第245話 Why done it?
「ふいー」
ようやく第9層を抜けると、雨矢鳥フランは大きく息を吸い込んだ。
ふるふると首を振って、水滴を飛ばす。MAOの《濡れ状態》はすぐに乾くものの、やはり気分的なものはある。
同行者の虚面伯は、第8層から連れてきたトカゲの背を撫でつつ、
「何とか犠牲なしでここまで来られたね。この子たちのレベルもずいぶん上がったが――第10層は難関だ。焦らずにゆっくり行こう」
「そうですねぇ。あたしが前に来たときは、モンスターから逃げ回ってばかりでしたよぉ」
「ああ……君は、この迷宮に潜ったことがあるんだったね。それも、一人で」
「……まあ、あの頃のほうがゲームしてましたからねぇ。今はすっかりなまっちゃいましたよぉ」
「お揃いだね。かく言う僕もブランク持ちさ」
黒セーラーにマントを羽織った赤髪の少女は、そう言ってお洒落に肩を竦めた。
――1年前。
そう、もう1年も前の話だ。
当時、フランは百空学園のオーディションに通過し、デビューを控えた身の上だった。
しかし、表向きにはまだ一介のリスナーでしかない――だから、アカウントも今使っているのとは別のもので、このMAO上の百空学園に出入りしていた……。
そんなときだ。
当時、まだ未踏破で、進入制限がなかったハレルヤ迷宮に、一人で足を踏み入れたのは。
理由は、《晴天組》だった。
その日彼女は、大ファンだった天初百花と晴屋京が、一緒に迷宮に入っていくところを目撃したのである。
配信外でのリスナーとの過度な接触はご法度――特に追い回したりなどすれば、学園を出禁になる可能性もある。
それを承知しつつも……当時のフランは、『何をしているんだろう?』という好奇心を抑えられなかった。
想いの強さゆえだろうか。
それとも、先を行く晴天組が露払いになったのだろうか。
たった一人での攻略にもかかわらず、いつしかフランは最下層――ボスエリアにまで辿り着いていた。
そこで見たものに、フランは人生で一番巨大な衝撃を受ける。
天初百花と。
晴屋京が。
――キスを、していたのだった。
フランは最初、自分の目を信じられなかった。
しかし、次第に現実を認識してくると、……今度は、胸の中がいっぱいになって、何も考えられなくなった。
別にフランは、晴天組に恋愛解釈を持っていたわけではない。
けれど、いざこうして、配信もしていないところでそういう関係になっているところを見ると、頭も胸もいっぱいいっぱいになって、すぐにも涙が零れそうになってしまった……。
――そんな歓喜の時間は、ほんの一瞬で終わる。
次の瞬間の、さらに予想外の光景によって。
晴屋京が手に握っていた、短剣が。
深々と、……天初百花の胸に、突き刺さっていたのである。
散ったダメージエフェクトは、意外なほどに少なかった。
静かに、悲鳴さえもなく。
天初百花の唇が、晴屋京のそれから離れ、……ずるりと、その場に崩れ落ちた。
百花のアバターが砕け散り、魂の状態になるのを、京はどこか嬉しそうな、けれど寂しそうな顔で、見下ろしていた。
直後――血に惹かれたとでも言うのだろうか。
エリア奥の闇の中から、無数の触手が飛び出してきた。
それは瞬く間に京の身体を絡め取ると、その手から百花を殺した短剣を零れさせた。
京が縊り殺され、その魂たちがリスポーンするまでは一瞬で。
フランは呆然としたまま、京が落とした短剣を、触手――ボスモンスターが回収していくのを見届けた……。
あの日の真実を、フランは知らない。
デビュー後、あのときのキルログを配信に載せてしまった千鳥・ヒューミットに話を聞いてみたけれど、目立った収穫はなかった。
天初百花殺人事件。
誰よりも近くでそれを目撃したからこそ――フランはあの事件を、なかったことにはできないのだ。
『誰が?』ではない。
『どうやって?』でもない。
『なぜ』――あんな事件が起こったのか。
そのためなら、怪盗でも探偵でも、何の手でも借りる。
「……そろそろ進もうか。彼らが追ってきている頃だ」
「はい。行きましょう」
そうすれば……ふわふわとして居所の定まらないこの気持ちも、収まるべきところに収まってくれるはずだ。
きっと。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
瘴気に満ちた谷の底には、清らかな渓流があった。
しかし、流れはある場所で寸断されて、大きな滝となっていた。
覗き込んでも、滝壺が見えない。
流れ落ちる水が、闇に呑まれていくばかりだ。
いや、っつーか、滝壺の音すら聞こえねえんだけど――どんだけ深いんだよ、これ。
「第9層はこの下です」
氷室白瀬が絶望的なことを言った。
「この辺りは瘴気の影響がありません。先に顔装備を防護マスクから7層で配った潜水マスクに変えてください」
……つまり、飛び込むってことですね?
俺が無言で震えていると、隣でチェリーがくすっと笑って囁いた。
「(目を瞑ってていいですよ、先輩? 私が手を握って、導いてあげますから)」
「(目ぇ瞑るって逆に怖くね? 大丈夫? 大丈夫か?)」
「(先輩は私の手の感触にだけ集中しててください。だーいじょうぶです。すぐに終わっちゃいますからねー?)」
言われた通り顔装備を変えると、ぎゅっと目を瞑って、チェリーの手を握った。
……あれ? おかしいな……。いつもはもっとしなやかな感じなのに、今日はちょっとぷにぷにしてるような……。
って、ああ、そうか。今のチェリーは、UO姫のアバターなんだった。
「(はぁい、こっちですよー♡ ゆーっくり歩いてくださいね? そうそう、えらいえらーい♡)」
……そして、声もまた、UO姫の甘ったるいアニメボイスなわけで。
なんか……なんか……。
……エロい。
「(あとさんぽー……にほー……。もうすぐオチちゃいますよ、先輩? あと少しだけ奥に行ったら……ほらほら、怖くない怖くない♡ 私は絶対逃げませんから……安心して、キてくださいね?)」
んぐおお……脳味噌が溶けていく気がする……!
もうコイツ、わざとやってんだろ! UO姫の身体と声を早くも使いこなしてきてんだろ……!
「(ほらっ、あと一歩! あと一歩だけ頑張りましょ? だーいじょーうぶ。まだ少しだけ距離ありますから。あと一歩だけ。ね?)」
あと一歩だけ……それなら。
そう思った瞬間、くいっと手を引っ張られる。
俺は抵抗なく、足を一歩前に踏み出した――
――つもりだった。
「んえ?」
足は、何も踏まなかった。
そこには、地面がなかった。
「ちょっ――うぐおおおおおおおおっ!?」
「あははははは!! あははははははははっ!!」
俺と一緒に闇の中に落下しながら、チェリーはお腹を抱えて爆笑していた。
この女あぁああ――――!!
ポタージュスープのようだ。
と、俺は視界一面に広がる、薄く褐色の混じった乳白色を見て、そう思った。
その正体は、水だった。
俺たちは水中にいた。上――らしき方向を見ても、水面は見えない。水底はかろうじて見えていて、石造りの建物の残骸のようなものが、そこここに点在していた。
数メートル先を、巨大な影が横切る。
竜のように細長いそれを、最初はリュウグウノツカイかと思った。でも、違う。その長大な身体は半透明で、内臓が丸ごと透けて見えているのだ。
例えるのなら――そう、微生物をそのまま大きくしたかのような。
それと似たような生物が、あちらこちらで悠々と泳いでいた。
その光景。
そして、どこか安心するような、水の生ぬるさ。
これらから俺は、本能的に、この場所をこう表現した。
「……子宮の中みたいだ……」
「なんかキショいよねー。あたしここ嫌いー」
独り言のつもりだったが、千鳥・ヒューミットがそう応じて、ビュウンと慣れた動作で泳ぎ、俺たちの周りを回ってみせる。すげえな。人魚かよ。
その相方の氷室白瀬が、指で眼鏡の位置を直――そうとして、今は千鳥のアバターになっていることを思い出し、手を戻して言う。
「先輩がたが初めてここに辿り着いたときもそう思ったそうですよ、ケージさん――なので、この階層は主に《羊水》と呼ばれています」
ハレルヤ迷宮第9層・通称《羊水》。
第8層の《奈落》も不気味だったが、この階層は尚更に気色悪い。上のほうの階はクリスタルだの地底湖だの綺麗なところが多かったのに、下に行けば行くほど暗いというか、生々しいというか……。
こんなダンジョンのボスって、一体どんな奴なんだ? 氷室たちが隠すもんから、むやみに怖くなってくるんだが。
「ここは《バブマリン》を使わなくても素早く泳げるんだよ」
天初百花が水を蹴るような動作で俺とチェリー、UO姫の前に回ってきながら言った。本来は雨矢鳥フランのもののツインテールが、尾びれのようにゆらゆらと揺れている。
「呼吸も7層で作った潜水マスクがあれば大丈夫。……壊されたら即死だけど」
「環境厳しすぎません?」
「こんなとこ、本当に一晩で一番下まで行けるのぉー?」
早く帰りたいと言わんばかりの口調で言うUO姫。
初見だったらまず確実に無理だったな。だが、今回は案内役がいる。
氷室が槍を手にしながら、
「この階は謎解き系です。なので手順さえ知っていれば、さほど難しいことはありません。ただ、戦闘にはかなり癖があるので、できるだけモンスターは避けて行きましょう」
「弓……は、当然使えませんよね。どうせ地上でもこの無駄肉が邪魔で使えませんけど。捨てちゃいましょうかこの役立たず」
「ちょっとぉ! ミミのメイン武器!」
チェリーがオモチャみたいな弓から短いケインに武器を持ち換えるのを待ち、俺たちは水底を目指す。
泳ぎ方のコツはすぐに掴めた。この色づいた水、普通の水よりも掴みやすい感じがする。それでいて抵抗はあまり感じないから、手で掻き分けるようにしながら足で進行方向の逆に蹴ると、思った以上にぐいんと進んだ。でもこれに慣れると普通の泳ぎ方忘れそうだな。
「うわっ!? わわわわわっ!?」
と思っていたら、約一人、ぎゅいーんと魚雷みたいに吹っ飛んでいく奴がいた。
俺のアバターに入ったUO姫である。
何やってんだあいつ。
海底の砂に頭から突き刺さったUO姫の隣に、俺は上手く姿勢を入れ替えて着地する。
「なんだお前。魚雷の真似か?」
「違うよぉ!」
ズボッと頭を砂から引き抜いて、UO姫は喚く。
「水を蹴ったら一気に進んで……なんでぇ?」
「AGIが元に戻ったんじゃないですか?」
隣にチェリーがふわりと降り立った。……うわ、浮力で胸がぷかぷか浮かんでる。すげえ。
チェリーは俺をジロリと睨んでズビシと殴りつつ、UO姫を見下ろした。
「防具の重量でAGIを調整したんでしょう? 水の浮力で防具が軽くなって、超過重量ペナルティのデバフがなくなったんじゃないですか?」
「あー。えー? あるんだ、そんなの」
「なるほどなー。重量が超過した状態で水に潜ることなんかないからな。勉強になったわ」
「ほら」と俺は、尻餅を突いた状態のUO姫に手を差し伸べる。
UO姫は「あっ……」と驚いた顔をして俺の手を見つめた。
「えっ……い、いいの?」
「何がだよ。とりあえず掴まっとけ。そしたら吹っ飛んでいかないだろ?」
「……う、うん……」
UO姫はおずおずと手を伸ばして、俺の手を握る。
……んー。
珍しくしおらしいUO姫にときめくところなのかもしれんが、見た目が俺だとまったく絵にならんな……。
ぐいっと引っ張って立ち上がらせると、UO姫は俺の肩に手を乗せた。
……そして、なぜか二の腕のほうに手を這わせてくる。
「……うへへ。チェリーちゃん……」
「「キショい!!」」
俺&本物のチェリーの拳が、UO姫の顔面に両側からめり込んだ。
「うわったーっ!? ……ちょ、ちょっと二人ともさあ! なんかミミの扱い雑じゃない!? いつもこんなに殴ったりしないじゃん!」
「いや、やっぱ見た目が男だと殴りやすくて」
「先輩の見た目でキモいことしないでくださいホントに。激しく解釈違いです」
「……美少女に戻りたくなってきた……」
200%自業自得だ。
「行くよー、みんなー! まずはあっちの神殿からー!」
「はーい!」
天初の呼びかけに応じ、俺たちは第9層の攻略を開始した。




