第六十五話 フォールリバー
「あの、まだ怒ってるんですか?」
「……別に」
勇也の歩く先、五メートルほどの距離を開けてツヴァイが木々の間をすり抜けて進んでいた。
勇也の周りには今誰もいない。
他の姉妹たちも勇也と距離を空けているし、一番勇也にべったりとくっついていたフュンフはすでにこの世にはいないのだ。
そしてそのフュンフの命を奪った暴君であるが、彼女は勇也の後ろをついてきていた。勇也たちが間をすり抜けた木々を薙ぎ倒しながら。
暴君を先頭に立たせればもっと楽に進めそうなものなのだが、フュンフたちが、自分たちよりも前に暴君が立つのを嫌がったのと、そもそもこうやって木々をすり抜けるのが大して苦にならなかったため、こうやって進んでいる。
そして姉妹たちが怒っている理由であるが、当然その暴君が理由だ。
暴君はフュンフの命を奪った敵であるにもかかわらず、勇也はそれを仲間にしてしまったのだから。
ツヴァイは「食用人間」のスキルにより忠誠を誓わせられているが、勇也に対する一切の感情を制限されているわけではなかった。
命令とあれば逆らうことはできない。しかし、怒りの意思表示として、こうやって勇也と距離を空けるくらいのことはできるのだ。
それは忠誠ではなく、愛情を捧げた妹たちにおいても同じことであった。
だからこうしてツヴァイたちは勇也から距離を開けて移動しているのだが、勇也とて彼女たちの気持ちがわからないわけではない。その気持ちがわかったうえで、暴君が戦力として必要だったのだ。
「さっきも言いましたけど、僕だって好きで暴君を仲間にしたわけじゃないんですよ。これだけの強大な戦力なんです。必要でしょ?」
「わっかてるよ。わかってるけど……」
ツヴァイは勇也を振り返らないまま答える。
その声は苦渋に満ちていた。
ツヴァイは主である勇也に対しては絶対服従だった。そもそも勇也に逆らおうなんてつもりも毛頭ない。
しかしそれでも納得はできないのだ。それだけツヴァイは妹たちを大切に想っていたのである。
対して暴君は、そういった愛情のような感情は一切持ち合わせていない。彼女は本能の赴くままに生きている。
だから家族を失ったツヴァイたちの気持ちも、彼女たちが自分をどう思っているかなども、まるで意に介していなかった。
だが、今の彼女に愛情というものが全くないわけではない。
スキル「食用人間」。
これにより彼女は今まで持っていなかった愛というものを無理やり与えられたのである。
彼女は今までのように本能に従って生きていくだけではない。愛しい主を守るために生きていくのだ。たとえその主、勇也が彼女のことをどう思っていようと。
今勇也たち一行は、五階層に向かって進んでいた。
当初の目的であった暴君も狩り、というより仲間にし、この階層に、すでに勇也たちの敵となるような者はいない。
それならば次の階層に向かうことにしたのだ。
「次の階層ってどんな場所ですかね?」
「知らないよ」
「……」
ツヴァイたちは知能が高く、この階層で縄張りを作り、そこに罠を張ったりして効率良く、かつ安全に獲物を狩っていたのだ。つまり彼女たちはこの階層から出たことがないのであった。
この階層から出たことがないのは暴君も同じなのだが、たとえ出たことがあったとしても、彼女から話を聞くことはできなかった。
アナベルであれば、実際に五階層に行ったことはなくとも、師であるイザベラから話を聞いていたため、多少の知識はある。しかし生憎と勇也は、アナベルから五階層についてまでは詳しく聞いていなかった。
「まぁ、いいか。なるようになるでしょ。あははははは」
もともと目的など、あってないような旅だ。
そこに強敵がいるのならば、勇也は地獄の果てまでも追いかけていくつもりなのである。
一行の旅は順調だった。彼らに襲い掛かるものはなく、むしろ食糧調達のために獲物を探すのが大変なほどだ。
意外だったのは暴君がそれほどの食事を必要としなかったことだろう。
なぜその巨体でそんなに小食なのだろうと、勇也が首を傾げたほどである。
そのように旅は何事もなく進んで行き、早くも二日間が経った。
その間にツヴァイたちは怒りを鎮め、勇也とは隔たり無く過ごすようになっている。
だが、暴君との仲が改善されることはやはりなかった。
ツヴァイたちが家族の仇を簡単に許せるはずもない。
それは勇也にしてみても同じことで、暴君はただの戦力であり、心を許せる仲間というわけではなかった。いや、勇也はツヴァイたちに対しても心を許しているわけではない。
それは勇也の口調でわかる。
千佳や凜華たち、かつて心を許した相手であれば、勇也は敬語を使っていなかった。しかしツヴァイに対しては未だに敬語を使っているのだ。尤も、他の姉妹たちや暴君など、話すことのない相手にはさすがに敬語を使ったりはしていないのだが。
ともかく、それが今の勇也の在り方なのだ。
必要なのは仲間ではなく、敵を排除するための力、手となり足となり武器となる眷属なのである。
だが、とりわけ暴君に対しては隔たりがあった。
目の前で眷属を殺されており、凜華までも、下手をすれば千佳や他の仲間たちまでも食われているかもしれない。
そう考えれば暴君に対して隔意を持つなという方が難しいだろう。
それでもその強大な力を手に入れるため、勇也は暴君を仲間にすると決めたのだ。
思うところはあっても、それを表に出すことはなかった。すべては愛するアナベルのために。
「ギャウ!」
しかし暴君はそんな勇也の気持ちなど知ったことではなく、隙さえあれば勇也にちょっかいをかけてきた。
辺りが暗くなり、そろそろ休もうとしていた矢先、飛んでいる勇也に対して暴君はその巨大な顔を体に擦り付けてきたのだ。
「んふふ……!」
それに対し勇也は気味の悪い笑い声を上げただけだった。
嫌がっているようには見えるのだが、感情が麻痺してしまっているせいで、そんな反応しかできなかったのである。
「くいー!」
「くー!」
「くえー!」
勇也に甘える暴君に対して、ゼクス、ドライ、フィアーの妹たちが一斉に威嚇の声を上げた。
妹の仇である暴君が、主たる勇也に近づくことが許せなかった。しかも勇也は空を飛んでおり、自分たちは勇也に近づけない状況で、である。
暴君はそんな三体を見下ろし、すぐにつまらなそうに鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。そして再び勇也に甘えだす。
「くいー!」
「くー!」
「くえー!」
無視されたことに対して怒りを爆発させた三体が再び一斉に鳴く。
こうなったらブレスでも放ってやろうかという勢いだ。
「やめときな、あんたたち」
怒り心頭になっている妹たちをツヴァイが宥める。
それに気付いた勇也も、ゆっくりと地面に降りて三人の前に立った。
その様子を暴君は少し残念そうに眺め、妹たちは嬉しそうに勇也に駆け寄っていった。
「あははは、ダメだよ。みんな仲良くしなくちゃね」
「くいー……」
「くー……」
「くえー……」
三体がつまらなそうな声を上げる。
しかし勇也に逆らう気はないようで、それ以上暴君に突っかかるようなことはなかった。
結局のところ、彼女たちにとって一番重要なのは勇也なのだ。ドラゴニクスの姉妹たちにしても、暴君にしても。
無論、ツヴァイたちは亡くしてしまった一番下の妹に対する愛情だってある。だけどそれでも、「食用人間」のスキルによって植え付けられた勇也への愛情の方が勝っていた。
他の三体の妹たちや暴君よりも知能の高いツヴァイは、そのことを少し寂しく思っていた。
勇也に対する忠誠に揺らぎはない。それを疑うことさえもない。
しかし、自分はいつか妹たちへの愛を失ってしまうのではないか、フュンフに対する愛情も、いずれ風化してしまうのではないか、そういった喪失感にも似た思いがあったのだ。
ダンジョンを照らす光が消え、代わりに天井に星の光に似た煌めきが瞬く。
焼いたハイオークの肉を勇也が食べ終え、あとは休むだけになると、ツヴァイが彼の下にやってきた。
「なぁ、旦那」
「ん? なんです?」
紡ぎ出されたツヴァイの声は、普段の可愛らしい女性らしいものではあるが、どこか疲れていて、諦念を感じさせる響きがあった。
「フュンフの奴はさ、あんたのために死んじまったんだぜ」
「……」
「いや、だから別にどうってことはねぇんだ。ただ、あいつのことを覚えておいてやってほしい。それと、褒めてやってくれ。頑張ったなって」
勇也はツヴァイの言葉を黙って聞いていた。
そこにいつものにやけた表情はなく、ただ、無表情だ。
勇也は思い出していた。ほんの少し前にも似たようなことを、別の眷属に言われていたのだ。
「……ええ、わかりました」
勇也はややあって何とかそれだけを返した。
フュンフと過ごした時間はあまりにも短い。
覚えているのは、彼女はとても甘えん坊で、姉妹たちの中で一番勇也にくっついていたということだ。勇也と一緒じゃなければ必ずツヴァイの隣にいた。
たったそれだけのことだが、彼女は確かに勇也と同じ時を共有した。そして勇也のために自らの命を投げ出し、いなくなってしまったのである。
同時にフュンフの命の価値について考えた。
邪神ユヒトは「命は平等に価値がない」と言っていた。
その通りなのかもしれないと思う一方で、それは少し違うと考える。
フュンフの命は、少なくともツヴァイにとっては大切で重たいものだった。勇也にとっても価値あるもののはずなのだ。
命に絶対の価値はない。
それでも、自分だけでも大切に考えていてもいいのではないか、勇也はそう考える。
自分のために死んでしまったフュンフ、そして琴音、彼女たちの命に価値がなかったとは思いたくないのである。
「よく、覚えておきます」
勇也は最後にそう言い残し、一人木の上へと向かっていった。
そして眠ることもできず、ただ煌めく天井を眺めているのだった。
明くる日、辺りが明るくなってすぐに進み始めた一行はそのまますぐにその歩みを止めることになってしまっていた。
ここまでの旅は順調だった。
次第に強化され人外の存在となっていく勇也に、四体のドラゴニクス、そして四階層最強の魔物であるドラゴレックスの暴君、戦力としては申し分ない。
彼らを止めることができるのは、勇者ジャンゴとウィズ、もしくは同級生の一団くらいのものだろう。
当然勇也たちは彼らのいずれかに出会って足止めされている、というわけではない。
彼らが足を止めた理由、それは何者かによってものではなかった。
彼らはついに辿り着いたのだ。四階層の終わり、五階層への入口へと。
そしてそこからが問題だったのである。
「これ、こうなってるって知らなかったんですか?」
「知ってたけどな……聞かれなかったから」
勇也はツヴァイにジト目を向け、諦めて再び目の前の光景に視線を移した。
勇也たち一行の目の前、そこで密林は唐突に切れており、そこから先には直径何百メートル、いや、何キロにもなろうかという巨大な穴がぽっかりと口を開けていたのだ。
勇也が視線を巡らすと、遥か彼方に川が見えた。
勇也たちが初めにその近くを辿っていたあの巨大な川である。その川は穴に向かってまっすぐ進み、そのまま穴に向かって落ちて行っていた。そして巨大な滝となっている。
「ああ、だからフォールリバーっていうのか」
そんなことが分かったところで、どうしようもないのだが。
ここを降りていくことは、勇也一人なら何の問題もない。
断崖絶壁であるが、足場になりそうな岩棚もあるため、ツヴァイたち姉妹も何とかなるだろう。
だが、問題は、
「どうしましょうか?」
勇也と姉妹たちの視線が、後方で佇む暴君に集中するのだった。