
「もう少し、お薬を飲みましょう」
「そんな・・・貴重なお薬ですのに、これ以上いただくなんて」
「あなたのためなら、惜しいものなどありませんよ」
「まぁ、フローラン様・・・」
私はフローランと見つめ合い、微笑み合った。それだけで充分元気になれる気がした。
それでも、フローランがしきりに勧めてくるので、薬を飲むことにした。部屋を辞してまで取りに行ってくれた薬を、飲まないわけにはいかない。飲み終えると、確かに私の意識ははっきりしてきて、その上、フローランが輝いて見えた。
そうだわ。
ルイに言って欲しかった言葉を、この人は言ってくれる。誰より大切だと、何も惜しくないと言ってくれる。ルイに会う
のが怖いのは、同じ言葉を言って欲しいからかもしれない。でもルイは、ちょっと意地悪く笑って、こう言うのだ。
『会うのを楽しみにしろと言ったから楽しみにしていたのに、セーレは変わらないな。どこが成長したって?』
もちろん、それでもいい。ルイは嘘をつかないから、私は信じられるのだから。でもたまには褒めてくれたっていいと思う。ルイはいつだって、自分の役目として私を守ることばかり考えて、私がしてほしいことなんて、ちっともわかってないのだ。
でもフローランは違う。
目が合うとこんなにもうっとりして、甘えたくなる。
これがきっと好きということなんだ。
私はきっと、この方が好きなんだ。
甘くて優しくて、私を大切にしてくれる人。
ルイが帰ってきたのがなんだというの?
会話がふと途切れた時、私はフローランに尋ねていた。
「フローラン様。また、お会いしていただけますか」
フローランが目を見開いた。
「セレス様・・・私などと会いたいとおっしゃっていただき、とても嬉しいのですが、・・・結婚前の女性がそのようなことを口にしてはいけません」
「フローラン様は、もう私にお会いしたくないのですか」
「そんなことはありません。お会いしたいです! ・・・ですが、・・・理由もなく、お会いするわけには」
「理由があればよろしいのですか」
「理由はありません」
フローランの寂しそうな横顔に、私の心も辛く、悲しくなった。そんな風に言わせてしまうなんて、・・・自分の気持ちがわかったばかりなのに。
そうだ。私の気持ち。
「私・・・フローラン様をお慕いしております。それではダメなのでしょうか?」
自分の声が震えているのがわかった。私は思わず顔を伏せた。
「セレス様・・・」
フローランが戸惑うように口を開いた。ああ、でも、言ってはいけなかったんだわ。それはそうよ、だって、会ったばかりなのに。
しかし、次のフローランの言葉に、私は驚いて顔を上げた。
「・・・私も、・・・私もです、セレス様・・・私もあなたをお慕いしています。道で倒れていたあなたをお助けした時からずっと、目の前のあなたのことしか見えませんでした。一目惚れというのでしょうか。こんな短い時間にこんなにもお慕いしてしまったことなど、信じていただけないと思っていました」
フローランの輝くような瞳と目が合った。幸せすぎて、体が震える気がした。まさかそんな風に言ってくれるとは思ってもみなかった。
私がじっと見ていると、フローランは私の手をそっと握った。
「あぁ、なんて可愛らしい方なんでしょう。セレスと呼んでも?」
「はい・・・はい、もちろんでございます、フローラン様」
「私のことも、フローラン、と」
「いいえ、それは、・・・まだ、無理ですわ。恥ずかしくて、・・・とても」
私は目を伏せた。
痛み止めが効いているのか、バラの花の香りで頭が冴えていたけれど、まだぼんやりと、フローランとの距離を感じた。まだ早いんだわ、私には・・・だってルイにもずっと言えなかったのに、言ってしまったんだもの。それだけで私はとても疲れて、・・・少し、具合が悪くなってきていた。
「セレスはなんと奥ゆかしく、・・・可愛いのでしょう」
「そんなこと、ありませんわ」
フローランが手にしていた私の指先に、そっと口づけを落とした。単なる挨拶ではなく、愛情が込められているのが伝わってくる。
ルイが以前、”いたずら”でたくさん口づけを落とした指先。あの時、ルイはどうだっただろう? ルイに愛情はあったのかしら? ・・・そうね、ルイは私をとても大切にしてくれていた。私に触れる時も口づけする時も、いつも、とても優しかった。それを私は当然だと思っていて、何も考えず、ただ、ルイがそこにいるだけで満足していた。私はルイがずっといてくれると信じていたのだ。なんの疑いもなく。
ううん、今は、ルイのことは忘れなきゃ。だって私はフローランが好きで、ただ、そばにいたいんだから。
フローランは優しく私の頬に触れた。心臓が跳ね上がるほどドキドキしてしまう。
「セレス・・・口づけを・・・許していただけますか」
「それは・・・いけませんわ」
だって、ルイとだってまともにしたことがないのに。いいえ、ルイのことは忘れるんだわ。忘れなければ。でもどうやって? フローランのことをこんなに愛おしく思っているのに、ルイのことを思い出してしまうのは、なんでなのかしら?
フローランはパッと顔を赤らめ、しばらくうつむいた後、顔を上げた。
「申し訳ありません。出会ったばかりだというのに。気が急いてしまって。でも信じてください、・・・私は・・・、あなたを大切に思っています。お慕いしています、きっと、あなた以上に。あなたに出会った時から。私たちの出会いは、・・・運命なのです」
「フローラン様・・・」
それだけで充分に、私は彼から愛を感じる。ふわふわととても素敵な気持ちだ。フローランも私を思っていてくれていたなんて。なんて素敵なんだろう。
フローランが私をじっと見つめ、そっと額にキスを落とした。柔らかくて温かく、私は一瞬で心が奪われた。
あぁ、ルイが私を思っていてくれたなら、私にルイの気持ちがわかれば。私がルイに伝えていれば、いつでも言えるからなんて言って、怖がらずに私がもっと素直になっていれば。
・・・いれば?
どうだっていうの?
「セレス・・・もし、もし許されるのであれば、・・・私と結婚していただけますか」
「・・・まぁ」
突然のプロポーズに私は言葉を失った。途端に、私に現実が戻ってきた気がした。
なんてことだろう。
「できれば、すぐにでも。私はあなたを誰かに取られてしまわないか、不安なのです」
「でも私、まだ社交界デビューすらしておりませんわ。まだまだ子供です」
それに私は、・・・思いながら、私は続きを言うことはできなかった。
次の瞬間、二人の甘い時間が、急に終わりを告げたからだ。
「兄さん? こちらにいらっしゃるのですか? 先日の騎士試験の評価が出たようですよ。推薦が・・・おや、どなたかいらっしゃるので・・・」
居間のドアがキィ、と開いた。
またしてもルイはプロポーズを先に越された模様。




