48 目が覚めると
ふわりと、スミレの香りがした。
「大丈夫ですか?」
目の前には、心配そうに私の顔を覗く、綺麗な男性の顔があった。ルイじゃない。ルイよりも年上で、体つきもしっかりした大人の男性だ。
「目が覚めたようですね。よかった・・・」
柔和な印象の青年は、ホッとした様子で体を起こそうとした私を手伝ってくれた。状況から察するに、そこはベッドの上で、どうやら私は、彼の家にいるらしい。
「あの、・・・私、帰らないと・・・」
「ああ、まだ自分で動いてはダメですよ。頭がクラクラするはずです」
「まぁ」
言われてみれば、そうだった。頭がボーッとして、ふわふわとしている。それなのに、彼の言葉は妙に頭の中に刻まれて、よく理解できた。
なんてことかしら。垣根の間から覗くバラの花を見て、香りを嗅いで、花の色が鮮やかな黄色で、ルイの金色の髪を思い出して、・・・プレゼントは何にしようと思っていたんだっけ?
「覚えてらっしゃらないのですね。あなたはうちの目の前で倒れておられたんです。放っておくわけにもいかず、こうしてお助けした次第です。でしゃばりまして申し訳ありません」
頭を下げた彼に、私は慌てて礼を言った。
「ご親切にありがとうございます。助かりましたわ」
私が言うと、青年は心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「失礼ですが、私はあなたのお名前も知りません。ご自分のお名前がわかりますか?」
「私の名前・・・」
困った。名前を名乗って家に連絡されるわけにはいかない。こんなところで倒れたなんて知られたら、父はすごく怒るに違いない。姉だって。兄だって。ルイだって。友達だって、みんな。母はまた倒れてしまうかも。一人でふらふらしてたことがバレたら困る。私はルイのプレゼントを探しに来ただけなのだから。
「・・・セレスと申します。セレス、・・・ウェベール」
私はとっさに偽名を使った。
でもすぐに後悔した。
失敗だ・・・だって、偽名にルイの名前を使うなんて。偽名にならないじゃないの。いや、まだなるけど。でもならなくなる日を待っていて、・・・先走りました、はい。頬が熱い。きっと顔が赤くなってしまっているだろう・・・とてつもなく恥ずかしい。誰が聞いているわけでもないのに。
バレてしまっただろうか? 貴族の名前なんて市街の人たちはほとんど知らないはずだ。ルイの名前がそんなに有名だとは思わないけれど、知っていたらどうしよう。ウェベール家にセレスなんて人はいない。ええ、そう、今はまだ。
ちらりと見上げると、青年が虚をつかれたように私を見ていた。
「あの、・・・?」
私が声をかけると、ハッとしたように目を瞬かせた。そして戸惑うように私から目を逸らした。
「セレス・ウェベール様。セレス様とお呼びしても?」
「ええ」
バレてない! 私がホッとして笑いかけると、彼は頬を紅潮させた。
「私は・・・」
言いかけ、彼は喉にひっかかったように空咳をした。
「私は・・・フローラン・ビアンキと申します」
「フローラン様ね。覚えましたわ」
「ありがとうございます。・・・こんな風にお会いするとは思いませんでした」
私は決まり悪くなって視線を逸らした。確かに、いかにも令嬢らしき人物は、こんなところで一人歩きなどしない。ましてや、倒れているなど。
フローランは私の罪悪感に気づかないように、優しく微笑んだ。
「さて、セレス様、家はどちらですか? 馬車をお呼びしましょうか?」
私は思い切り首を横に振った。
「え? いいえ、大丈夫です! もう元気ですし」
「・・・本当ですか?」
フローランが心配そうに私に手を寄せた。
「しかし、セレス様、あなたはしばらく意識がなかったのです。すぐには激しく動けないでしょう」
「あぁ、・・・えぇ、そうですわね」
私が頷くと、フローランが優しく笑い、小さなグラスを差し出した。
「お水をお飲みください。きっと気分が落ち着きますよ」
ふわりと漂うスミレの香りが疲れた頭に心地よかった。まだ夢の中にいるみたいで、確かに、すぐに自力では家に帰れそうにない。ここは恥を忍んで正直に親に迎えを頼むべきか・・・エヴァやドミニク、もしくはショーンあたりに秘密裏に頼むか・・・フローランの言う通り、馬車を呼んでもらうか・・・
私は水を飲みきったグラスをテーブルに置き、顔を上げた。
「ここはどちらなんですの?」
「王都ですが、中心部から外れております。お荷物から察するに、マーケットにおいでだったのでしょう。マーケットからは近いので、お迷いになったのかと。まぁ、うちは代々、騎士ですから、こちらにしばらく滞在なさってもあなたの身を守ることは簡単ですが、そうはいかないでしょう。早くお帰りになってください。みなさん、お探しですよ、きっと」
フローランはにこりと微笑む。
重い頭に、フローランの言葉が残った。
騎士。騎士の家系。
どうしよう。ルイのこと、知っているかも。でも、反応がないってことは、全く気がついていないのかもしれない。それはそうだ。私はルイに似ていないし、そう、近衛騎士でなければ、きっと知らないのだ。
「いいえ。どうでしょうか。私のこと、探しているのかしら?」
私が笑うと、フローランは驚いたように私を見つめた。
「だって私、こっそり抜け出してきたんですもの。もしかしたら、気づいていないかもしれないわ」
「おや。ひどいお人だ」
笑ったフローランに、私は思わず小さく呟いた。
「早く・・・ルイにプレゼントを買わないと・・・兄様の剣より、喜ぶものを・・・」
もちろん刺繍は完成したけれど、あの出来上がりを見たら、きっと笑われるわ。やってみるなんて言わなきゃ良かった。そう、親にお迎えとかエヴァとかドミニクとか、伝えてしまったらもう買えないんだわ。そう思うと、やはり家には自力で帰らないと。
「・・・なんとおっしゃいましたか?」
「え? あ、いいえ、なんでもないのです。その、・・・独り言なので、」
「・・・そうですか」
言うと、フローランは手にしていた紫色の液体が入った瓶をベッド脇のテーブルに置いた。
「診ていただいた医者に、目が覚めたら飲むようにと言われた痛み止めの薬があるのですが、飲んでいただけますか」
緊張した面持ちで、フローランは私の顔色を伺った。
「薬、ですか?」
頷くと、フローランは部屋の奥にあった、小さな薬壜とグラスが乗ったお盆を手に持ってきた。紫の瓶は、どうやら違うらしい。私は首を傾げながら、紫の瓶を排してテーブルに置かれたお盆を眺めた。
「こちらです」
「まぁ、・・・ありがとうございます」
そして、フローランは薬壜の中身をグラスに開けた。トロトロと落ちる綺麗な薄いピンクの液体だった。
「綺麗な色ですね」
私が素直に言うと、フローランはクスリと笑った。
「どうぞ」
警戒しなかったといえば嘘になるけれど、私はあまりにも単純で、守られすぎていた。いつだってルイや兄や姉やアガットやシドニー・・・今あげただけでもあげきれないくらいの人たちが、私を助けてくれていた。私は甘やかされていて、今まですでに危険が排除されたものしか、提供されたことがなかった。だから、目の前に勧められたものを手に取らないなど、選択肢になかったのだ。
「安心してお飲みください。これは安全な薬です、セレス様」
手に取ると、かすかにバラが香った。ただの痛み止めの薬にバラの香りなんて、贅沢だ。最初に思ったのはそれだった。この家は大きくはないけれど、もしかして、かなりの資産家なのかも? だとしたらすぐに、私のこともバレてしまうかもしれない。慎重にしなければ。
「このお薬、随分と高級そうですが、誰かのためのものでは? 私が飲んでも問題ないでしょうか?」
「大丈夫ですよ。実は、先日、弟が怪我をしましてね、その時に、たくさん買ったので、割安にしてもらったものなんです。ちゃんと頭痛にも効きます。消費期限が切れる前に使ってしまえるなら、その方がいいのですよ」
「そうですか・・・」
私は頷き、グラスを見つめた。
「それはあなたが飲むための薬ですよ」
業を煮やしたらしいフローランがグラスを傾け、私の口に当てた。
解説
出てきた薬たちはルイ編で登場した薬です。
スミレの香りは言うことを聞かせることのできる魅了の薬、バラの香りは惚れ薬。
紫の瓶はラベンダーの香りで解毒剤です。




