第六十三話 対暴君.01
暴君と呼ばれるその魔物は、今非常に気が立っていた。
十メートルを悠に超えるその巨躯、頑丈な肉体にパワー、スピード、そして強力な魔法である竜の息吹、それらの力を持った暴君は正しくこの階層の絶対王者と言える。
事実、この階層で彼女を脅かすものは何もいなかった。
彼女には、何者にも決して負けないという自信と誇りがあったのだ。
しかし、彼女は負けてしまった。
それもたった一人の小さな人族に。
彼女から見れば、人族などは地を這う虫のようなものだ。それに彼女は圧倒されてしまったのである。
彼女はプライドをズタズタに傷付けられた。
こんなことは今までになかったことだ。
いや、前にも似たようなことはあった。
実はこの階層には、彼女と同種であるドラゴレックスは他にももう一体いたのである。
だが、今はすでにいない。
彼女よりも一回り小さく幾分年若いその雄の個体は、いずれ彼女と番いになるはずだった。
その雄の個体がいなくなった理由は、狩られたからだ。
何に狩られたか彼女は知らない。
その時彼女はたまたま狩りに出掛けていて、戻って来ると、すでに彼は横たわっていて一部分食われたと思われる個所があった。
恐らく何かしらの魔物だと彼女は考えたが、実際にそんなことが可能な魔物は存在しない。少なくともこの階層には。
その時も彼女は怒りを覚えたものだが、今回ほどではなかった。
死んだ雄に対しては、番いになる予定だったからといって情などはなく、死んでしまった時も、自分たちの種族を虚仮にされたというような憤りの方が強かったのだ。
そして今回虚仮にされたのは自分自身だった。
あんな小さな生き物に傷つけられるとは、露ほども思っていなかったのである。
そんなことがあった直後に戻って来てみると、今度は自分の塒に似たような生物がいる。少しの違いはあるかもしれないが、同じ生物であることに違いはないだろう。
彼女にしてみれば、それは最大級の屈辱だ。自分を傷付けた者と似た種族が、自分の縄張りを我が物顔でうろついているのだから。
――GYAAAOOOOO!!
彼女は怒りに身を任せ咆哮を轟かせた。
そして羽虫の如く飛び回るその小さな生物に向かって行ったのだった。
「うわぁああああああああああ!!」
突如悲鳴にも似た叫び声を上げながら暴君に向かって行く勇也を、ツヴァイは驚き半分、呆れ半分の気持ちで見つめていた。
「ま、マジかよ……」
勇也の精神状態が常に不安定であるのは、彼女にとっても周知の事実であるが、何が引き金になってまたああなってしまったのかわからない。
こうなってしまう可能性があることは彼女も理解していたが、問題は今が戦闘中であり相手がこの階層最強の暴君である、という事だ。
冷静さを欠いた状態で勝てる相手だとは思えなかった。
ツヴァイは舌打ちして暴君を見つめる。
何とか隙を見て、ブレスを当てなくてはいけない。最悪、それが不可能なら、自分が直接暴君に立ち向かう事も考えて。
ツヴァイが苦々しい表情で暴君を見つめている間にも、勇也は暴君に向かって空中を一直線に滑って行っていた。
暴君が勇也に向かって口を開く。
暴君はすでに勇也を単なる餌としては見ておらず、倒すべき敵として見ていたのだ。
だから口を開いたその意味は、いきなりの大技を繰り出すことを意味していた。
「不味い! 旦那、それを受けちゃ駄目だ!」
ツヴァイが絶叫する。
しかし勇也の耳には、彼女の声は届いておらず、止まることも避けようとする素振りすら見せず、真っ直ぐに暴君に向かっていた。
暴君が狙いを定める。そして、
ドガンッ!!
ブレスが放たれることは無かった。
それよりも早く、勇也の拳が暴君の鼻っ柱に突き刺さったのだ。
結果として、最短距離を最高速で進んだことが幸いした。
下手に避けようとしたりすれば、回避が間に合わず直撃はしなくとも体の半分くらいはもって行かれたかもしれない。
もっとも、それで死ぬ勇也ではないが、回復している隙に食われてしまえばどうなっていたかわからなかった。
勇也の拳が突き刺さり、暴君は体勢を崩しブレスを放つことが出来なかった。
だが、暴君も大してダメージがあったわけではない。
勇也の拳は力んで放たれたものであり、ベストの威力ではなかったのだ。
加えて暴君の頑丈さもある。
暴君は直ちに勇也に向き直った。
「その傷はどうした!? 凜華をどうした!?」
勇也は言葉の通じない暴君に向かって喚く。
言葉が通じたところで、暴君は何のことかわからなかっただろうが、勇也のその言葉を、暴君は威嚇として捉えた。
――GYAAAAAAAAA!!
暴君が勇也に負けじと吠え返す。
そして何故か体を反転させた。
勇也は吠えられたことには動じていなかったが、体を反転させた暴君を見て一瞬動きを止めた。
まさか逃げるのか、と思ったのだ。
だが、それは当然違った。
暴君が体を反転させた理由、それはその長い尾の一撃を勇也に叩き込むためだ。
一瞬動きを止め、隙を見せてしまった勇也に大質量の尾が迫る。
勇也はその迫りくる巨大な尾を、目を見開いて見つめるが、出来るのは見ていることだけだった。
「がぁあああっっっ!!」
「旦那ぁぁぁ!!」
勇也がその長い尾の一撃で、まるで蠅叩きのようにぺしゃんこにされて吹き飛ばされた。
圧倒的質量により軽々と弾き飛ばされ、ジャングルの中に墜落して行く。
しかし暴君は攻撃の手を緩めない。勇也の弾き飛ばされた方に向きを変え、大きく口を開いた。
まるで溜まった鬱憤を晴らすように、止めにブレスを放とうというのだ。
「不味い不味い不味い……!!」
ツヴァイの焦りなど、当然暴君には届かない。
暴君は自分の目の前をちょろちょろと動く害虫に止めを刺すべく、ブレスを放つ体勢に入った。
キンッッッ!!
耳をつんざくような音が辺りに響いた。
しかしそれは暴君の放ったブレスではない。
むしろ暴君はそのブレスが顔面に直撃し、大きく後退した。
撃ったのは当然、姉妹たちの誰かである。
ツヴァイではない。
彼女たちは現在、暴君を取り囲むように大きく散らばっており、スキルで身を隠しているため、お互いの姿を確認することは出来なかった。
しかし彼女たちは互いに誰がどの位置にいるか、だいたい把握している。
だからツヴァイにはそれを行ったのが誰か、すぐにわかったのだ。
「フュンフ……」
それを撃ったのは姉妹の中で一番の甘えん坊、末っ子のフュンフだった。
彼女は愛する主である勇也を守るため、遥かに格上の暴君に挑んだのである。
竜種の最大の武器である竜の息吹、たとえそれを撃ったのが、暴君にとって格下の相手だったとしても、その威力はかなりのものだ。
暴君といえども無傷とはいかず、ワニのような長い顔の目と鼻の間に長い傷が出来た。
――GYIIIIIIAAAAAAA!!
暴君が痛みと怒りに吠える。
暴君にとってその攻撃は不意打ちだった。
暴君は勇也に気を取られており、ドラゴニクス達の存在には気付いていなかったのだ。
それに、よもやドラゴニクスに自分が攻撃されるなど、夢にも思っていなかった。
ドラゴニクスは狡猾で、知能の高い魔物だ。
格上であるドラゴレックスに手を出すことなど、普通は有り得ないのである。
なぜなら、こうやってダメージを与えることが出来たとしても、ドラゴニクスがドラゴレックスを倒すことなど、到底不可能なのだから。
暴君が痛みと怒りで顔を歪まさせつつも、ブレスが撃たれた辺り、フュンフがいる場所を睨みつけた。
そこにはフュンフがいるが、すでに姿をスキルによって隠しており、目視で見つけることは出来ない。
だが、ドラゴニクスの持つスキルは、琴音の持っていた完全擬態と比べると、遥かに劣る能力である。見えないのは姿だけであり、匂いなどは消し去ることが出来ないのだ。
――GYAAAOOOOO!
匂いでそこにフュンフがいることに気付いた暴君が吠えた。
そしてその密林の一角に向かい歩みを進め始める。
歩みは加速し、木々を薙ぎ倒し一気に距離を詰めていった。
フュンフもすでに逃げ始めているが、徐々に追いつかれていた。
ステータスの敏捷はフュンフの方が暴君よりも高い。
しかし、その体格差、加えて木を避けながら逃げているフュンフと違い、暴君は木を薙ぎ倒して近付いて行っている。追いつかれるのは時間の問題だ。
キンッッッ!!
その時密林の四方からブレスが暴君に向けて次々に放たれた。
フュンフを守るために、姉妹たちが放ったのだ。
だが、暴君はもう同じ手は喰らわないというように、体を前傾させてそれを避けて行った。
暴君もドラゴニクスが群れで動く種族だという事は知っている。初めから他にもいることを予想して、警戒していた。
「くそっ!」
ツヴァイが舌打ちする。
しかし、その攻撃は無駄ではなかった。
暴君が避けたことにより、僅かな時間のロスが生まれ、フュンフは暴君から距離を空けることに成功していた。
それと同時に、勇也の回復も終わりそうだった。
もう意識もほとんど取り戻している。
フュンフは逃げ切れる。そう見えたのだが、
――GAAAAAAAAA!!
暴君の雄叫び、そして耳をつんざくような音、暴君はフュンフに向けてブレスを放ったのだった。