プロローグ
食われる恐怖。
現代日本人がそんな恐怖に遭遇することなんてまずないと思う。
だけど、僕は今その恐怖に直面していた。
薄暗い洞窟、壁には青白く光る水晶があって、その淡い光のおかげで僕の周りはまだ明るいけれど、数メートル先は漆黒でまるで何も見えない。正に一寸先は闇だ。
その闇の中から、ゆっくりと僕に近付いて来る存在がある。
――GUUURURURU!
獰猛な唸り声を上げ、ヒタッ、ヒタッ、ヒタッと、一歩ずつ、だけど、確実に近づいてきている。
僕は今、硬い岩場の上に横たわっていて、その場から逃げることができない。
理由は簡単。両足が動ないからだ。
多分両方折れている。
片方は間違いない。なぜなら複雑骨折、つまり膝から骨が飛び出していたからだ。
もうその光景は見たくない。それに今は、暗闇の中から近付いて来るそいつに意識が集中してしまっている。
そして、ついにそいつは僕の前に姿を現した。
それは巨大な黒い犬だった。
犬種なんてわからない。強いて言えば毛の長い真っ黒など―ベルマンといったところだろうか。体長はド―ベルマンよりも遥かに大きいけれど。
だけど、実在しない動物でなら、映画などで見たことがある。
ヘルハウンド、もしくはグリムだ。
実際にこいつはそういった類の何かなのだと思う。
なぜならここは地球でなく、魔物の跋扈する異世界なのだから。
漆黒の闇からそのままくりぬかれたようなそいつは、赤く光る丸い瞳を真っ直ぐ僕に向けている。牙を剥き出しにし、獰猛に唸りながら。
こんな手負いでもうこのまま死ぬしかなさそうな僕に対しても、そいつは一切油断なんてしていないようだった。
この世界で人間、いや、人族は魔法が使えるらしい。きっとそいつはそれを理解していているから、警戒しているのだろう。
十メートルほど手前まで近づくと、一旦止まり、体を後ろにぐっとたわめた。
きっと飛び掛かる力を溜めているんだ。
次の瞬間に、僕は食い殺されるに違いない。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、怖い、死にたくない。
でも、もう疲れてしまった。
逃げることにも、怒ることにも、憎むことにも。
それに、こいつになら殺されてもいいかもしれない。
こいつは少なくとも僕を馬鹿にしていないし、蔑んでもいない。
僕を全力で倒す相手だと認識しているようだ。
だったら……。
そいつはついに跳躍して僕に迫ってきた。牙の並んだ咢を大きく開いて。
熱湯を掛けられたような、熱い痛みが喉に走る。
でも、それだけだった。
すぐに痛みはなくなり、ただ寒くなっていく。
眠いのとは違う。テレビの砂嵐のようなものが視界を埋め尽くしていく。
ブラックアウト、僕は人間なのに、気持ち良……。
……………………。
…………。
……。
その日、僕は初めて誰かの糧になったのだ。