第七十九話 対チェイサー
本日一話目。前日に三話投稿しています。
この世には生まれてきたことを呪うくらいの苦痛がいくらでもある。
彼はそれを知っていた。
そして彼らが自分と同じ運命を辿ることも。
ならば、そんな苦しみを彼らが味わうくらいならば、その煉獄の中で苦しみもがき続けるくらいならば、いっそこの手で終わらせてあげよう。
それは悪意ではない。心からの慈愛なのだ。
だが、勇也は死なない。
その程度の優しさで、たかが銃弾二発くらいで、勇也を殺すことはできない。
「コトネ、コトネ、琴音、ごめん、ごめんなさい……」
再び息を吹き返し、独り言を始めた勇也に、チェイサーは仮面の下で目を細める。
「なるほど、『食用人間』ですか。どんなゴミスキルかと思いましたけど、不死の効果があるとは、厄介な」
銃は効かない。
それがわかっているはずなのに、チェイサーは拳銃を勇也に構えたままだった。
その射線の間に、ツヴァイが恐怖を押し殺して、割って入ってきた。
相手は絶対的な強者。しかし言葉が通じる。もしかすれば説得することができるかもしれないと思って。
「あんたチェイサーって言ったな? なんだってうちの坊やを襲おうとすんだ!?」
「坊や?」
チェイサーは首を傾げた。
それもそうだろう。
勇也とツヴァイはどう見たって親子ではない。
狼に育てられた少女というのは聞いたことのある話だが、この世界で魔物に育てられた人族というのは、聞いたことのない話だったのだ。
アナベルや陸など、例外はあるかもしれないが、少なくともチェイサーは知らなかった。
「何を言っているのかよくわかりませんが、別に彼に恨みなんてありませんよ。いや、やっぱりあるかな……。ま、ともかくあなたには関係のない話だと思うんですけどね」
しかしチェイサーは勇也とツヴァイを交互に見ると、合点行ったというように頷いた。
「ああ、そうですか。『食用人間』というのは、己の肉体を対価に魔物を隷属化させる能力なんですね。私は持っていないんでわかりませんでしたよ。
それにしても、隷属化させた魔物と家族ごっことは……。趣味が悪いというより、もうそこまで壊れてしまっていると思ったほうが良さそうですね」
ツヴァイは頷く。
少しでも哀れらしく見せておけば、相手も手を緩めるだろうと思ったのだ。
だが、チェイサーにそんな小細工は通じない。
次の瞬間、しっかりと咥えていたはずの勇也が目の前から消えてしまっていた。
「なっ!?」
ツヴァイが慌てて辺りを見渡せば、かなり離れた砂丘の上に、勇也がチェイサーに首を絞められ持ち上げられている。
勇也の首はぎりぎりと締め上げられ、このままでは窒息する前に首がへし折られそうな勢いだった。
「君は家族なんて持つべきではありません。大切な人を守ることも、その人の死を受け入れることもできないのですから」
「やめろーーー!!」
ツヴァイの咆哮など嘲笑うかのように、チェイサーは勇也の首を力任せに締め上げ続ける。
「あ、ぐ、がが……」
勇也は手足をばたつかせ苦しみ、やがて口から泡を吹いて白目を剥いた。
チェイサーは勇也の息の根が止まったのを確認すると、そのまま両手で勇也の顎に手をかけ、一気に捻った。
骨の砕ける音がし、勇也の顔は真後ろを向く。
通常であれば、この状態で生きていることはありえないだろう。事実、チェイサーは勇也の心臓が停止したのを確認しているのだ。
「僕が、僕がいなければ……」
それでも、勇也は死なない。
たとえ首を折られようが、また何事もなかったかのように息を吹き返す。
「まぁ、そうでしょうね」
だが、チェイサーも勇也が死なないことはわかっているようだった。
二度目の復活は驚きもせず平然と受け止めている。そしてまた何事かを呟きだした勇也の襟首を掴んで立たせた。
「くそっ! 坊やから手を放せ!」
ツヴァイはこれ以上勇也を傷つけられないために、必死にチェイサーに向かっていくのだが、チェイサーがもう目の前まで迫ったと思った瞬間、その姿は蜃気楼のように掻き消えていた。
ついさっきまで一緒に旅をしていたジェヴォも、相当の速さだった。いや、瞬間的な速さだけならジェヴォの方がチェイサーよりも速いのだ。
ジェヴォは一瞬だけなら光速に近い速度を出せる。
それに比べると、チェイサーは確かにそこまでの速さではない。だが、チェイサーは常に音速で動き続けることができた。
音速だろうが、光速だろうが、ツヴァイにしてみれば手に負えない速度であり、それが一瞬だけなら対処もできるかもしれないが、常にその速度で動き続けられれば、手も足も出ない。
つまるところ、ツヴァイには何もできないのだ。勇也が甚振られるところを、指をくわえて見ているしかなかった。
「僕のせいで、僕がいなければ……」
また別の砂丘の上に現れたチェイサーが、ナイフを取り出す。
勇也は仰向けに転がされており、胸をチェイサーに踏まれ身動きを封じられていた。
「無駄死にですね」
その瞬間、今まで虚ろだった勇也の目がぎょろりと動いた。
見開いた眼で、自分を足蹴にするチェイサーを凝視する。
「……今、何て言った?」
「死んだところで救われない。君を救うことだってできない。何も変わらない。で、あれば、その死は無駄だったとしか言いようがない」
勇也の中で、バラバラに砕け散っていた心が集まり始める。
そして叫ぶのだ。
――違う……違う、違う、違う、違う違う違う違う違う!!
「お前に何がわかる……?」
その声は、自分を失って子供に戻っていた勇也の声ではない。
無邪気さなど皆無で、憎悪と敵意を剥き出しの、そう、つまりそれは元の勇也だった。
「くふふ、わかりますとも。君より長生きしているのでね」
勇也が自分を踏んでいるチェイサーの右足を掴む。
力を籠め、そのまま投げようとするのだが、チェイサーはびくとも動かなかった。
それどころか、足にはますます力が加わり、勇也の肺を圧迫する。
さらに手に持っていたナイフを首に向かって振り下ろしてきた。
「やってみろ。僕は何度だって甦る……」
チェイサーの振り下ろしたナイフが勇也の首に深々と刺さる。
勇也は何も言わない。
ただチェイサーを睨みつけるだけだ。
頭部が胴体から切り離され、命の輝きが消えるその瞬間まで。
「これでもダメですか。本当にしつこい……」
切り離された首は、切断面からまるで芽を伸ばすように赤い肉が伸び始め、胴体側の切断面とくっつくと、そのまま何事もなかったように元に戻ってしまった。
勇也の瞳は再び光を取り戻し、また先ほどと同じようにチェイサーを睨んでいる。
「無駄死になんかじゃない」
勇也はチェイサーが足を離した隙に羽を使って起き上がり、そのまま宙に浮かんだ。
手にはエカレスが握られており、銃口はチェイサーに向けられている。
「死んだ命は元に戻らない。それとも魂が救われるとでも言うのですか? 魂なんて存在しませんよ。人間は機械と変わらない。ただ機械より精密なだけ。死んだらそれで終わり。後には機能を停止した肉体が残るだけです」
「確かにそうかもしれない。だけど、記憶は残る。僕の中に彼女の記憶が残っている。彼女を知らないお前がどう言おうが、僕にとっては無駄死になんかじゃない!」
それが勇也の見つけ出した答えだった。
いまだアナベルを裏切ってしまったことへの絶望が消えたわけではない。それでも、琴音の死を否定されたことにより、勇也は彼女の死を受け入れることができたのである。
「彼女の死を、受け入れるというのですか……?」
チェイサーの纏う空気が変わった。
さっきまでは確かに勇也を躊躇なく殺していたが、それでも勇也に対して哀れみや同情のような感情を窺わせていたのだ。
そういった温かさのようなものが消え去り、底冷えするような気配が辺りに漂っていた。
「そんなことは許さない。お前が彼女の死を受け入れるというなら、お前の偽物の家族たちを、今この場で殺してやろう。それでも同じセリフが言えるのか?」
勇也の背に冷たい汗が流れる。
一体この男は何だというのか。なぜ琴音のことを知っているのか、なぜ勇也のことを知っているのか。
先ほどから勇也が話しているのは暴君ではなく琴音のことだったが、チェイサーもまた、どうやらついさっき命を落とした暴君のことを言っているようではないのだ。
得体の知れない不気味さを持っているが、まずは倒すこと、それが敵わないならせめてツヴァイたちだけでも逃がすことが必要だった。
「ツヴァイ! お前は妹たちを連れて上の階層に逃げろ。どこかにクロたちがいるはずだ。彼女たちと合流するんだ」
「坊や……。いや、旦那。アンタを置いて逃げるなんてできるわけないだろ!」
「いいからとっとと逃げろ! 頼むから守らせてくれ。僕たちは仲間だろ?」
ツヴァイは勇也を見つめる。
すると、勇也が微笑んで見せた。
それはツヴァイが初めて見る本当の勇也の顔だ。
「暴君の死も、フュンフの死も僕は受け入れる。彼女たちの記憶も想いも胸の中にある。だからこいつを倒して生き残ってみせるよ」
「旦那……。わかったよ」
勇也の不死性を信じたツヴァイが、踵を返してその場を離れようとする。
すぐに追撃されることを見越して、勇也はツヴァイの前に立ちはだかった。
チェイサーの姿が消えた。
どれくらい対抗できるかはわからないが、絶対にここから先には行かせない。勇也はそう決意し覚悟を決めるのだが、次の瞬間顔面に強い衝撃が加わり、何が何だかわからないまま、勇也は砂漠に墜落していた。
「くふふふ、まさか自分のところにまっすぐ来るとは思わなかったんですか? あははははは! さっきのあれは嘘ですよ。いくら殺人鬼と呼ばれる私でも、無差別に人を殺したりはしませんからね。いや、あれはトカゲですが」
勇也は顔面を抑えて立ち上がった。
目の前の仮面の男を倒す方法はあるのか。いや、ない。それでも屈するわけにはいかないのだ。仲間の死を無駄だと言うこの男には。
「仮面……? そうか、仮面の男か」
勇也が思い出したのは邪神ユヒトの言葉だった。
いつか仮面の男と対峙する時が来る。
勇也はてっきり凛華から話を聞いていた、鉄仮面の理性なき食人鬼のことだと思っていたが、この男のことだったのかと思い至った。
そしてユヒトは言っていた。対峙することがあれば、仮面を狙えと。
「やってみるか」
勇也が背中からサイコファンタムを取り出し構える。
狙うのは仮面、その破壊だ。
「また随分厳ついものを持っていますね。ハンニバル・モデル・ライフルですか。S&W M500といい……。まぁ、私もあまり人のことは言えませんが」
銃に詳しい。
まず間違いなくこの男は日本人だ。
勇也よりも背が高く、一回りはがっしりとした体格のようだが、後ろで束ねた長髪の色は黒だった。
何者なのかは気になるが、倒すのが先決だ。
勇也はサイコファンタムの照準をしっかりとチェイサーにつける。
チェイサーは自然体で、まるで身構えている様子がない。それにもかかわらず、勇也の直感は言っていた。絶対こいつには当たらないと。
「それにしても、それほどあのトカゲが大事ですか?」
「お前にはわからないだろうけど、大切な仲間だ」
「命を捨てて守るほどの、ね」
勇也は唇を噛んだ。
ツヴァイには悟られなかったが、チェイサーには感づかれていた。いや、分かっていたからこそ、ああやって勇也を何度も何度も殺していたのだろう。
勇也はこうして飛びながらチェイサーを狙っているが、狙っているだけで限界なのだった。もうすでに、体力が尽きかけているのだ。
「さて、体力が満タンの状態では死なないようでしたが、君は死ぬたびに体力が減っていました。そして、そのほとんどゼロの状態で死ぬとどうなるんでしょうね?」
仮面の下でチェイサーが微笑む。
だが、勇也もまた笑い返した。
「やってみろ」
「それではお言葉に甘えて。火よ! 熱き炎を司りしサラマンダーよ!」
それは勇也の使う最大火力の魔法と同じ詠唱。
食らえば跡形も残らないだろう。
ならば、最後まで唱えさせなければいい。
ズドォォォォォンっ!!
サイコファンタムの引き金を引く。
爆撃のような一撃がチェイサーを襲うが、チェイサーは避けない。だが、当たったと思われた瞬間、飛んでくる弾が見えているかのように、何気なくチェイサーは躱して見せたのだ。
「ここにその力の一端を具現させよ! 灼熱の星を生み落せ【プラネットフレア】」
しかしそれは勇也の作った囮だった。
初めから避けられるとわかっていて撃った。
狙いはその次の弾。
サイコファンタムの後に続けて撃ったエカレスの弾丸だった。
今度こそ当たった。
勇也はそう確信する。
しかし、
「さっきから何なんですか? 仮面ばかり狙って」
チェイサーは弾丸を避けていない。それにもかかわらず、命中しなかった。
なぜなら、チェイサーが自分に向けて撃たれた弾丸を、指で摘まんでいたのである。
勇也の頭上に巨大な炎の塊が生み出される。
もうすでに体力は使い果たし、勇也に避けることはかなわない。
「ダメだったか。ごめんね、みんな。……アナ」
勇也が諦め切った表情でチェイサーを見たとき、彼は自らの仮面に手をかけるところだった。
「そんなに見たいなら、どうぞ。私が、僕がどうして君のことを知っているのかわかるでしょう」
勇也の体が炎に包みこまれる瞬間、勇也の目に映ったものは、よく知る顔だった。
「え?」
日本人にしては彫りの深い顔。
日本にいた頃に何度も見た顔だ。
――僕?
勇也と全く同じ顔ではない。
明らかに三十近くであるし、背格好も違う。
だが、それは見間違えることができないほど、自分の顔にそっくりだった。
そう、ちょうど10年も歳を取ればああなるだろうと思わせるほどに。
――何で?
燃えて溶け行く勇也のその言葉は声にならない。
大きな疑問を残したまま、勇也はその場から消滅したのだった。
また二時間後に。