第七十四話 お母さん
オアシスといえば、なんとなく地下水をイメージすることが多いだろう。
実際には川などを水源としていることもあるのだが、勇也たちの辿り着いた、というより、この階層にあるオアシスはすべて前者である。
後者のオアシスの方が、規模が大きくなることが多い。つまり、この階層のオアシスはどれもあまり面積を持っていなかった。
それだけ見つけることも難しいため、赤熱の魔女、イザベラ・スカーレットやジズの雷を始めとする上級冒険者たちは、経験によってオアシスの位置をしっかりと把握し、迷わないようにオアシスを経由しながら先を目指すのだ。
本来であれば、初めてこの五階層に来た者がいきなりオアシスを発見することなど不可能に近い。
それにもかかわらずそれを可能にしてしまったのが、勇也を始めとする一行のポテンシャルだといえた。
だが、そこには多かれ少なかれ運は必要だ。
一度のマッピングもなしに辿り着いてしまった彼らは、どれだけ強運だったのだろうか。いや、それとも、彼らは何者かによってここに導かれたのか。
当然勇也たちはそんなことまで考えず、代わり映えのしない砂漠の中で見つけたオアシスで、ゆっくりと休息を取っていた。
ただし、このオアシスにいた先客、でかいサソリや蜘蛛、ホブゴブリンなどの魔物をまとめて片付けてから。
おかげで清浄なオアシスは、周りの木々や地面などが血濡れになり、臭いも立ち込めているのだが、それを気にする者はこの中にはいない。
誰もが水を飲んだり寝そべったりと、思い思いに休息を取っていた。
そんな中、勇也だけは相変わらず陸とカトリーナをじっと睨んでいる。
「旦那も水でも飲んだらどうだ?」
見かねたツヴァイが勇也に声をかけた。
妹たちも、勇也に体を寄せて水場へと押していく。
勇也はされるがまま、呆けた顔をツヴァイに向け、「ええ、そうですね」と言いながら引きずられて行ってしまった。
勇也はそのまま木々に囲まれたオアシスの中央にある水の中へと落とされてしまったのだが、ずぶ濡れになってもそれを気にした様子はない。
ただ水面に映った自分を見つめているだけだ。
勇也の脳裏にあるのは、もちろんアナベルのことである。
今までは無意識に、そして意図的に現在のアナベルの姿を思い出し、そのためだけに行動してきた。
だが、今勇也の思い描いているのは、出会ったばかりのちんちくりんのゴブリン、初めて勇也に愛情を与え、勇也が愛情を注いだあのアナベルの姿であり、そのアナベルと一緒に過ごす自分の姿だったのだ。
ツヴァイは水面をじっと見たまま動かなくなった勇也を見守っていた。
ここ最近、狂ったような笑みを見せる頻度の減った勇也であるが、明らかに今の姿はその狂気を宿した姿より痛ましい。
以前は恐怖を感じていた分、今の意気消沈した姿はただただ哀れに見えた。
やはり原因は愛するゴブリン、アナベルを失ったことなのだろう。ツヴァイはそう考えると同時に、何か自分にできることはないかと考える。
せめて傍にいよう。今は水遊びをしていて勇也のそばから離れている妹たちが、普段そうしているように。
ツヴァイは意を決して近づこうとするのだが、突如として勇也が声を上げ始めた。
たまに見せる発狂したような咆哮ではない。
「うぅぅぅ、うっ、うぅぅぅ」
(唸っている……?)
ツヴァイは一瞬首を捻り、すぐに違うことに気付く。
これは、そう。泣いているのだ。
「だ、大丈夫か、旦那!? どうかしたのか!?」
ツヴァイは慌てて勇也に駆け寄る。
すると、勇也は突如ツヴァイの首の辺りに抱き着いてきた。
「えぇっ!?」
ツヴァイが驚くのも無視し、勇也はついに声を上げて泣き始めた。
「うあぁぁぁっ、アナ、アナ、アナ! あぁぁぁっ! アナァァァァァッ!」
その場にいるすべての者たちの視線が集まる中、勇也はひたすら声を上げて泣き続ける。
ツヴァイに掛けられる言葉はない。
ただ自分の主の姿が痛ましく、胸が張り裂けそうな思いを抱くだけだ。
だから出来ることと言えば、勇也を優しく抱きしめてあげることだけだった。
誰もがそっと見守る中、徐々に光が消え、辺りは闇に包まれていく。
一晩が経ち、勇也は目を覚ました。
最近はいろんなことが曖昧になっているが、昨夜は特にひどく、何もかもを失って寂しくて恐ろしくてただ泣くしか出来なくなっているところを、一生懸命トカゲに縋りつくという夢を見たのだ。
いや、それが夢なのか現実なのか勇也にはわからない。
しかし、目を覚ましてすぐに目の前に入ったのが夢で見たそのトカゲだったから、勇也はひどく安堵した。
「ツヴァイ……」
思わず自分で名付けたその名を呼ぶ。
だが、勇也は自分で自分がその名を付けたことを覚えていなかった。
ただ条件反射的に呼んだに過ぎない。
なぜなら、すでにこの時勇也は……。
「旦那、眼ぇ覚めたのか。……その、大丈夫か?」
名前を呼ばれたツヴァイが勇也に目を向ける。
ツヴァイは勇也と一緒に横になっているが、寝ていたわけではない。そのため、意識もはっきりとしていた。
故に、勇也の表情は彼女の見間違いなどでは決してない。
いつも不気味な笑顔を張り付け、ここ最近では不機嫌な表情をしていた勇也が、はっきりと爽やかな笑顔なのだ。
泣いて気が晴れたのか。ツヴァイはそう考えたのだが、それは大きな誤解だった。
「うん、大丈夫だよ。お母さん」
「ん? おか……おおう!?」
ツヴァイは横たわっていた草地から飛び起きる。
まだ横になっている勇也は不思議そうに彼女を見つめていた。
やはり表情は今までで一番まともだ。しかしそれが逆にまともじゃないともいえる。
「あははは、どうしたの、お母さん? 早く顔を洗お」
勇也はそう言うと、地を蹴り羽ばたいて水場までへと向かい顔を洗い始めた。
その様子をツヴァイだけでなく、すでに起きていたゼクスや陸、カトリーナまでもが訝しんで見ている。
「永倉、元気そう」
陸は暢気にそんなことを呟くが、ツヴァイはそれどころではない。
今までも頭のネジが飛んでいた勇也であるが、今度はその上を行っている。完全に壊れてしまったとしか思えなかった。
ツヴァイが呆然と見守る中、勇也は何事もなかったように戻ってくる。
ツヴァイに笑顔を振りまき、その笑顔をゼクスや陸、カトリーナにも向けた。
「ゼクスお姉ちゃん、陸くん、カトリーナさん、お早うございます」
「く、くいー」
「お、お早う」
「……」
さすがの陸も勇也の異変に気付く。
昨日までとは明らかに様子が違う、どころか、こんな笑顔の勇也は見たことがない。
一同が唖然とする中、今まで寝ていたはずのジェヴォがいつの間にか輪に加わり、口を開けて欠伸して頭をガシガシと掻きながら勇也の様子を見ていた。
その勇也はいうと、ドライとフィアーに向かっていき、魔法で作った水を顔にかけて起こしている。
二体は突然のことに絶叫を上げるが、勇也は「いつまでも寝てるのが悪いんだよー」と嬉しそうだ。その顔は文字通り悪戯が成功した子供である。
「あれは完全に壊れたナ」
まるで他人事といった具合で呟くジェヴォに勇也が気付き、笑顔で駆け寄ってきた。
「おじちゃん、お早うございます」
「ああ、お早う」
ジェヴォは何でもないように返し、そのまま砂漠に向かって歩いて行ってしまう。
その間もツヴァイはどうすればいいかわからず、勇也の顔を凝視したままだ。
「コトミってば、まだ寝てる」
「……誰?」
勇也の突如出した名前に、心当たりの全くないツヴァイが唖然とするのも無理はない。当然それがすでにこの世にいない勇也のかつての仲間の名前だとは、思いつきもしないだろう。
一応この場にはクラスメートの陸もいるが、彼がクラスメートの下の名前を一々覚えているはずがなかった。
結果勇也の行動でそれが誰だか確認するしかないわけだが、勇也の足、というより羽はまっすぐ暴君に向かっていく。
つまり、今の勇也にとって暴君こそが琴音なのだ。
一連の勇也の動きを見ていた陸がツヴァイを向く。
「永倉、どうしたんだ?」
聞きたいのはツヴァイとて一緒。
陸の隣でカトリーナが自分の頭を指して失礼なジェスチャーをしているが、それを咎める気も起きなかった。
いっそのこと気付かなかったことにして、このまま放置しておきたいがそういうわけにもいかず、ツヴァイは一つずつ状況を確認していくことにする。
なんとか食事しながら事情聴取を終え、ツヴァイ、ゼクス、散歩から戻ってきたジェヴォ、陸、カトリーナは木の陰で休んでいた。勇也とドライとフィアー、そして暴君改めコトミは、呑気に水を掛け合って遊んでいる。
さすがにゼクスは主の異変に気付いたようで、彼らと一緒に遊ぶことなく、ツヴァイたちの集まっている木の陰で、無邪気に遊ぶ勇也の様子を見守っていた。
「永倉も大変なんだなー」
呑気なのは勇也たちだけではない。
ずっと他人事だったジェヴォはもちろんのこと、陸やカトリーナも、始めこそ驚きはしたものの、今となっては対岸の火事といった様子だ。
そんなウェアウルフの群れに、ツヴァイは恨みがましい視線を向けた。
状況はわかったものの、これからどうすればいいのかツヴァイにはわからないのだ。
その分かった状況というのは、どうやら勇也は一時的に子供、だいたい十歳くらいまで精神が戻ってしまっているらしいということである。
さらに今の自分の立場も、無理矢理ねじ曲がった形で認識してしまっていた。
ジェヴォのことを母親、妹たちを自分の姉だと思い、暴君を一番下の妹だと思っている。陸の認識はクラスメートのままだが、カトリーナを陸のガールフレンド、ジェヴォを陸の父親だと思っていた。
そして自分たちは今遠足に来ており、他の班もどこかにいて、その中には自分のガールフレンド、アナベルもいるというのだ。
そんな無茶苦茶なことを、笑顔で楽しそうに話す勇也に、ツヴァイは何と言えばいいのかわからなかった。
「ま、いいんじゃないカ。本人は幸せそうだしナ」
頭を抱えるツヴァイに、ジェヴォは気軽に声をかけた。
他人事だと思って、とツヴァイは再び恨みがましい目をジェヴォに向けるのだが、確かに彼の言う通りではあるのだ。
勇也が幸せなら、無理に本当のことを言って聞かせる必要はないのではないか、ツヴァイは本当のことを言うべきと思いつつも、その考えが頭から離れなかったのである。
「このままで通すしかねぇか……」
色々と無理はある。いや、どう考えても無理ばかりだ。
しかもツヴァイは遠足というものが何なのかいまいち理解していない。遠足なのになぜ親が参加しているのか、などツッコミどころは満載だった。
それに、ツヴァイたちは知らないのだ。かつて失った仲間を、勇也がなかったことにしているなどとは。
「あれ? 旦那、じゃなかった。坊やはどこ行った?」
このまま通すと決心したツヴァイが顔を上げると、さっきまでオアシスの中心で泳いでいた勇也の姿が消えていた。
一緒にドライ、フィアーを見ると、二体は下を向く。
「潜ったのか?」
「くー」
「くえー」
そうだよと、二体が揃って答えると同時に、潜っていた勇也が水面から姿を現した。
「お母さーん、下に変なドアがあるよー」
勇也は嬉しそうに声を上げる。
その扉の存在、いや、そこで誰が待ち受けているのか忘れてしまったように。