第八十九話 僕は君
「え? 今何て?」
勇也の声に応える者はいない。
そこに邪神の気配はなく、苦痛に呻く女の声と、肉を貪る音だけが洞窟内に響いている。
勇也はどうすればいいかわからず、目の前の男を見るしかなかった。
今なら勇也であれば、イーターのスキルを見ることができただろう。だが、勇也はそんな考えさえ浮かばず、ただ見ているだけだ。
と、突如イーターが苦しみ始めた。
体中から骨の軋むような異音が鳴り、髪が伸び、背が高くなっていく。
それと同時に勇也の失った右腕もまた、いつものごとく生え始めていた。
従属化することはできなかったようだが、その他の効果はしっかりと発動していたのだ。
そしてもちろん、その他の効果の中には回復能力も含まれていた。
勇也の目の前で、イーターの顔の火傷が消えていく。
「チェイサー、いや、僕なのか……」
火傷の下から現れた顔、まるで鏡を見ているかのようなそれに向かって、勇也が呟いた。
それは独り言だ。イーターに話し掛けたわけではない。
しかし、イーターはそれに答えた。
「チェイサー? ……そうか、あいつも僕なのか。道理で」
低い声だった。
それが自分の声なのか勇也にはわからない。
しかし、その顔は間違いなく自分だ。年齢もチェイサーより断然今の勇也に近い。
「君は僕なんですか? 永倉勇也なんですか?」
勇也の言葉に、イーターはきょとんとした顔を向ける。
だがすぐにうつむき、なぜか震え始めた。
「くふふふ……」
それは笑いだ。
答えを待つ勇也の前で、イーターは笑い始めたのである。
そして何がそんなに面白いのか、突如顔を上げ大声で笑い始めた。
「あははははは! そうか、そうなのか。君は僕だけど、僕じゃない」
「は?」
勇也が意味も分からず呆気にとられていると、またもや唐突にイーターは笑いを収めた。
そして勇也から視線を切りうつむく。
黙り込んでしまうかのように見えたが、イーターはそのままの態勢で話し始めた。
「僕は永倉勇也じゃない。赤羽勇也だ」
「赤羽……。やっぱり親父とお袋は離婚したのか」
相手が自分と分かったからか、勇也の口調は自然と敬語ではなくなっていた。
「ああ、離婚した。だけどそこはあまり重要じゃない。重要なのは君が永倉であり、僕が赤羽だということだ」
勇也は意味が分からず首を傾げた。
そんな勇也をイーターは鼻で笑う。
そして再び顔を上げ、勇也を見つめるのだが、その眼はぎらつき、狂気に彩られていた。
「君はまだ知らないんだ。命を差し出しても惜しくないと思えるような愛情も、身を砕かれるような憎悪も」
勇也はイーターを睨み返した。
それらの感情はいずれもこの世界で勇也が知ったものだ。いくら相手が自分だとはいえ、決めつけられるのは許せない。
だが、ふと思った。
ということは、イーター、つまり違う時間軸から来た言わば未来の自分は、この世界に来る前にそれらのことを知っていたということだ。
「僕は、君は誰かを愛していたのか?」
「ああ、僕は、君は将来かけがえのない、全てを捧げてもまだ足りないと思えるような恋人ができる。そして、……失うんだ」
「それは、誰?」
イーターは首を振る。知る必要はないと、諭すように。
「そんなことより、さあ、続きをしようじゃないか」
そう言ってイーターは構えた。
その構えは勇也と同じボクシングスタイルだ。いや、勇也のそれよりもはるかに洗練されている。隙というものが一切なく、強い圧を放っていた。
「今更、何の意味があって……?」
勇也も構えるが、思わずそう零していた。
これで自分に襲われるのは二度目なのだ。うんざりするのも無理はない。
だが、ただの愚痴だった勇也の言葉に、イーターが反応する。
「そうだな。もう意味なんてないな」
そう言ってあっさりと構えを解いてしまった。
その無防備さに勇也はどうすればいいかわからない。構えたまま、観察するしかなかった。
「もう意味なんてない。だから頼む。殺してくれないか?」
「は?」
それがイーターが構えを解いた理由だったのだ。
イーターに戦う意思はもうなかった。
ただもう何もかも終わりにしたい。それが今のイーターの本心だったのである。
「本気、なのか?」
イーターはただ頷く。
そんな彼の様子を見ながら、勇也はチェイサーのことを思い出していた。
彼は過去の自分を殺そうとしていた。それが自分自身のためなのだと確信して。
そして今のイーターの態度だ。
自分を殺したい自分と自分に殺されたい自分。ちょうど両者は符合する。
「ああ、そうだ。忠告しておくよ。もし君がこの先も生き延び、誰かと恋に落ちるなんてことになったら、……殺すんだ。誰かに奪われる前に」
「何を言って……」
「それが出来ないなら、何があっても守り抜くしかない。難しいと思うけどね」
イーターの「難しいと思う」という言葉は、まるで「お前には無理だ」と言っているようだった。自分には出来なかった、だからお前にも出来ない、というように。
勇也はそれに歯噛みした。
彼の言っていることは、ある意味では間違っていない。
勇也はアナベルを失った。花たちにとられて。
――それでも!
勇也はかぶりを振る。
イーターの言うようなことは決してできないのだ。
「僕は彼女を殺したりなんてしない!」
イーターは勇也の言葉に目を見開いた。
「なにっ?! そ、そうか。彼女と付き合い始めたのはまだ両親が離婚する前……。ということは、君はすでに彼女と付き合っている……。まさか、この世界にも彼女が来ているのか?」
イーターは小刻みに震え、両手で顔を覆った。
「会いたい! 会いたい会いたい会いたい!!」
叫んだかと思うと、今度は嗚咽を漏らし始める。
「うぅっ、頼む。一目で良いんだ。彼女に会わせてくれ」
勇也は困り果てて、どうしたものかと首を傾げた。
「あの、えっと、多分勘違いしていると思うんだけど、僕の恋人は……」
「ああ、僕の恋人は……」
「アナベルだよ」
「千佳だ!」
辺りが静かになる。
その静寂の中で、時が止まったように、勇也とイーターはお互いの顔を見合わせたままだった。
暫くして、
「えぇぇぇぇぇっ!?」
絶叫を上げたのは勇也(羽のある方)である。
イーターは眉間にしわを寄せ、小声で「誰?」と呟いていた。
「僕ってあのまま日本にいたら千佳と付き合うの? 何で?」
「何でって言われても……。その前にアナベルって誰だ?」
「ゴブリンだよ。ゴブリンの女の子」
「はぁ!? ちょっと待て、君は正気なのか!?」
「今は正気だけど?」
「『今は』って何だー!?」
混乱ここに極まれり、という風に、勇也は「何で? 何で僕が千佳と?」と頭を傾げ続け、イーターはイーターで、「何で? 何で僕がゴブリンと?」と頭を抱えている。
暫く二人はお互いにそうしていたのだが、先にイーターが落ち着き、ドカッと冷たい岩の上に腰を下ろして勇也を見上げた。
「で、結局、千佳はこの世界に来ているのか?」
「あ、うん。来てるよ」
「こいつ、あっさりと。自分自身のはずなのに苛立たしい……。まぁいい。その、無事なのか?」
「今は知らないけど、多分大丈夫じゃない?」
イーターの額に青筋が浮かんだ。
勇也はそんなイーターの様子を、首を傾げながら観察していた。
彼が自分自身であることは間違いない。なのに、所々で違和感を感じるのだ。口調が荒かったり、キレやすかったりなど、これが本当に自分なのかと。
やはり、イーターは勇也の経験しなかった何かを経験してきているのだ。人格が変わってしまうほどの何かを。
「もういい。彼女が無事なら、僕が必ず助けてみせる。今度こそ」
「ねぇ、何があったかは教えてくれないの?」
イーターの獰猛な目つきが勇也を捉えた。
しかし、勇也は引かずに真っ直ぐ彼を見つめている。
それは覚悟を決めているというのとは少し違った。
単純に知りたいというのは好奇心だ。
知ったところで、自分には関係ない。そんな一種の諦念が勇也の本心であり、その諦念が今の勇也の心にどっかりと腰を下ろしているものでもある。
「ふん、まるで他人事だな。まぁいい、教えてやるよ。聞いてもまだそんな余裕な態度でいられるとは思わないけどね」
勇也は知らずに唾を飲み込んでいた。
イーターには勇也を気圧するほどの何かがあったのだ。
「その前に聞かせてくれ。ここにはあいつも来ているか?」
「あいつって?」
「大石諒。一年の時から同じクラスだった奴だ」
勇也は首を傾げた。
「そうか、君はそういう奴だった。ほら、糸目で、しょっちゅう僕に突っかかってきた奴だよ」
そこで勇也は漸くそれが誰かを思い出し、頷いた。
それを見たイーターの目が大きく見開かれる。
目には燃えるような憎悪の炎を滾らせ、彼の纏う雰囲気は荒れ狂うほどの殺意で塗り込められているというのに、彼の口の端だけが笑みの形に吊り上がっていく。
「そうか、それは良かった。あいつは一度殺しただけじゃ足りなかったんだ」
まるでそれは、もうすでに一度殺しているかのような言い方だった。
勇也がどういうことなのか問う前に、イーターが口を開く。
彼自身の過去。そして勇也にとっては有り得た未来の話を。
「始まりはそう、あのシュプレヒコールだった。僕に向かって『死ね』という……」
次話からイーターの回想編に入ります。ストックあるのですが、一気に上げてしまいたいので、書き上げ次第投稿しようと思います。