第九十一話 一か月
まず勇也は、今野千佳という人間がどういう人間か、少しずつ知るようになった。
彼女を一言で表すなら「愚直」だろう。
良い意味でも悪い意味でも、彼女は真っ直ぐなのだ。
彼女は宣言通り、勇也に自分を知ってもらうために、彼の周りをついて回るようになった。
HR前、業間、昼休み、放課後……。
僅か一日で勇也は辟易した。
ついて来るのが千佳一人ならまだしも、彼女の友人たちまでもセットで付いて来るのだ。
おかげで勇也は、初めて多くの人間とまともな会話をすることになった。
それだけなら、そこまで悪いことではないように聞こえる。無論、「勇也にとっては」という言葉を除けばの話だが。
ただ、問題なのはそこだけではない。
勇也はそれらの空き時間を勉強するか読書することに充てていた。
そのいずれもが学校にいる間は出来なくなってしまうという事が、彼にとってはストレスだったのである。
よってルールを決めた。
業間はなるべく勇也に話し掛けて来ないこと、その代わり、昼食には付き合うという事と、放課後もなるべく付き合うという事だった。
もちろんこの中で一番時間が長いのが放課後なのだが、一緒に勉強をするという事にすればその時間もあまり無駄にならないと勇也は考えた。
そうやって勇也は、今までとは全く異なる生活を送り始めた。
朝学校に来れば、必ず千佳が挨拶してくる。
千佳だけではない。彼女の友人たち、岡田秀一、山南芽衣、土方大翔、斎藤優樹菜、近藤咲良、彼らも当然のように勇也に挨拶し、会話するようになったのだ。
昼食時も千佳と二人きりではなく、彼らも一緒だった。
それでも放課後に彼らはついて来なかった。
彼らも千佳の性格はよく知っているため、二人きりにすることに一抹の不安は感じていたのだが、あまりお節介を焼き過ぎるのも無粋と思い、そこは自重したのだ。
しかしそれは失敗だった。
何も考えずに千佳の家について行った勇也は、
「のこのこ女の子の家について来るっていうのは、そういう事だよね!?」
という、千佳の理性を失った台詞と共に襲われた。
勇也自身、それを期待していなかったと言えば嘘になる。
だが、思っていたのと違う展開と、まだ恋人同士になったわけでもないのにそういう事をするのが嫌だったため、拒もうとした。
しかし、千佳の力が思ったより強かったのと、心から千佳を拒否していなかったため、勇也は上手く抗うことが出来なかったのだ。
間一髪それを救ったのは千佳の父である今野士郎だった。
理性を失っている娘の頭を殴るというやや荒っぽい止め方ではあったが、そうでもしないと止まらなそうではあったから、あの場では仕方ないと言えるだろう。
尤も、だからと言って、士郎が粗暴ではないかというと、とても否定はできないのだが。
だが、彼は勇也の出会った中で、一番まともな大人だった。
“まともな大人”の定義なんてもちろん存在しない。
しかし、勇也は士郎をそうだと思った。
士郎は娘を大切に想いつつも、一人の人間として扱っていた。
そして、彼は自分というものをよく知っている。
「俺は俺に出来ることをするだけだ」
士郎のよく言うセリフは、勇也の心に深く根付いたのだった。
また、士郎のおかげで勇也と千佳の関係はさらに深まっていった。
「なんだ、委員長って? 千佳、お前、永倉君のこと好きなんだろ? 永倉君もよぉ、よかったら下の名前で呼んでやってくれよ。あとよ、何で敬語? お前ら同級生だろ? なんか、こう、聞いててむず痒い」
人との距離を測らない士郎の言葉に、勇也は目を白黒させるが、それでも娘のことを想っているのはわかる。
千佳もまた名前で呼ばれることと敬語を止めてもらうことを望んだため、それ以来、勇也は千佳に敬語をやめ、お互い名前で呼び合うようになったのだ。
ついでに士郎も勇也のことを呼び捨てするようになり、「お父さんって呼んでも良いんだぞ」と悪戯っぽい笑顔を浮かべて言ったが、勇也はそれを丁重に辞退し、「士郎さん」と呼んだ。
さらに士郎は、勇也にとって一つの目標となった。
「そういや、勇也は体鍛えてんだってな。確かにその年にしちゃよく鍛えられてるように見える。よし、俺が訓練してやろう」
今野家には地下室があり、そこが丸々トレーニングルームとなっている。
士郎自身は、彼曰くそこまで給料が高いわけではないらしいのだが、彼の妻、つまり千佳の母親もかなり稼いでいて、二人合わせるとかなりの額になるらしい。
それで比較的大きな家と、地下にトレーニングルームを作ることが出来たのだ。
今野家のトレーニングルームには、ランニングマシンにバーベル、懸垂マシン、サンドバック、そして5×5メートルほどのマットが敷かれていた。
「何だ、目ぇキラキラさせて。気に入ったんならいつでも使っていいぜ」
公共のトレーニング施設と遜色のない設備が個人の家で揃えられている。しかもそれを自由に使っていいと言われたのだ。勇也が心躍るのも無理はない。
だが、それ以上に勇也の胸を高鳴らせたのは、勇也に訓練してやると言った士郎であった。
「勇也君、パパって本当に強いから気を付けてね」
わざわざ自宅の地下にトレーニングまで作ってしまうような人間だ。
そして士郎の鍛え上げられた体を見れば、勇也も彼が只者ではないことはわかっていた。
それでも千佳が心配するほどでもないと思っていたのだ。
勇也は今まで体を嫌というほど鍛え上げてきた。自分を守るため、自分の力に守ってもらうため。
だからそれなりに自信はあった。
「特にルールはねぇぞ。さぁ、いつでも掛かって来い」
それまで着ていたジャージを脱いで、Tシャツ一枚になった士郎が空手に似た、しかしそれとはどこか異なる構えを見せた。
着ているというよりは士郎の肉体に張り付いていると言った方が良いと思えるTシャツを見ても、勇也は臆することなくボクシングスタイルを取る。
そして、勇也はそのまま正面から突っ込んでいった。
自分より背の高くリーチも長いであろう士郎と戦うには、距離を詰めないといけない。
相手の出方を窺い、カウンターを狙っていくという戦い方もあるが、勇也の性には合わなかった。何より、勇也は今すぐ殴りに行くことを望んでいるのだ。
「やっぱり構えも動きもボクシングか。素人にしてはなかなかだぜ」
踏み込んでいった勇也に対して、士郎は構えているものの動きを見せない。
だが、勇也はそんなことは知るかとばかりに、踏み込んで行った勢いをそのまま拳に乗せて、左のボディブローを士郎の脇腹に叩き込んだ。
「ぐっ!」
士郎が呻き声を漏らす。
勇也はそのまま連打を打とうとするのだが、刹那の嫌な予感、そして士郎の上から勇也を見下ろす冷たい視線を感じて、慌てて動きを止め、飛び退った。
そして気付く。
今のボディブローは、勇也が自分の実力で当てたのではない。士郎に当てさせられたのだ。
士郎は初めからその一撃を受けるつもりでいた。受けた上で、倒れない自信もあったのだろうし、そこから反撃することもできたのだろう。
ダメージが無いというわけではない。
士郎は勇也のボディブローを、歯を食いしばって耐えているほどだ。
「なるほどな。素人とは思えねぇな」
士郎がなぜそんなことをしたのかと言えば、『永倉勇也という少年を見極める』。たったそれだけのためだった。
それが士郎にとっては、ダメージを負ってでも確認しなくてはいけない事だったのだ。
「この……」
試された。
勇也はそのことに気付いて呻き声を漏らす。
攻撃を当てたのは自分なのに、余裕を見せるのは士郎で、反対に追い詰められているのが勇也だった。
それは精神面だけではなく、やがて戦況にも表れ始めた。
勇也は変わらず踏み込んでいくが、士郎が上手く攻撃を躱す。やはりさっきのはわざと当たったのだと分かるような華麗な体さばきで。
そしてむきになって踏み込んでいった勇也に対して、カウンターの一撃が見舞われた。強烈な掌底が勇也の額にヒットし、勇也はそのままマットの上に叩きつけられる。
「確かにガキの喧嘩じゃあ負けなしだったろう。だけどな、世の中にゃあ強い奴なんていくらでもいる。もちろん、俺より強い奴だってな。勇也、お前はその程度の強さで満足か?」
「……まだやります」
「根性あるじゃねぇか」
そうして勇也は、士郎が家にいる時はこうやって稽古を付けて貰うようになった。
千佳はそんな男二人を見守るだけではなく、彼女自身もその稽古に加わった。
そしていつの間にか帰ってきた千佳の母親が勇也の分まで食事を作り、いつも四人で夕食を食べるようになる。
奇妙な関係ではあるが、勇也にとってそれは非常に心地良いものであった。
このまま本当の家族になってしまいたい。そう思えるほどに。
ただ一つ、自衛官幹部である士郎の「自衛隊に入んねぇか?」という誘いは、固辞し続けなければならなかったのだが。
勇也は毎日のように千佳の家へ通い続け、学校生活も千佳を中心とした様々な者たちと過ごすようになった。
驚くことに、紆余曲折有り、不良グループの田中騎士や凜華達とも親しくなったのだ。
勇也の世界は広がった。
それまであった殻は、誰の目にも見えない。勇也自身でさえ、その殻に触れることさえできなかった。
一か月で何もかもが変わってしまっている。
今の勇也は一か月前までの勇也とは最早別人だ。
もちろん勇也に限らず誰だって変化し続けている。
細胞は刻一刻と変わり続け、記憶も常に変化している。
昨日の自分と今日の自分が全く同じ人間など存在しない。
一度眠れば意識は完全に落ちる。再び目を覚ました時、自分は昨日までの自分だと、本当に言い切れるのだろうか。
それでも人間は常に自分が自分だと思って生き続けている。
勇也ももちろんそうだった。かつては。
だが、今ははっきりとわかるのだ。
以前の永倉勇也という人間は死に、今ここにいる自分は別の、新しく生み出された永倉勇也だ、と。
もう、かつての自分を取り戻すことは不可能だった。
一か月後のある雨の降る日、その日の放課後も勇也は千佳の家で、千佳と二人で体を鍛えていた。
士郎が不在の日は(というよりいない日の方が多いのだが)、千佳と二人で体を鍛えたり、当たる寸前で止める組手、ボクシングで言えばマスボクシングをしたりした。
その日も士郎は不在だったため、こうして千佳の家の地下でトレーニングしているのだが、そんな高校生らしくないデートにも千佳は文句ひとつ言わない。むしろ楽しんでいた。
普段であれば勇也も千佳と二人で過ごす時間を楽しく感じるのだが、その日ばかりは緊張があった。
あれからちょうど一か月が経ったのだ。千佳が勇也に告白し、一か月の猶予を求めてから。
トレーニングが終わり、シャワーを浴びてから千佳の部屋に二人は移動する。
千佳の部屋はあまり女の子らしくない部屋だ。というより、女の子の部屋を期待していなくとも、その部屋に初めて入れば引くことは間違いないだろう。
迷彩柄のカーテンに迷彩柄のベッド。ぬいぐるみや可愛らしい動物の小物の代わりに飾られているのは、モデルガンだった。
何度もこの部屋に訪れている勇也は、もう辟易したりすることもなくなっていた。だが、そういう話をするような雰囲気の部屋でないことには違いない。
それでも今日話すと決めたのだ。もう勇也は戻れないところまで来てしまったのだから。
「あ、あのさ、勇也君。なんならもう少し後でもいいんだよ。きっちり一か月じゃなくても」
ベッドに腰掛けた千佳はいくらか緊張した様子で、自分の隣に座る勇也を見つめる。
その勇也はというと、千佳とは違い、トレーニングしていた時のような緊張した様子はなく、ただ真っ直ぐと彼女を見つめていた。
「僕はずっと一人だった」
「うん、そうだね」
「苛められていた時もあるし、それにもずっと一人で戦ってきた。それでいいと思ってたんだ。自分だけ信用して、自分のためだけに生きていれば」
「うん。でも、今は違うでしょ?」
不安気な眼差しを向ける千佳に、勇也は頷く。
「そう、今は違う。僕は一人じゃなくなって、きっと前より弱くなった」
「そんなことないよ。勇也君、毎日すごく強くなってるよ」
勇也は苦笑いして首を横に振った。
「そういうことじゃないんだ。もっと、何て言うか人間として、っていうかさ」
「そんなこと……」
「なんにせよ、もう元には戻れない。僕はこの先、千佳なしじゃ生きていけない」
「じゃあ……」
勇也は千佳が何か言う前に、彼女の両肩を掴んだ。
その表情は真剣だ。
それは愛の告白のはずなのに、笑顔は一つもなく、なぜか凄まじさがあった。
「この先、何があっても僕はずっと千佳の傍にいる。もしも僕が君を裏切るようなことがあれば、僕は自分で自分を殺す」
千佳は勇也の気迫に、ただ眼を瞠ることしかできない。
「だから、もしも千佳が僕を裏切ったら、……殺すよ?」
『殺す』。それが勇也の愛の告白だった。
それでも千佳は微笑む。勇也の重い愛を受け止めて見せるように。
「うん、その時は殺して。勇也君を裏切るような私は、きっともう私じゃないから」
勇也は肩に置いた手をそのまま背に回し、千佳を抱き寄せた。
千佳も自ら勇也の厚い胸板に顔を埋める。
そして、一度体を離すと、互いに顔を寄せ、唇を重ねた。
そのまま二人はベッドに倒れ込み、体を重ね合わせたのだった。
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イーターは顔を上げて勇也を見つめる。
そして苦笑いした。笑顔と呼ぶにはあまりにも苦しそうな笑顔だ。
「何であんなこと、言っちゃったんだろう」
言わなければあんなことにはならなかったかもしれない。
イーターはそう言いたそうにも見えるが、それは言わなかった。
言っていてもいなくても、どうなっていたかはわからない。
過ぎてしまったことを変えることは出来ず、自分が言ってしまったという事実も変わらないのだ。
イーターが抱えているのは、後悔と終わることのない苦痛だけだった。