第九十二話 その過去は起こり得た未来
晴れて付き合うことになった二人を、周りの友人たちは当然祝福した。
というより、少し困惑していた。「え? まだ付き合っていなかったの?」と。
勇也と千佳の二人は学校では常に一緒にいるし、帰宅しても一緒にいることが多い。
もちろん、岡田秀一を始めとしたカースト上位のグループと一緒に遊ぶこともあった。そこでも勇也と千佳は非常に親密で、誰もがすでに二人は付き合っていると認識していたのだ。
「今更付き合うと言っても、何も変わるようなことは無いだろう」
秀一が少し呆れたように言うと、近藤咲良が少し悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「いやぁ、付き合ってからヤることもあるっしょー?」
「あのなぁ、俺たちはまだ高校生だぞ。なぁ、永倉?」
勇也は全力で目を逸らした。
「手遅れだったみたいね」
山南芽衣が千佳に向かってニッコリと微笑み掛けると、千佳もさっと視線を逸らす。
さらに、いつから聞いていたのか、彼らの会話に田中騎士も加わる。
「あぁ!? お前らもうヤったのかよ! 俺と凜華だってまだキスまでだってのに! 凜華、俺らも負けてられねぇよ!」
「え~、それで勝ち負けとか、なくない??」
クラスの中がそんな話題で持ち切りになった。
その中心にいるのは勇也と千佳である。
それは一か月前では有り得ない光景だ。
クラスがどんな話題で盛り上がってようと、その中に勇也は入ろうとしなかった。
常に一人で小説を読むか勉強し、クラスの輪から切り離されていた。
勇也自身がそれを望み、誰も勇也を意識しなかった。千佳以外は。
千佳が勇也に手を伸ばし、輪の中に引き入れた。
それが正しかったか、間違っていたかはわからない。
そこにあるのは結果として勇也が変わったという事実だけ。
勇也はもう一人ではなく、友人と最愛の恋人を得た。
硬い殻を破り、人の輪の中に加わったのだ。
初めこそそれに違和感を持った者たちもいる。
勇也を異物だと、自分よりも下の人間だと思っていた者たちだ。
それがいつの間にか上位グループに組み込まれ、可愛い恋人までできている。
面白いはずはないのだが、勇也はすでに彼らより上の存在だった。
それは単純な力や学力といったことではなく、彼らのクラスという小さな社会の中での地位だ。
苛めは本能だ。
自分より弱い者を常に用意しておき、天敵に襲われた時のためのスケープゴートとする。
さらには、社会生活というのはそれだけでストレスを生み、苛めという行為自体がその解消となるのである。
苛めはサバンナで生きる草食動物内にもあるし、猿、狼、魚など社会生活を行う動物には多く見られる現象だ。そして当然、人間にも。
勇也というスケープゴートがいなくなった今、彼らは新たなスケープゴートを用意しなくてはいけなかった。
結果選ばれたのは、勇也が千佳と付き合っているという事実を受け入れられない、いつまでも勇也を敵視し憎悪している一人の男子生徒だ。
今度は彼が周りから苛められ、疎外されたのである。
そして、それが後々に悲劇を生むこととなった。
発端は勇也と千佳が付き合い始めて数か月が経った時に起きたある事件だ。
千佳の容姿は可愛いし、スタイルも抜群である。
歩けばそれだけで揺れる程で、勇也もしばし目のやり場に困った。
それほど目立つ彼女が、男に絡まれるというのはよくあることである。
だが、それでも勇也と一緒にいて絡まれるというのはなかったことだ。
男がいるにも拘らず絡むというのは、よほどガラの悪い連中といえるだろう。
二人で夕暮れの人気のない海辺で立っていた時のことである。勇也たちはそんな性質の悪い連中に絡まれてしまったのだ。
しかし、男たちは運が悪かった。
仮にそこにいたのが千佳だけだったとしよう。
たとえ女の子といえど、決してか弱くはない彼女でも、一度に五人の男を相手すれば、千佳だけでは抵抗した分余計に痛めつけられ酷い目に遭わされていたかもしれない。
だが、そこにはこれまで散々自分を鍛え、さらには本物の自衛官と実践的な練習までしている勇也がいたのだ。
喧嘩慣れしている勇也は、先手必勝とばかりに絡まれた次の瞬間には男たちに向かって襲い掛かっていた。
だが、喧嘩慣れしているのは男たちも同じだった。
初めこそ意表を突かれたものの、すぐに立て直して勇也を五人がかりで襲い始めた。
「なんだ、こいつっ! やたらつえーぞ!」
それでも勇也は負けない。
なるべく囲まれないように位置取りしつつ、囲まれそうになった瞬間には一人を殴り倒してすぐさま体勢を立て直し、一対五でも上手く立ち回っていた。
さらに、彼らにとって運の悪いことに、そこに新たな人物が現れる。
その人物は見て見ぬふりをして立ち去ってしまうような人間ではなかった。といよりも、正義感に溢れる人物だったのだ。
「姉ちゃん! 五対一で絡まれている奴らがいる!」
中性的な顔立ちをした、しかし男と分かる姿かたちをした勇也とそう歳の変わらない少年が、顔のよく似た美少女に訴えていた。
「なんですって!? 私の可愛い弟兼恋人にBL的な展開を持ち掛けているですって! ちょっと見てみた……そんな悪党は私が成敗してやるわ!」
「姉ちゃん、ツッコミきれないよ……」
全員が呆気に取られていると、現れた二人の姉弟の内、正義感溢れる弟ではなくちょっとイってしまっている姉の方が浜辺まで下りてきた。すると、何の前置きもなく男たちを殴り飛ばし始めてしまった。
それは勇也にとって、目を疑うような光景だった。
勇也でも苦戦する男五人を、明らかに体格に劣る女の子が軽々と殴り倒していくのだ。
女の子としては有り得ない怪力というのも驚愕すべきことだが、何より勇也が目を惹かれたのは、彼女の扱う格闘技、ボクシングだ。
普段から士郎にしごかれている勇也には分かった。
彼女は強い。自分よりも。そして、士郎よりも。
勇也の目指す究極がそこにあった。
あっという間に大の男五人が浜辺に転がされていた。
助けてもらったことに礼を言おうとした勇也だったが、同時に彼女と手合わせしてみたいとも思っていた。
絶対に勝てないと分かっていても、彼女から得られるものがあるはずだ。
もちろん、助けてもらった相手にそんな失礼なことは出来ない。
だが、そのチャンスは向こうからやって来た。
「あと二人ぃぃぃ!」
彼女は勇也と千佳までもヤるつもりだった。
勇也は唐突に振るわれた高速のワンツーを、咄嗟にクロスアームブロックで受け、それでもそのまま後ろに転がされた。
勇也はすぐさま立ち上がり、今度はお返しとばかりに同じくワンツーを放つ。
しかし、彼女は驚く様子もなくスリッピングでそれを軽く避け、勇也に顎目掛けてショートアッパーを放った。
「姉ちゃん! ストーップ!!」
勇也の顎下数ミリのところで拳が止まる。
その拳に全く反応し切れていなかった勇也は、もうコンマ一秒でも遅かったら、ガラの悪い男たちと同様、浜辺に転がされることになっていただろう。
「その人たちは違うから! 俺のお尻狙ってないから!」
そもそも誰も彼の尻など狙っていないのだが、冷や汗を流す勇也も呆気に取られている千佳も指摘することは出来なかった。
「ふ~ん、ま、別にいいわ。弟に用がないなら、興味ないから」
まるで氷のように冷たい声だった。
そして勇也を見る彼女の目は、まるでゴミでも目に映ったかのようだ。
一方、弟の方はかなり嬉しそうに、目を輝かせて勇也に向かってくる。
「いやぁ、お兄さん強いですね。マジな話、世界狙えますよ」
「そうかしら? 私から見たら路傍に転がる小石みたいなものだけど」
「うん。それ、俺も小石になってるよね? 多分、俺の実力、お兄さんと大して変わらないもん」
少年が落ち込むと、その姉であり恋人を自称する彼女は、途端に猫撫で声を出し始めた。
「そんなことないわよぉ。鋼は石は石でも光るダイヤの原石なのよぉ。そこら辺の砂利とは違うからぁ」
それはゾッとする光景だった。
確かに見た目だけなら可憐な少女だが、軽々と男を殴り倒す少女だ。その彼女が甘えた声で弟に侍っている。
ちょっとしたホラーだ。
思わず勇也が千佳と手を取り合い震えていると、鋼と呼ばれた少年が二人の方を向いた。
「お兄さん、良かったらうちのジム来ませんか? 親父がボクシングジム経営してるんです」
その提案は勇也には非常にとって魅力的なものだ。
勇也は目を輝かせるが、すぐに曇ってしまった。
「嬉しいんですが、お金がありませんし。うちの学校、バイト禁止されてますし……」
「ああ、だったらうちのジムで練習しながら掃除とかしてくれればいいですよ。親父は俺が説得しますから」
「いいん、ですか?」
「ええ!」
勇也はその翌日からボクシングジムに通い始めた。
同時にライバルとも呼べる友人もできた。
伊佐美光と伊佐美鋼。少し、いや、だいぶ変わった姉弟ではあるが、おそらくこれからの勇也の人生の中で、最も親しくなった友であろう。
そして勇也は目標を持ったのだ。
彼らの父が経営するボクシングジム、伊佐美ボクシングジムからプロボクサーとしてデビューするという目標が。
恋人とその親である今野親子からは「自衛官じゃ駄目なの?」と少し不平を言われたが、それでもそれは単なる冗談にしか過ぎず、二人とも勇也の夢ともいえる目標を応援してくれた。
だが、勇也がプロボクサーになることは無かった。
少なくとも、この物語を語る勇也=イーターはプロボクサーにはなれなかったのである。
なぜなら、愛と目標に向かって進む勇也の物語は、ある日唐突に終わってしまうのだから。
始まりはこの浜辺で起きた事件だ。
いや、もっと前にそれは始まり、終わっていたのかもしれない。
明確に勇也と千佳の物語が終わりを告げたのは、それから一年後のことだった。
その間に勇也の両親は離婚し、勇也は永倉勇也から赤羽勇也となった。
それでも勇也の生活は変わらず、高校に通って、その間は千佳と過ごし、放課後はジムに通う。
頻度は少なくなってしまったが、今野家にも週に二回ほど顔を出していた。
このままいけば、勇也と千佳が結婚する未来も有り得ただろう。
勇也はきっとその時、婿入りすることを希望したかもしれない。そして再び名前を変え、今野勇也となる。
そんな未来も、もしかしたら。
だが、そんな未来は来なかった。
『彼』にとって始まりは千佳との出会いからだった。
高校一年のクラスで初めて出会い、一目惚れしたのだ。
一年の時の千佳のクラスで一番可愛いと男子に人気があったのは、実は千佳ではない。
彼女の友人の一人、近藤咲良だった。
二番は誰かと問われれば、千佳と答える者がほとんどだったかもしれない。
そういう意味では、千佳がクラスで一番可愛いと思っていた勇也と『彼』は、気が合っていたと言えるだろう。
そして、そんな『彼』が勇也の代わりに選ばれた。
『彼』は惨めだった。
いつの間にか自分が勇也のいた場所にいる羽目になってしまったこともそうだが、本来なら自分がいるはずの場所に、他ならぬ勇也がいることが何よりも惨めで、口惜しくて、憎かった。
彼にしてみれば、千佳は勇也に盗られたのだ。
本来なら自分のものであるはずの千佳を、勇也が盗ったのだ。
許せるはずがない。
憎しみを燃やし続ける彼を凶行に走らせた切っ掛けは、たった一つの些細な出来事だ。
その日も『彼』は苛められていた。
トイレの中に数人で追い詰められ、バケツの中に入った水を掛けられそうになっていた。
きっとそのままそこに誰も現れなければ、『彼』は全身水浸しにされていただろう。
だが、そうはならなかった。
たまたまではなく、苛めに気付いた勇也が止めに現れたのだ。
「まったく、高校二年生にもなってそんな恥ずかしいことしないでくださいよ。さっさと消えてください」
「あ、ああ、悪かったよ。永倉、出来ればこのことは……」
「別に誰にも言いませんよ。これ以上糸目君に構わなければ。あ、あと、今は赤羽です。どっちでもいいですけど」
男子数名は少し怯えるようにして逃げて行った。
その頃の勇也は少し遅めの成長期に入り、身長がだいぶ伸びて体が大きくなった。しかも毎日のように顔に生傷を作って現れるから、相当の迫力を持っていたのだ。
糸目、大石諒を苛めていた数人は、トイレから出る際、勇也にとっては意味の分からない言葉を残していった。
「でも、永倉、気を付けろよ。そいつ、頭おかしいから」
勇也は首を傾げつつ、内心「結局永倉なんだ……」と思いつつも、トイレに尻もちをついていた諒に向かって手を差し伸べた。
「大丈夫ですか?」
しかし、諒はその手を払いのけ、立ち上がると「うわぁぁぁ!!」と叫びながら走り去ってしまった。
「……本当にどこかおかしいのかな?」
呆気に取られる勇也は知らない。
勇也が善意、というよりは昔の自分を見ているようで思わずとってしまったその行動は、『彼』、大石諒には侮辱でしかなかった。それも彼にとっては最大級の侮辱である。
勇也の知らないことはもう一つある。
諒には、彼が一年の時だったサッカー部の三年生の先輩、つまり今はOBなのだが、そのうちの最も問題児とされた一人と未だに交流があった。
そのOBは浜辺で千佳に絡んだうちの一人である。
その時に千佳を自分の高校の誰かであると気づいたのだろう。
すぐに諒にその特徴、ついでに彼氏である勇也の特徴も伝え、心当たりがないか聞いたのだが、諒はわかっていて知らないと答えた。
諒にしてみれば、彼は千佳を守ったのだ。
それにも拘らず、千佳は自分ではなく勇也を選んだ。そしてその勇也は自分を見下している。
そう思い込んだ諒は、二年になりクラスが変わり、心当たりのある人物が同じクラスになったと彼の先輩に伝えたのだった。
その日、ジムワークを終え、帰途に就いた勇也はいつものように千佳にメッセージを送った。
いつもならすぐさま連絡が返ってくるのに、なかなか返事が来ない。
そんなこともあるだろう、と勇也はあまり深くは考えなかった。
実際に千佳に何かあれば、実家から連絡があって当然なのだ。
だが、いつまで経っても連絡は来ず、心配になった勇也は寝る前に電話を掛けてみた。
「勇也君……? ごめん、ね」
「どうしたの? 何かあった?」
「……ううん、なんでもないの。ちょっと眠くって」
「そっか、ごめんね。寝てたのかな?」
「うん、ごめん。……おやすみなさい」
通話はそれで終わってしまった。
明らかに様子のおかしい千佳が心配だったが、勇也はとりあえず次の日話を聞いてみようと思い、その日はそのまま寝た。
しかし、次の日、千佳は学校に現れなかった。
代わりに届いたのはメッセージだ。
勇也がそれに気付いたのは、届いてから一時間後のことだった。
『勇也君、ごめんね。裏切りたくなんてなかったのに、あなたを裏切ってしまいました。本当にごめんね。ごめんなさい。私はあなただけを愛しています』
「は? なんだよ、これ? どういう意味だよ?」
勇也は授業中にもかかわらず、立ち上がって千佳に電話をかけ始める。
「赤羽、今は授業中だぞ」
「電話させてください。千佳に何かあったみたいなんです」
「え、ああ……」
男性教師は切羽詰る勇也の様子に面喰い、焦る勇也を他の生徒たちは少し心配そうに見つめていた。
ただ一人、諒だけは勇也を見ることが出来なかった。
千佳に何があったのか、考えるのが恐ろしくて。
「駄目だ、繋がらない。そうだ、家に……」
しかし、コール音が鳴るばかりで誰も出る気配はなかった。
この時間なら当たり前ではある。
念のため、士郎の携帯にも掛けようとしたところで、反対に士郎から電話がかかってきた。
「士郎さん、何かあったんですか?」
「千佳が死んだ」
「は? 何言って……」
「千佳が死んだ。死んじまったんだ」
士郎の声は静かだった。
泣いてはいないが、いつもの覇気もない。
それは冗談を言っているような声音ではなかった。
「飛び降りちまった。学校に、行ったと思っていたのに」
(やめて、聞きたくない、そんな話……)
勇也はそれを声に出すことが出来ない。
聞きたくなくても、聞かなくてはいけない。
「あいつ、昨日は帰りが遅かったらしいんだ。俺は泊まり込みだったから……。ずっと元気もなかったらしくて。君と喧嘩でもしたんだろうって。でも、違った。襲われたんだ。千佳は自分で死んじまったけど、自殺じゃねぇ。殺されたんだ。遺書……手紙に名前があった」
士郎は次々と名前を読み上げ始めた。
勇也の頭は真っ白だ。
それでも、その名前は記憶された。一生忘れられない名前として。
どの名前も聞いたことのない名前だ。
だが、最後に読み上げられた名前に、勇也は聞き覚えがあった。
「なぁ、こいつは同じクラスの奴なんだろ? そこにいるのか? もしいるんだったらよぉ……頼む。そいつを殺してくれ!!」
士郎が泣いて絶叫する声を聞いた勇也は、携帯を床に落とした。
そして、一人机に突っ伏して震えている人物に向かって吠えた。
「大石諒!!」
彼は飛び上がり、ゆっくりと勇也を見る。
他の全員も、視線は諒に注がれていた。
「……違う、俺は悪くないんだ。悪いのは全部お前なんだよ、永倉」
勇也はゆっくりと諒に向かって歩いて行った。
勇也はひどい頭痛を味わっていた。
千佳が死ぬなんて有り得ない。
千佳が襲われるなんて有り得ない。
まずは行って確かめなくてはいけない。
でも、どこに行けばいいかわからない。
頭痛が止まない。
全部は目の前の男を殺してからだ。
「永倉、止まれ。お前何するつもりだ!?」
咄嗟に秀一が勇也を掴んで止めようとするが、勇也はその手を払いのける。
「おい、皆! 永倉を止めろ!」
男子数名が勇也を取り押さえようとするが、勇也は止まらなかった。
勇也が一歩、また一歩と諒に近づき、手を伸ばしたところでそれは起きた。
光、部屋一面の光だ。
まばゆい光が何もかもを呑み込んでいく。
そしてその光が消えた時、勇也たちは石畳の部屋の上にいたのだった。
とりあえず今回はここまでです。次はあんまり開かないようにしようと思います。