第百十話 最後の戦い.8
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洞窟の中を三人の人間が走り続けている。
それは逃走であり、敗走ではない。
三人の先頭を走る花は少なくともそう考えていた。まだ負けたわけではなく、挽回のチャンスはいくらでもあると。
彼女は知らなかったのだ。
今の勇也がいかに規格外の存在かを。そしてこの逃走が、実は短い逃走劇になるということを。
今の勇也はこの世界でも最強と認識されている勇者のスキル、『翼の勇者』に加え、『熾天使ウリエル』のスキルまで持っている。さらに彼の種族は今や人でなく、『天魔族』だった。
この世界において言えば、彼は前代未聞の存在だ。勇者や魔王すら超える存在なのである。
花はそんな規格外の存在に追われているとは知らなかった。
普通に考えれば、足止めにおいてきたのは凶悪なスキルを持つ咲良と優樹菜であり、簡単に負けるはずはない。それどころか、負けることが無いと考えてもおかしくはなかった。
しかしそれでも花は、良くて相打ちだと計算していた。
勇也の力を、それくらい高いと見積もっていたのだ。
だが、勇也の力はその見積もりより遥かに高い所にあった。
無論、花がそれを知っていたところで、何も事態は好転しなかっただろう。もう彼女の計算は勇也に通用しないのだから。
三人の先頭を走っていた花が、何かの音に気付き後ろを振り返る。
何かの音、それはまるで鳥の羽ばたく音のようだ。
「そんな、嘘……!」
花の目にはまだ何も映らない。
だが、すぐそこまで勇也たちが迫っているという気配があった。
そしてその距離が縮まっていくことが、そのまま彼女の寿命の長さに比例している。
「平井さん、ここで永倉君を足止めして!」
「分かったわ、花ちゃん先生」
ここで平井柚希を切り捨てれば、戦力はさらに大幅ダウンだ。
だが、花に迷っている余裕はなかった。
逃げ切らなくてはいけない。何としても勇也たちから逃げ切らなければ、自分に未来はない。
柚希がその場で留まり、花と諒だけが走り続ける。
すぐに柚希の姿が見えなくなり、その直後、花たちの後方で蒼い火柱が立ち上った。
「そんな、嫌、何で……」
花は顔を青白くさせ、譫言のように呟く。正に絶望的といった表情だ。
残りの戦力は諒だけ。彼の能力は素早く移動することができるようになるだけであり、ほとんど戦力とは呼べない。
それでも諒を置いて僅かばかりの足止めにするしかない。だが、これから果たして自分一人で生きて行けるのか、花にはその自身はさすがになかった。
迷っていたのは一瞬の間だけだ。
しかし、すでに時間切れだった。
花たちの頭上を白い何かが追い越していく。
花がギョッとしてその白い影を目で追うと、それは自分たちのすぐ目の前に着地した。
ストラを羽織った神父のような男、ただし彼には白い翼があり天使の輪っかまで頭上についている。だが同時に、黒く長い悪魔のような尾まで付いていた。
聖職者なのか天使なのか、はたまた悪魔なのかわからない男。しかしこの時だけは花たちにとっては絶対なる終わりをもたらす死神、『翼の勇者』勇也がそこにいた。
――こんなこと有り得ない!
花は今すぐ叫び出したかった。
自分が苦労して仕組んだ駒もシナリオも、何もかもがこのたった一人の理不尽な存在のせいで台無しだ。
本来ならこんなことは起こり得ない。
花は今まですべてを思い通りに進めてきた。転移前も転移後も。
何もかもを計算し尽くしていたはずなのに、勇也だけが計算し切れなかった。勇也だけが花の計算の遥か上を行き、彼女に破滅をもたらそうとしているのだ。
「待て、その男は僕がやる!」
花たちの後方から一人の男が走って現れる。
イーターだった。
すぐ後ろには千佳がおり、イーターは彼女を抱えてここまで走ってきたのだ。
さらにアナベル、クロ、ツヴァイと妹たちも現れる。
花たちの逃げ場はどこにもなかった。
「ま、待って、永倉君! 苛められた復讐をしたいんでしょうけど、殺すのは良くないわ! 貴方だって人殺しになんかなりたくないでしょう?」
一度は絶望し、狂って喚き散らしそうになっていた花であるが、むしろ今この状況は好都合かもしれないと思い始めていた。
なぜ永倉が二人いるかなどわからないが、今重要なのはそこではない。彼女のスキルには『同調』がある。相手の考えを自分に同調させる能力だ。これがあればこの場を切り抜けるのも不可能ではない、花は高速で頭を回転させ、そんなことを考えていた。
いっそそのまま狂ってしまっていた方が良かったかもしれないとは露知らずに。
勇也、いや、イーターの表情に変化はない。
憎悪を募らせた表情を、まるで無表情な諒に向けている。
状況が好転しないことに焦る花に、さらに追い打ちが掛けられた。
勇也の翼から羽が放たれ、それがクロやツヴァイ、妹たち以外の仲間たちにくっつく。羽は彼らの体に触れると、ふっとそのまま消えてしまった。
「僕の眷属には精神支配スキルは効きません。もちろん僕にも。あと、一応大丈夫だと思ったけど、他の皆にも『天使の加護』を掛けておきました。これで精神攻撃は何も効かなくなりましたよ」
勇也の言葉に、花は再び絶望を与えられるが、それはあまり関係なかっただろう。
イーターに花の言葉は届いていない。
言っていた言葉は的外れであり、何より、怨敵を前にして退く気などこれっぽっちもなかったのだから。
イーターが無造作に諒に近づいて行く。
諒は近付いて来るイーターに向かって持っていたロングソードを振るった。
イーターはそれを避けようともせず、ただ手で打ち払った。たったそれだけの動作でロングソードがへし折れる。あとは折れた剣を構えるほとんど無防備の諒がいるだけだ。
それでも諒は抵抗しようとした。機械的に。ただそうしなければ主である花を守れないから。
だが、その花が諒を止めた。
「や、やめて、大石君。永倉君の好きにさせてあげましょう。貴方だって永倉君に悪いことをいっぱいしたんだから」
そしてイーターに向かって媚び諂うような笑みを向けた。
イーターはしかし、花を見てはいなかった。
彼の目に映っているのは諒だけである。
イーターがさらに諒に近づき、彼の首を絞めた。
ギリギリと締め上げていくが、諒は何も抵抗しない。花に言われたとおり、従順にその時が来るのを待っていた。
「勇也君!」
イーターに向かって千佳が叫んだ。
それは彼を制止するためだった。
もうこの場には花がいる。
花さえ倒してしまえば諒は呪縛から解き放たれるかもしれない。そうなれば、わざわざ諒を殺す必要はないのではないかと千佳は考えたのだ。
だが、イーターは止まらなかった。
千佳は知らない。自分が諒にどんな目に遭わされるかを。
それを知っているイーターが止まることなどできるはずがなかった。
止められるはずがない。
イーターはそう思っていた。
しかし、気付けば彼の腕は力を加えることをやめ、ついには諒の首を放していた。
イーターは気付いてしまったのだ。目の前にいる男が、自分の仇ではないということに。
今イーターの目の前にいる男は、ただ利用され、操られている人形に過ぎなかった。
「くそっ! 僕はこいつを……」
イーターは言いつつ後退する。
その後に、イーターが何と言おうとしたのかはわからない。
なぜなら、轟音とも呼べる炸裂音が彼の言葉尻も今あった感情も消し去ってしまったからだ。
炸裂音の後に何かが爆発する音が響き、イーターや近くにいた花の顔に温かい何かが降り注いだ。
「……は?」
花には何が起きたのかわからなかった。
スキルを使わなくとも、自分の望んだとおりに事が進み始めていたのに、それが台無しになってしまったということも、今はまだ。
イーターの視線の先には答えがあった。
何が起きたのか。
簡単だ。
諒の首から上が吹っ飛んでいたのだ。
飛んできたのは彼の血や肉である。それがあちこちに飛散していた。
諒の胴体が力を失い、膝をついて前のめりに倒れた。
イーターはその結果を生んだ者を振り返る。
そこには、特大の銃、エカレスを構えた勇也がいた。
「言ったでしょ? 敵は潰すって」
勇也の行動原理はそれだけだ。それで十分だった。
あの時殺していれば、そんな思いを二度としないために、勇也はもう迷わない。
イーターはただ苦笑いしてかぶりを振る。
「そうだな……」
復讐は果たせなかった。復讐を果たすべき相手がそこにいなかった。
だが、結局目の前にいたのは殺すべき相手だったのだ。
諒は放っておけば、いつか千佳に手を出そうと考えるかもしれない。いや、間違いなくそうするだろう。
そうなった時、イーターであれば確かに守りきることができるかもしれない。しかし、それは絶対ではないだろう。勇也が予期せず規格外の力を手に入れたように、諒がある日突然力を手に入れることだって有り得なくはないのだから。
イーターは顔を拭いつつ、千佳の元へと戻っていった。
彼女を連れてさらに後ろへと下がる。
そこには、クロとツヴァイ、妹たち、勇也の眷属が控えていた。
彼女たちはただ事の成り行きを見守っている。否、少し違う。彼女たちはイーターが諒を殺さなかった時点で、勇也が始末をつけるであろうこともわかっていたし、これから何が行われるかのかもわかっていた。
彼女たちはただその時が来るのを待っているのだ。決着がつく瞬間が来る、その時を。
花はただ震えていた。
顔面蒼白で、泣きじゃくりながら、ただただ震え続けている。
「ね、ねぇ、待って、永倉君。私、何でも言う事を聞くわ。奴隷にでも何にでもなるし、私のこと、好きにしていいから……」
その時、蝙蝠のような羽ばたきの音が聞こえ、勇也のすぐ隣にアナベルが降り立った。
二人の姿は対照的だ。
勇也は天使の姿に近いが、アナベルは悪魔にしか見えない。
ただし先がハート形になっている悪魔の尾だけは共通しており、アナベルは降り立つと同時に自らの尾を勇也のそれに絡ませていた。仲良く、手を繋ぐみたいに。
「先生、アナからお願いがあるのです。アナから奪ったポシェットを返して頂けませんか?」
花はぶんぶんと首を縦に振り、慌てながら肩に掛けてあったポシェットをアナベルに渡した。
アナベルはにっこりと微笑み、そのポシェットに早速手を突っ込む。
そして可愛らしいポシェットには似つかわしくない、黒く光る長大な鉄の塊を取り出した。
側面に彫られた文字は『VERITAS』。勇也の持つエカレスと対で手に入れたデザートイーグル.50AE、ヴェリタスがアナベルの手に握られていた。
勇也が花に銃口を向けた。同時にアナベルも同じ仕草で花に銃を向ける。
していることも、これからすることも同じはずなのに、二人の表情はまったく違った。
勇也は厳罰を与えんとする裁判官、もしくはそれこそ、人間に神罰を与えるために現れた裁きの天使のように厳めしい表情なのに対し、アナベルは人好きのする、これから楽しい悪戯でもしようかというような無邪気な笑顔だ。
「待って、お願い。こんなこと間違ってるわ」
すぐ間近で銃を突きつけられた花がよろよろと後退する。足がもつれ、そのまま尻もちをついてしまった。
「地上の命は川を流れ、主の下へ」
勇也が厳かに告げた。
「主よ、聖なる焔よ、憐れみ給え」
アナベルが後に続く。
「私の世界、私のもの、全部全部、私の……」
「「父と子と聖霊の御名において」」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
長い悲鳴が洞窟内に木霊する。
勇也の眷属たちはその処刑が行われる様を、まるで神聖な儀式に臨んでいるような面持ちで見ていた。
千佳はその光景に耐えられなくなり、目を伏せる。それをイーターが優しく抱き留めた。
二発の極大な銃声が重なり、一つの、まるで祝砲のようになって辺りに響き渡った。
その爆発にも似た炸裂音が消えると、一切の音が消え去っていた。さっきまで鳴り響いていた断末魔の叫びも。
あとはただ終わりを告げるだけだった。
「「アーメン」」
二人の声が静かに宣言した。一つの舞台の終焉を。
明日でラストです。




