第七十一話 砂、砂、砂
五階層、風針地獄。
身を焦がすような暑さが訪れる冒険者の体力を容赦なく削る。さらには時折強い風が吹き、細かい砂がまるで針のように突き刺さってくるのだ。
その光景は一言でいうなら砂漠だった。ただし、普通なら存在するはずの太陽が存在しない奇妙な砂漠だ。
そんな辺り一面砂しか見当たらない光景を、二人の人族と七体の魔物が歩いていた。
それは統一性のない珍妙な一団だといえる。
一番目立つのは体長が悠に十メートルを超える魔物、ドラゴレックスの暴君。彼女が最後尾を歩き、その前には背中にバラの刺繍が施されたストラを羽織った、一見すると神父にしか見えない、しかしまるで悪魔のような翼を生やした勇也が宙に浮いている。さらにその前には少し距離を置いて、外套を羽織った長身の陸と、その陸にぴったりと寄り添うように歩くウェアウルフ、カトリーナがいた。
実はその間、陸の後方、勇也の真下には姿を隠した四体のドラゴニクスたちもいる。
彼女たちの索敵能力は優れており、本来であれば最前列を歩いているのだが、今最前列にいるのは銀の牙、ジェヴォだった。彼の嗅覚はこの中で最も優れており、少なくとも彼らの間でジェヴォの索敵能力の右に出る者はいない。
彼らはどう見てもこの砂漠に適した格好をしていないし、砂漠に適した種族とも言えない。しかし、彼らの中に疲れを見せる者はあまりいなかった。
この中でも特にステータスの高い暴君、次いで勇也はもちろんのこと、四階層でもステータスが高い部類に入るドラゴニクスの姉妹たち、そして急成長を遂げたジェヴォもまた、これくらいの環境は苦にならなかったのである。
唯一疲れを見せているのは、まだギリギリ人間の枠を出ていない陸と、彼に寄り添うカトリーナだけだ。
それでも二人(一人と一体)は弱音を吐くことなく、この文字通り人間離れした一団について行っていた。
「少し休憩にしましょうか」
勇也が突如先頭まで移動し、振り返って全員に聞こえるようにそう言った。
無論、勇也が休む必要はない。
それが誰のために言った言葉なのか、さすがにそれくらいはわかった陸が抗議するように勇也に目を向けた。
「まだ大丈夫」
「あなたはね」
勇也の視線が陸からその隣にいるカトリーナへと移った。
陸は自分よりも体力の消耗が激しいカトリーナを見やり、苦い顔をして再び勇也を見上げる。
「わかった、すまない」
勇也は何も言わず、憮然とした表情で陸たちから視線を外した。
「過保護な奴ダナ」
カトリーナの親であるはずのジェヴォにそう言われても、勇也は何も言い返さず不機嫌な表情のままだった。
勇也の様子は一見すれば、気の合わない連中といやいや一緒に旅をすることになってしまって、機嫌が悪くなっているだけのようにも見える。
だが、これまでの勇也の様子を知っているツヴァイから見れば、勇也のその態度はまともではないと言えると同時に、好ましいものでもあった。
感情というのは常にフラットなのが普通だ。
それが勇也のように、どこかに振り切れてしまっているのは、まともであるとは言い難い。
今は確かに機嫌が悪く、つまり怒りに近い状態だが、怒りに振り切れているわけでなかった。
勇也のこの状態は、ツヴァイの知る限りでは邪神ユヒトと話していたときと同じくらいまともなのである。
――しかしその原因は何か?
ツヴァイは今までなるべく聞かないようにしていたのだが、というより、怖くて聞けなかったのだが、少しでも事情を知っていそうなジェヴォと、勇也のかねてからの知り合いだという(勇也はあまり覚えていないのだが)陸が加わったため、勇也にかつて何があったのか、気になり始めて来ていた。
「ここで休むって言うんナラ、とりあえず俺は周りを見てくるゼ」
「好きにしてください」
勇也たちは何もない砂漠の真ん中で一時休憩を取ることにしたのだが、暴君が体を横にしたことで大きな影ができ、自然とその周りに他の者たちが集まってきていた。
その中でジェヴォはじっとしているのが落ち着かないというように、休む様子すら見せずにそう言った。
そして元から返事など聞く気がなかったのだろう。ジェヴォは勇也が答えるよりも早くその場から離れていたのだ。
そんなジェヴォに、慌てて陸が追い縋る。
「師匠、俺も行く」
「お前は休んでイロ。この砂の海は、前の密林より厳シイ」
陸はうなだれるが、その腕を後から追いかけてきたカトリーナが引いた。
それで陸は考え直したらしく、大人しく彼女と休むことにしたようだ。
そんなジェヴォの様子を、ツヴァイは目を細めて観察していた。
(今がチャンスか?)
今ジェヴォは一人きりである。もし内密に事を済ませるなら今が絶好の機会だった。
ツヴァイが離れたとしても問題はない。
勇也の周りにはゼクス、ドライ、フィアーが侍っており、ツヴァイにとっては遺憾であるが、最大戦力である暴君も控えている。
ツヴァイは少し悩むが、それでもやはり勇也の事情を少しでも確認しておきたかった。
勇也のことを知っておくことが、勇也を守ることに繋がるかもしれない。
「旦那、俺様もちょっと周りを見てきていいか? 初めて来るところだしね、ちょっと見ておきたいのさ」
ツヴァイのセリフは知らず知らずのうちに言い訳をするかのようになっており、見るといっても辺り一面砂しかないのだが、勇也はそれらのことには一切気が向いていないようで、ただ「いいですよ」と、どこか遠くを見たまま答えるだけだった。
ツヴァイは気になって視線の先を追うのだが、やはりというか、そこにいるのは仲睦まじく寄り添っている陸とカトリーナである。
だが同時に、勇也は別のどこかを見ているようでもあった。
「じゃあ、行ってくる」
ツヴァイは勇也の視線を追うのをやめて、ジェヴォが向かっていった方へと進んでいく。
ツヴァイとジェヴォが離れた後、残った面々は勇也の提案通りに休息を取っていた。少なくとも表面上は。
暴君は言われたとおり寝そべっており、陸とカトリーナも暴君の陰で腰を下ろして休んでいる。
勇也もまた地上に降り、立ったまま暴君に寄りかかっているのだが、その視線はやはり陸たちに注がれたままであった。
陸たちはずっと勇也に視線を注がれているのだが、陸は相変わらずの無表情で勇也の方を見ようともせず、視線に気付いているのかどうかさえ分からない。
しかしカトリーナは勇也の視線に気付いていた。出会ってからずっと自分たちを見続ける不機嫌な視線に。
時折勇也の方をチラチラと振り返っているのだが、その視線が外されることはない。
カトリーナは気になって仕方がなかったのだが、彼女の父ジェヴォも陸もそれについて何も言わないため、彼女としても溜息を吐いて諦めるしかなかった。
勇也の視線を気にしていたのはツヴァイやカトリーナだけではない。
ドラゴニクスの残りの姉妹たちもまた、勇也の視線を気にしていたのである。
彼女たちは、勇也のその視線がどんな意味を持っているかまではわからない。
だから単純にこう思った。
勇也は自分たちよりも陸とカトリーナに興味がある、と。
つまりそれは嫉妬だ。
彼女たちにしてみれば、怨敵の暴君がそばにいることよりも、勇也が突然現れた人族とウェアウルフなんぞに興味を持ってしまうことの方がよっぽど問題だった。たとえそれが植え付けられた感情であったとしても。
勇也が陸たちを眺めていると、突如顔をベロリと舐められた。
慌てて顔を拭いそちらを見やれば、四女のフィアーが首をこてんと傾げて勇也を見つめている。
フィアーと目が合った時点で、勇也はすでにいつもの張り付けたような笑顔に戻っていたのだが、フィアーはそれだけでは満足していなかった。
ベロリ。
勇也が嫌がらないのをいいことに、再びフィアーが勇也の顔を嘗め回す。
もしこの場にフュンフがいれば、彼女が一番勇也に甘えていたに違いない。
というよりも、フィアーのこの行動は、甘えているというよりはちょっかいをかけていると表現する方が正しいだろう。
それでも勇也の気を引くことには成功していた。
それゆえ、フィアーは調子に乗り三度勇也に舌を伸ばすのだが、
「くいー」
「くぅー」
フィアーの二体の姉、ゼクスとドライが「やめろ」と言うように、背後からフィアーの両肩を噛んで捕まえたのだった。
フィアーたちが下らないやり取りをしている頃、ジェヴォは一番近くにあった小高い砂の丘に登り、辺りをつまらなそうに見回していた。
「……何もないナ」
辺り一面どこを見ても砂、砂、砂。
何か目立つようなものもないし、魔物もまるでいない。イーターへのリベンジのため、さらなる力を求めるジェヴォがうんざりするのも無理はなかった。
ちなみにこの一団が何を目印に移動しているかというと、そんなものは何もないのである。ただ勘に従って移動しているだけだった。
もちろんそんな非常識なこと、通常では考えられないのだが、それで文句を言うのはツヴァイだけであり、勇也に「じゃあ、何か他に良い方法があるんですか?」と聞かれれば黙るしかなかったのだ。
そんなやり取りがあったのだが、一応ジェヴォはこうやって当たりの様子を伺って、何か目標になるものはないか探していた。
だが残念ながらそんなものはなく、肩を落として落胆していると、後ろから何かが近づいていることに気付く。
数は一、体長は二メートルほど、臭いからしてかなりの力を持つ者だとわかった。
しかしジェヴォの顔は憮然とした表情のままである。
臭いでそれが誰だかとっくにわかっていたのだ。
「アンタ……どんだけ足が速いんだ」
若干息の切れた様子のツヴァイが呆れるように後ろから声をかける。
ジェヴォはそれに対して「何か用カ?」と、つまらなそうに返すだけだった。
ツヴァイはジェヴォのすぐ後ろまで来ると、少しの間呼吸を整えた。
息が切れているということもあったが、切り出すには少し覚悟が必要だったのだ。
「アンタ、『アナ』って名前に聞き覚えはあるかい?」
「アナ……、確かゴブリンの嬢ちゃんがそんな名前だったカ」
「ゴブリンの嬢ちゃん……メスのゴブリンかい?」
「ああ」
ゴブリンの嬢ちゃんという言葉を聞くのは二度目だが、ツヴァイは僅かに目を見開く。
ツヴァイもゴブリンは知っているのだが、オスしかいないと思っていた。メスの個体など、今まで一度も見たことがなかったのである。
だが、驚くのはまだ早い。彼女が驚愕するのはこの先だ。
「ということは、旦那は俺様達の前にゴブリンの手下がいたのか……」
「手下? いや、違うナ。あれは番だったゾ」
「はぁ!?」
今度こそ驚愕したツヴァイであったが、同時に得心するものもあった。
いつも狂ったように笑っている勇也であるが、確かに「アナ」と口に出すときは、何か大切な者の名を呼ぶような響きがあるのだ。
それでもツヴァイは俄かには信じられない。
異種族間の番など通常では考えられないし、何の得があるのかわからなかったのだ。
番を作るのは子を成すため。
人族とゴブリンとでは子供ができることなどない。
なのに、なぜ勇也がゴブリンなんて醜悪な魔物とわざわざ番にならなくてはいけないのか。
「それが、『愛』か……」
ツヴァイは呟きながら思い出す。勇也に侍る妹たちの姿を。そして勇也に対して忠誠心しか持たなかったはずなのに、いつの間にか自分にも芽生え始めているその温かなものを。
大してツヴァイに興味を持たず、ずっと憮然としたままだったジェヴォであるが、「愛」という言葉に反応したように耳がピクリと揺れた。
「愛ネ。厄介なものダナ」
ジェヴォが厄介だと言ったのは、自分の娘と馬鹿な弟子のことなのか。それとも……。
その時、ジェヴォとツヴァイが同時に目を見開いた。
「何だ!?」
「馬鹿ナ!」
二体が叫んだのも同時だった。
彼らの鼻は突如異臭を察知したのだ。
それは本来有り得ないことである。ツヴァイに比べればジェヴォの方が嗅覚は鋭く、もし何かが近づいてきているならジェヴォが真っ先に気付かなければおかしい。
つまりその何かはツヴァイでもすぐに気付ける距離に、突如現れたことを意味した。
二体は同時に振り返る。
勇也や陸たちのいる方角を。